#4100/5495 長編
★タイトル (HYN ) 97/ 8/20 11:44 (200)
駅(2) りりあん
★内容
駅(2)
りりあん
「じゃあ、お父さんの跡を継ぐんだ」
そういう事情があって医科大学を選択したのならまだ理解できる。
「人はすぐそう言うけど、私、そんなつもりはないの」
ユカ突然向き直って僕を見据え、語気を鋭くして言い放った。大きな瞳に苛立
ちがはっきりと現れている。こんな彼女を見たのは初めてだ。僕は返す言葉を
失った。
車内アナウンスが蚊の鳴くような声で駅名を告げる。スピードが徐々に落ち
てゆく。
ユカはぷいと横を向いた。何故機嫌を悪くしたのかさっぱりわからない。
「なに怒ってんだよ」
口の中で低く呟いた言葉に、
「怒ってなんかいないわ」
と彼女はむきになって言い返した。だったらなんでそんな顔するんだよ。険悪
なムードが漂い始めるのを止めることはできなかった。
電車はダイヤ通りに動いていた。プラットホームで止まりドアを開ける。こ
こでも降りる客はほとんどいない。そのかわり待ちくたびれた顔の人々が冷え
た空気を道連れにして乗りこみ、細長い鉄の箱はたちまちいっぱいになった。
気持ちをかき乱す発車の電子音が響き、ドアが閉まる。窓はますます曇り外の
様子はあまりうかがえない。だが雨がまだ降り続いていることはわかる。
ユカはうつむいて自分の髪を弄んでいた。僕は僕で週刊誌のけばげはしい吊
り広告に目をやった。字面を追っていても隣りにいるユカが気にかかる。せっ
かくの再会がこくな形で終わるのは嫌だ。でも彼女の心をどうやってほぐせば
いいのだろう。気に障ることを言って悪かったと詫びてしまおうか。いや、待
てよ。なんであやまるんだ? ユカのほうこそ説明するべきじゃないか。僕は
両腕を組んで深呼吸するように大きく息を吐いた。そうでもしなければ腹立ち
の中に飲みこまれてしまいそうだった。
「直人……」少し鼻にかかった声がした。
「ん?」
いいかげんな返事をした僕の目に、いくらか青ざめたユカの顔が映った。彼女
の潤んだような瞳に気づいたとき、不満や怒りが嘘みたいに消え去るのを感じ
た。いとおしさだけが胸の中に溢れてくる。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
確かに車内の空気はよくなかった。締め切っている上に混んでいるからよけい
に息苦しく、まとわりつくような湿気はさらに不愉快な気分にさせた。だがユ
カは首を横に振って、
「さっきはごめんね。つい感情的になっちゃって……」と言った。
「別にかまわないよ。僕のほうこそ、気に障るようなこと言ってすまなかっ
た」
結局あやまってしまったか。
「それより、ほんとに大丈夫か? 顔色よくないぞ」
「平気だから……、心配しないで」
ユカはそう言うが心なしかその声は弱々しい。
無理するなよと僕が続けようとしたとき、いきなり急ブレーキがかかった。
鋭い金属音と共に乗客のほとんど全員が進行方向へ斜めに引っ張られる。ユカ
がとっさに僕の肘をつかんで身体ごと飛びこんできた。彼女を受け止めるのと
同時に僕は自分自身をも支えなければならなかった。
ざらついた声のアナウンスが停止信号であることを告げる。電車が完全に止
まっても、僕らは瞬間接着剤で貼り付けられたみたいな格好をしていた。やわ
らかなふくらみを持った華奢な肢体、震えるような息づかいと甘い匂い。僕は
軽いめまいを覚え、そしてある記憶の中にゆっくりと落ちていった。
梅雨の晴れ間、くすんだ青空が広がる暑い日曜日、僕はユカの家にやってき
た。
実を言うと、ここの玄関の内側に入るのはその日が初めてだった。グレーの
じゅうたんを敷き詰めた住宅の中は妙に静かだったのをいまでも覚えている。
本格的な受験勉強に入る前の最後の楽しみ。訪問の目的はその程度に過ぎな
かったと思う。ユカの家族が留守なのをいいことに、ファミコンの対戦ゲーム
をして大騒ぎしたり、庭でバレーボールの真似ごとをして夕方まで遊んだ。こ
のときほど日暮れがうらめしかったことはない。
帰る間際、玄関先でスニーカーを履こうとしたときのことだ。
「直人さぁ……」
ユカは歯切れの悪い言い方をした。彼女にしては珍しい。
「なに?」
「ううん、なんでもない」
「気になるだろ。言ってみろよ」
だがユカはうつむくだけで何も答えない。
「ちゃんと聞くからさ」
僕はそう言って彼女の顔を覗きこんだ。唇をきつく噛みしめて何かをこらえて
いるように見える。不安と共にいやな予感が胸の中に広がっていく。
「……言えよ」
我ながら情けないほど動揺していた。恋愛と受験勉強は両立しない。密かに怖
れていた台詞がユカの口から出るかも知れないと思うと、いたたまれない気持
ちになった。
「今日は面白かったよ、たまにはこういうのもいいな。それじゃ……」
声の震えを抑えきれず、僕はユカに背を向けるしかなかった。
「直人、待って!」
ユカは悲鳴に近い叫びをあげて後ろから僕にしがみついた。
どうなってるんだ?
