AWC 駅(1)         りりあん


        
#4099/5495 長編
★タイトル (HYN     )  97/ 8/20  11:40  (200)
駅(1)         りりあん
★内容
            駅(1)
                       りりあん

 僕は走っていた。
霧のような雨が真正面から吹きつける。まるで冷水シャワーを浴びている気分
だ。思わず手の甲で顔を拭う。
 小さなコンビニが視界に入ったが、立ち止まるつもりはなかった。向こうに
見える角を曲がれば駅はもう目の前なのだ。僕は店を無視して駆けぬけた。
 今朝、親父と言い争ったのがケチのつきはじめだったのかもしれない。ムシ
ャクシャする気持ちを抑えきれなくて、いつもよりかなり早く家を飛び出して
しまった。その結果がこれだ。全くついてない。
 足元に細かい水しぶきが立つ。スニーカーの中にいやな湿り気が広がる。脚
が急に重くなった。僕は自分自身を奮い立たせるべく顔を上げて前を睨んだ。
宙に浮かぶ高架線路が、灰色と古びた街とを区切っている。その上を見慣れた
銀色の電車がスピードを落として進んでいく。
 絶対あれに乗ってやる。いつしか僕の中に強いこだわりが生まれていた。
 背の低い雑居ビルの角を左に折れた。ちっぽけな駅が上下しながら迫ってく
る。僕はジーパンのポケットを探り、定期を引っぱり出した。自動改札をもど
かしい思いで通りぬけ、最後の力を振り絞って階段を駆け昇った。
 かん高い発車のベルが響く。プラットホームの上にたどり着いたとき、車両
のドアはまだ開いていた。
 両膝が震え、息が切れる。だがドアは僕を簡単に見限り、一斉に閉じてしま
った。メタリック塗装の壁が低いうなりをあげて鼻先を通り過ぎていく。
 文句を言う気にもならなかった。立っているのが辛くて腰をかがめ、小刻み
な揺れが止まらない膝に手をついた。肩で息をするたびに干上がった喉の奥が
ひりひりする。つい咳き込んでしまった。胸の内側では心臓が狂ったように暴
れていて、痛いくらいだ。典型的な運動不足だと思う。いや、それだけではな
く去年覚えたタバコのせいもあるに違いない。
 僕はそのままの姿勢で顔だけを上げた。黒光りする線路や低いコンクリート
塀の向こうに、雨に煙る街が広がっている。このときになってやっと、頬をつ
たう水滴に気づいた。手で軽く拭い、ゆっくりと身体を起こす。荒い呼吸はま
だ治まっていない。僕は背中からリュックをおろし、ポケットのファスナーを
開けて中を探った。でも指に触れるものは何もない。そうだった、ハンカチは
昨日洗濯機に放りこんじまったんだ。こんなことなら、もう一日使えばよかっ
た。口の中で声にならない悪態をつく。
 仕方なく、再びリュックを背負った。落ち着いてくるに従い、冷たい湿気が
身体中に貼りつくようで、なんとも気持ちが悪い。その感覚を少しでも振り払
いたくて僕はぶらぶらと歩きだした。リュックの中にある参考書や、予備校の
テキストに目を通す気にはなれなかった。
 他に人影は見当たらない。薄汚れたベンチの前を通り過ぎた。緩やかな傾斜
のついた屋根からは、大粒の水滴がたえまなく落ちる。おそらく本降りになっ
たのだろう。軽くため息をついて前を向くと、プラットホームの端を示す金網
が目に入った。行き止まりは近い。やるせない気分になる。
 ふと誰かに自分の名を呼ばれたような感じがした。きっと空耳だ。僕はその
まま歩みを進めていく。
 「直人!」 
はっきりと聞き覚えのある高い声。胸が震え、動けなくなった。ヒールの音が
慌ただしく追いかけてくる。振り返るのが怖い。どんな顔をすればいいのか。
 「……直人でしょ?」
だが急に頼りなげになったその声が、結局僕を振り向かせた。
なんだ、ユカじゃないか。
そう言おうとして喉を詰まらせた。声帯を震わせるにはいくらかの湿り気がい
るらしい。
 「大丈夫?」
ユカは眉を僅かに歪めた。僕は軽くうなづきながら唾を飲み、咳払いをした。
 「ほんとに久しぶりよね、3中の卒業式以来だもの。元気だった?」
安心したように微笑む。ちょっと首をかしげて言う癖は変わっていない。赤い
唇の女が一瞬、ポニーテールの少女に戻る。T市立第3中学校。彼女と初めて
出会った場所だ。
 「ああ……、ユカも相変わらず元気そうだな」
 「直人、濡れてるじゃない」
彼女は傘を持ちかえると、右肩にかけたトートバッグから花模様のハンカチを
取って、僕の胸元へさりげなく差しだした。
 「いや……いいよ。そのうち乾く」
見栄をはっているのではない。
 「風邪ひくわよ。あのときみたいに」
ユカはハンカチを引っ込めようとしない。まるでお袋と同じだ。
 「ばか言うなよ」
ユカは覚えているのだろうか。そう思ったとたん首から上が急に熱くなった。
顔が火照るのを見られたくなくて彼女に背を向けた。雨だれはいつの間にか細
い糸に変わり、街はもやがかかったように霞んでいる。

