#4102/5495 長編
★タイトル (HYN ) 97/ 8/20 11:51 (150)
駅(4) りりあん
★内容
駅(4)
りりあん
「直人は終点まで行くの?」
「……うん」
予備校へは終着駅からバスで5分程度のところにある。
「ユカは乗り換え?」
「そう、また小一時間は揺られていくわけ」
「大変だな、そりゃ」
「駅に着いても15分は歩かなきゃなんないし。一ヶ月の間、我慢してきた
けど、もううんざり」
最後の言葉に力が入っていた。なるほど、雨に降られればよけいに嫌気がさす
だろう。
「だから、ほんとは学校の近くに部屋を借りたいのよね」
「ひとり暮らしか……」それも悪くない。
「でもなかなか許してもらえなくて」
「まぁ、親としては心配なんだろうな」
「それはわかるけど、往復で3時間以上かかるのよ。実習なんかが始まった
ら、すごく忙しくなるっていうし。通学にエネルギーを吸い取られるなんて
厭だわ」
ユカは小さなため息をついて軽く首を振った。
「時間の無駄ってわけか」
遠距離通勤の親父に同じような台詞を言ったらさぞ怒るだろう。たとえそれを
正しいと思っていたとしても、親父は僕を殴る、いや殴らなくちゃいけない。
家族を養う立場にいる者として当然の行為だ。でも僕は親父とは違う。食わせ
てもらっているとはいえ、無駄なものを無駄だと言える自由はあるはずだ。
「私、絶対諦めないわよ」
ユカの強さはどこから来るのだろうか。うらやましいというより、ある種の畏
怖の念を持って彼女の横顔を見た。かつて誰よりもよく知っていたはずの少女
はいない。だが不思議と寂しさは感じなかった。
「どうせいつかは飛び出していくんだもの」
そうだよな。時期は人それぞれでも、いずれは皆どこかへ旅立つんだ。たとえ
行く先々で冷たい水をかぶっても、震えながら歩いていかなきゃならない。僕
はこんな当たり前のことに気づかなかった自分が可笑しくてならなかった。
「ちょっと、何ニヤニヤしてるのよ」
「いや、別に……」平静を装う。
「ふうん、変なヤツ」
と言うが早いか、彼女はいきなり僕の脇腹をくすぐった。
「や、やめろってば!」
むずむずする感覚に耐えきれず、悲鳴とも笑い声ともつかない叫びをあげて身
をよじる。ユカはいたずらっ子のような顔をしてなおも攻撃の手を緩めない。
「やったな、こいつ!」
僕も彼女のすきを突いて脇腹をくすぐる。はしゃいだ、かん高い声が響く。そ
ういえば遠くない過去、こんなばかな遊びをしたこともあったっけ。でもいま
さらあのころの自分に逆戻りはできない。結局僕は終わってしまった事柄にこ
だわるあまり、前を見ていなかったのだ。そうやって後ろ向きの生活をしてい
る間に、ユカは意志の強い女性としてたくましく成長していったのだ。
「ちょ、ちょっとタンマ」
ユカが笑い半分で息を切らしながら言う。
「なんだよ、もう降参か?」
そう言う僕も声が弾んでいた。だいぶ少なくなったとはいえ、座席を8割方埋
めるほどの乗客はまだ残っている。彼らがかもし出す無言の圧力にようやく気
づいた。
「だってムキになるんだもの」
細い指が乱れた前髪をしきりに整えている。
「おまえが妙なことするからだよ」
むっとしたような言い方をしたが、本気ではない。
「スッキリした?」
「なにが?」
「ううん、なんでもなぁい」
ユカはわざとらしく語尾を引き伸ばした。僕もそれ以上彼女に尋ねるつもりは
なかった。心遣いは黙って受け取っておくものだから。
ひび割れた声のアナウンスが聞こえた。終点まで、あとふたつ。
穏やかで暖かい空気が満ちあふれていた。僕のひしゃげた気持ちが徐々に本
来の形を取り戻しつつあるようにさえ感じる。
「ほら、やっぱり雨が上がったのよ」
ユカの声に思わず顔を上げて向かい側の窓を見た。中途半端に曇ったガラスの
右上が金色に染まっている。そしてこの光が急速に勢力を広げるに従って、車