頭の中も心の中も引っかき回されたように混乱している。
「私……、ずっと……」
もはや言葉にならなかった。ユカはTシャツの背を濡らしてしゃくり上げる。
頼むから泣かないでくれ。
僕は覚悟を決め、向き直ってユカを抱きしめた。なんてやわらかいのだろう。
立ち上る甘い匂いがじわじわと嗅覚を刺激する。しなやかな細い腕が答えるよ
うに僕の首に絡みつく。
「高校に行っても……直人と……」
そこまで言って、息をせわしなく吸いこむ。
「直人とおんなじ制服がいい……。いっしょじゃなきゃ……やだ」
うれしかった。そしてほんの少しでもユカを疑った自分を恥じた。自然と腕に
力が入る。
「一緒にいよう」
ユカの耳元で囁いた。互いの鼓動が共鳴するようにぶつかりあう。僕は自分の
中で目覚めた何かに突き動かされ、半ば我を忘れて彼女の唇を吸った。生まれ
て初めて味わう熱い沈黙のひととき。
だがそれは、けたたましい音にあっさりと引き裂かれた。電話のベルが休み
時間の終わりを告げたのだ。ふたりとも黙って手を離すしかなかった。鳴り続
ける小型機械を無視するには、まだ幼すぎたのかもしれない。
玄関を出たとき道の上には生け垣の長い陰が落ちていた。強い南風が横から
吹きつける。
僕はふと空を見上げた。
迫り来る闇に逆らう夕日が恐ろしいほど美しかった。
がくん、と車両が揺れる。無表情の裏に苛立ちを隠した人々を詰めこんだ巨
大な缶詰がそろそろと動き出す。
「やっと走り出したな……」
僕はそう呟いた。思い出に浸りきることのできない自分がそこにあった。ユカ
は何を考えているのだろう。
「次の駅で降りて少し休んでいくか?」
「そんなことしたら……遅刻するわ」
彼女は軽く首を振り、大丈夫だからとでも言うように僕の顔を見て軽く微笑ん
だ。
「真面目なやつだな、ユカは」
嫉妬に似た感情が胸の中に生まれていた。たとえ身体は触れあっていても、心
の距離は限りなく遠い。いまの僕にと再び吊り広告を眺める程度のことしかで
きなかった。
駅に着くまで2分とかからなかったと思う。別の路線が乗り入れていること
もあってか、車内にいた半分程度の乗客が降りていく。
ユカと僕は生暖かい座席に並んで腰を下ろした。リュックを膝の上に置いて
なんとなく腕組みをしてみる。落ち着かない気持ちとある種の居心地悪さが、
僕の内側で同居していた。ユカのほうはトートバッグを大事そうに抱えてうつ
むいている。
「変だと思ってるんでしょ?」
小さな声が確実に要点をついてきた。
「血を怖がってたくせにね」自嘲気味に言う。
「別に変だなんて……思ってない」
「相変わらず嘘が下手ね、直人は」
「上手いよりはましだろ」
ああ、しまった。ユカは喉の奥で必死に何かを噛み殺している。墓穴を掘った
気分だ。
「……正直で悪かったな」
僕がややむっとして無愛想な台詞を吐いたとたん、ユカはとうとう吹きだして
しまった。小さな笑い声なのに、やけに響く。立っている乗客のうちの数人が
こちらへ好奇の目を向ける。
「なに笑ってんだよ」
肘で軽くユカをつつきながら、僕自身もこみ上げるくすぐったさをこらえてい
た。
「なんだか急に可笑しくなっちゃって……」ユカは目尻を指で拭う。
「それだけ元気があれば大丈夫だな。さっきは本気で心配してたんだぞ」
「わかってる……ありがとう、直人」