 あの日もこんな天気だった。午後になって降り始めた雨は止みそうになく、
僕はひとり3中の玄関ホールで途方にくれていた。
 「高橋君?」
肩越しに振り向くと二重まぶたの大きな瞳が僕を見つめている。ユカだった。
心臓の鼓動が耳の奥で大きく響く。
 「河野さん……、まだいたんだ」
僅かに反響した声は、停滞した空気だけでなく僕自身をも震わせた。
 「週番の班長だから。……高橋君は?」
ユカは小首をかしげて言う。その仕種が大好きだった。
 「僕は、その……、図書係で、図書室の本の整理を……あ、今日は渡辺が休
みだから……」
焦れば焦るほど、わけのわからない物言いになった。恥ずかしさと惨めさが入
り乱れ、身体中から冷や汗が吹きだす。もはや唇を堅く結んでうつむくしかな
かった。
 「ひとりで頑張ったのね、大変だったでしょ」
優しい声が一番伝えたかったことを言ってくれた。その台詞に励まされて少し
顔を上げる。
 「雨……、まだ降ってるのね」
ユカは僕の脇をすり抜け、ガラスドア越しに外を覗きこんだ。僕も引き寄せら
れるようにして彼女の隣に立った。空いっぱいに広がった青黒い雲から無数の
水滴が落ちてくる。それは土が剥き出しになった校庭を打ちすえ、所々に大小
さまざまな水たまりを作っていた。
 困惑した表情のユカを横目で盗み見る。彼女とふたり、ホールに閉じこめて
くれた雨に心の中で感謝した。ここで時間が止まってくれたらどんなにいいだ
ろう。だが僕の甘ったるい夢想は、部活を終えたらしい数人の男子生徒がふざ
けあう声に掻き消された。ばか騒ぎが意外な速さでこちらに向かってくる。ふ
たりきりでいたいのに。
 「待ってても、止まないな。途中まで送るよ」
何かが乗り移ったように、僕は普段なら到底口にできない言葉を吐いた。素早
く金色のボタンを外して上着を脱ぐ。そして茫然とするユカに、それを頭から
すっぽりと被せた。ガラスドアを勢いよく開け、彼女を抱えるようにして雨の
中へ飛びだした。
 泥水を跳ね上げて校庭を駆け抜ける。校門を出てすぐ右に折れ、夕暮れが忍
び寄る狭い舗道をひたすら突き進む。白いシャツが少しずつ透き通り、身体に
に貼りつく。
 住宅地を抜けると車道に出た。青信号が点滅する横断歩道を渡り、左に見え
る停留所に向かう。小さい傘みたいな屋根の下に入るのと、バスがしぶきを上
げながら急停車するのとはほとんど同時だった。
 鉄のドアが無愛想に開く。僕は急いで上着を取り外した。ユカは全くと言っ
ていいほど濡れていない。、肩を激しく上下させ、まばたきひとつしない瞳で
僕を見た。少し開いた唇が物言いたげに震えている。僕は答えるかわりに黙っ
て彼女の背中を軽く押した。
 セーラー服がステップに上がる。待ちかねたようにドアが閉まると、小柄な
身体はたちまち消えてしまった。大きな無機質の箱は黒い煙だけを残し、ユカ
を連れ去っていく。
 ついさっきまで僕の身体を支配していた得体の知れない力が、いっぺんに抜
けてしまうのを感じた。強い疲れと猛烈な寒さが餌を見つけた猛獣のように襲
いかかる。もはやそれに抵抗することはできなかった。
 その後、僕は40度近い高熱を出して寝込み、学校を一週間も休んだ。肺炎
にかからなかったのは5月だったせいなのか、それとも単に運が良かっただけ
だろうか。どちらにせよこれがきっかけでユカと付き合うようになったのだ。 
 
 「もう……素直じゃないんだから」 
ユカが僕の背中に向かって、ため息まじりの声で呟いた。彼女は会わなかった
月日を軽々と越えてしまう。僕は自分の時間が止まったままなのを、目の前に
突きつけられたような気分になった。
 「……いま、何してんだよ」
ジーパンのポケットに両手をつっこみ、苦しまぎれの台詞を吐いた。肩越しに
振り返ってユカを見る。
 「女子大生してるの、いちおう」
そう言ってハンカチをバッグにしまい、傘の柄をくるくると回しながら光沢の
ある生地をまとめた。同じ色の布でできた細い紐でそれをしっかりとくくる。
 「直人は?」
ユカはふいに顔を上げた。目と目が合った瞬間、僕はまた背を向けた。
 「予備校通い」
泣き続ける軒先を見上げてぶっきらぼうに言った。浪人したのを恥じなかった
のではなく、事実を隠しても意味がないと思ったからだ。
 「……そうだったの」
ユカの言い方は淡々としていた。驚きもなく、哀れみもない。むしろそれがあ
りがたかった。
 「勉強しなかったからな」
雨に向かってそう声を張り上げたとき、僕自身の中にやり場のない怒りみたい
なものが突然沸き上がった。だったら、この3年間は一体何をしていたという
のだ。
 かわりばえのしない構内アナウンスがスピーカーから垂れ流される。まもな
く電車が到着するらしい。よかった。なんとか気持ちを切り替えられそうだ。
 「授業あるんだろう。なんでこんな半端な時間にいるんだ?」
僕はややうつむきかげんで2、3歩後ろに下がった。偶然にもユカのすぐ隣に
立つ。
 「午前は休講になったからのんびりできるの。直人こそどうして?」
 「同じようなもんさ。それよりユカは気楽そうでうらやましいな」
口から飛び出した台詞は取り返しがきかない。他人になら何と思われたってか
まわないが、ユカに卑屈な物言いだと軽蔑されるのは厭だ。胸の奥がどうしょ
うもなく、ささくれだっていく。
 「今日みたいなのは例外。普段は朝から夕方までびっしり詰まってるんだか
ら」
ユカは軽く首を振った。肩まで伸びたまっすぐな黒髪が揺れる。かつて僕を幸
福に導いてくれた全ては、もはや色褪せて効力をなくしていた。思いがけない
事実に少なからず動揺し、そして時がたつことの残酷さを改めて思い知らされ
た。
 銀色の車両が、その巨体を僅かに震わせながらプラットホームに滑り込む。
やがて耳障りな悲鳴を上げて止まり、けだるそうにドアを開けた。下車する乗
客はほとんどいない。中に足を踏み入れると、水分をたっぷりと含んで重く澱
んだ空気に迎えられた。特に混むような時間でもないのに空いている座席はひ
とつもなく、吊革や手すりに捕まっている人がかなりいる。
 僕とユカは反対側のドアのすぐ前に立った。丸みのある大きな長方形にくり
ぬかれた窓は乳白色にうっすらと曇り、その外側には歪んだ形の水滴が一面に
へばりついている。
 「大学生ってもっと暇なのかと思ってた」
そう言ったときドアが鈍い音を立てて閉じた。足元がゆっくりと動き始める。
 「大学にもよるんじゃないの?」
ユカは窓に目をやったまま、電車の揺れに身をまかせていた。
 「どこ行ってんだよ」
右肩でドアに寄りかかり軽い気持ちで聞いてみた。
 「N医科大学」
ユカは何のてらいもなく、他人事のように答えた。表情ひとつ変えようとしな
い。 
 「もしかして、医者になるのか?」
僕は驚きを隠しきれなかった。血を見るのが大嫌いだったのに。解剖実習のと
きだってそうだ。カエルの腹を裂くのは嫌だと言って大泣きしたのをよく覚え
ている。
 「もちろん」
ユカは少し首をかしげて僕を見た。口元には笑みさえ浮かんでいる。彼女が急
にわからなくなった。
 「でも……」
どうしてなんだ、と言いかけてやめた。ユカの父親は医者なのだ。父親が長女
である彼女に、跡継ぎになって欲しいと望んでも別におかしくはない。問題は
それを受け入れるかどうかだ。本心からあの仕事をしたいと思っているのだろ
うか。
 「なによ、変な顔して。私がドクターになったらおかしい?」
赤い唇をほんの少しとがらせて言う。
 「そんなこと言ってないだろ。ただ、ちょっと意外だったから……」
理科室で涙していたユカと、いま目の前に立っているユカはどうしても繋がら
ない。別人みたいだった。なにが彼女を変えたのだろう。だがそれを探る勇気
はなかった。

                          つづく
 




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