お礼の言葉なんてどうでもいい。君の笑顔だけで十分なんだ、ユカ。
「でも凄いよなぁ、医学部に入るなんてさ」
「ラッキーだっただけよ、駄目で元々だって思ってたんだもの」
「じゃあ、血液恐怖症は直ったわけだ」
いつからこういう嫌味な言い方しかできない身体になったのだろう。やわらい
だ気持ちがまたたく間にしわくちゃになっていく。僕は上を向いて、頼りなく
揺れる吊革の周辺を視界に入れた。こちらを見ていた中年の男が慌てて目をそ
らす。
「そうね……昔ほど怖がらなくなったかな」
「成長したじゃないか」
ユカの顔を見る代わりに口元を僅かに歪め、ぶら下がっている白い輪に言葉を
かけた。
「そんなことを言ってくれるのは直人だけよ」
余裕の笑みを含んだ声に後押しされ、僕はあることを尋ねてみる決心をした。
「ひとつ、訊いていいか?」ちらりと隣を見る。
「……なんで医者になろうと思ったのかって言いたいんでしょ?」
「う、うん……」
ユカはいきなり質問の内容を先回りしてきた。たぶん、この手の話は何度も繰
り返されてきたのだろう。うんざりしていても不思議はない。だから僕には彼
女の台詞を“かわいくない”という一言で、簡単に決めつけることはできなか
った。
「実はね、お父さんには反対されたの。女の子がやるもんじゃないって。で
も医者の仕事は確かにきついけど、男女平等だし、やりがいあると思う。世の
中がどんなに変わっても通じる資格でしょ、これは。それに私はうちのお母さ
んみたいな専業主婦は向いていないしね。夫の帰りを待つだけの女なんて厭だ
もの」
ユカはいやにさばさばした調子になって続けざまにしゃべった。この長台詞は
彼女の本音を全て語っているのだろうか。何故そんな疑いを持ったのか、自分
でも説明がつかない。だが目標を発見できた人間は幸せだ。いまの僕に言える
のはただそれだけだった。
「そうか……、案外しっかりしてたんだな。見直したよ」
その言葉も嘘ではない。
「ねぇ、直人はどうなの? さっきから私の話ばっかりじゃない」
「僕のことなんか、面白くないぞ」
訊かないでくれ、頼むから。
「そんなことないわよ。志望校とか考えてるんでしょ?」
「それは、まぁ……」
僕はなんとも煮え切らない返事をした。
「直人だったら、やっぱり文系?」
ユカはなおも尋ねてくる。適当な大学名をあげて質問の矛先をかわす余裕さえ
ない。表情が急速にこわばってくるのを覚え、思わず下を向いた。
「……わかんねぇ」
突っ張った舌が許可もなくそう答えた。
「え……?」ユカがとまどった声を出す。
至極(しごく)まっとうな反応だった。だがそれを理解できるだけの常識は身
勝手な甘えに押し流された。
「わかんねぇって言ってんだよ!」
心の底に潜んでいた燻り(くすぶり)が一気に燃え上がった。両手が固い拳を
作る。歯ぎしりしたくなるような苛立ちが僕をたちまち支配した。突き刺さる
ような視線が与える痛みはおろか、恥ずかしさも惨めさも感じず、ユカに謝ろ
うという気持ちさえ湧いてこなかった。
「ごめんね……」
ユカ、どうして君が詫びるんだ?
これじゃ3年前と同じになっちまう……。
校庭の水たまりに薄氷が張ったあの日、僕は担任に呼び出された。
「私立高校だけでなく、県立のM高校も受験してみないか。成績も順調に伸
びているし、高橋なら素晴らしい結果が出せると思う」 つづく