内には5月らしい明るさが甦る。黒ずんだ床には黄色くて長方形の新しい窓が
出来た。自信と力強さを合わせ持った自然の松明(たいまつ)が、僕を真正面
から照らしだす。眩しい。だが僕は軽く目を細めただけで、閉じたりすること
はなかった。
「よかったな、ユカ」心の底からそう思う。
「うん、よかった」
ユカの声が少し震えているように聞こえたのは単なる空耳だったのだろうか。
スピードが落ちてゆく。もう1、2分もあれば、楽々とプラットホームに滑
りこめるに違いない。行かなくては。僕には髪の毛ひと筋ほどの迷いもなくな
っていた。
「ここで降りるよ。友達と待ち合わせの約束してたのに、すっかり忘れてた
んだ」
光が方向を変えて僕の上半身に薄い陰を作る。リュックを右手にそそくさと立
ち上がった。まぶたの裏側には、鮮烈な黄金の破片が残像となって不規則にう
ごめいている。
「あら、そうだったの」
ユカは楽天的であっけらかんとした言い方をした。僕は黙ってうなづく。網膜
上の黄色い斑点がうっとおしい。
素早くリュックを背負う。いやらしいほどの重みも、いまはさほど気にはな
らない。電車は早歩きの速度にまで落ちている。
視界がやっとクリアーになり、僕は座ってるユカをとらえることができた。
そこにいたのはセーラー服の少女でも、赤い紅をひいた見慣れぬ女でもなか
った。澄んだ目をして頬に優しい笑みを浮かべた、間違いなく僕と同じ時代の
空気を吸って生きているひとりの人間だった。
「ユカ、僕にもツキが回ってくるかな?」
唐突な質問を吐いてみる。
「それは自分次第だと思うけど……、でも直人だったらきっと大丈夫よ」
静かだが確信を持った言葉が、生まれたばかりでまだふにゃふにゃしている決
心を勇気づけてくれた。
「ありがとう」
目の奥が熱くなった。
車輪の軋む音が内部まで響く。僅かな揺れの後、狭い穴から空気を噴出させ
るような音を立ててドアが開いた。
ユカは笑顔で手を振った。僕もそれに答えて後ずさりしながら軽く右手を上
げる。ありきたりの言葉はお互い口にしなかった。かつて愛した人の姿が、ま
ぶたの奥に焼き付きさえすればそれで十分だったから。
発車の合図が終幕を告げる。きびすを返し、人けがなく狭いプラットホーム
上に降り立つ。
壁際の茶色いベンチにかかっていた細長い陰がゆっくりと動き始める。
僕は出口へ通じる階段へと足を向けた。少しずつ歩調を早めてゆく。
長々と連なる段差を下り、改札口を出る。
目の前にはいつも通り過ぎるだけの街が、降り注ぐ陽光に照らされていた。
濡れそぼった黒いアスファルトが煌めき、車道の白線も色鮮やかに浮き上がっ
て見える。中央に具象彫刻の像が置かれたロータリーには、数台の自家用車と
タクシーが路上駐車している。
僕はそれに沿ってカーブする歩道をぶらぶらと進んだ。青い小型ワゴン車が
止まっている鉄の小箱の隙間をぬって、悠々と走っていく。急ぎ足の人々が何
かに引っ張られるようにして行き交っている。
ふと気がつくと、僕は横断歩道のところに立っていた。歩行者用の信号が赤
になり、国産自動車の波がいっせいに動き出す。
これからどうしようか。
友達と会う予定はもちろん、どこへ何をしにいくというあてすらない。
自分のことは自分で決めなければ。
いま思うと、僕はいつも他人から目標を与えられていたような気がする。高校
受験のときだってそうだ。同じ学校に行くという目的をユカから貰っただけで
満足してしまったのではないか。己の頭で考えた結論を持っていなかったから
気持ちの切り替えもできず、どこかで誰かが助けてくれるのを待っているよう
な存在にしかなれなかったのだ。
どうせいつかは飛び出していくんだもの。
ユカの台詞が心の中でこだまする。
信号は赤のままだ。
空を見ようと顔を上げたとき、鮮やかな光の矢が僕の目を射抜いた。眩しさ
のあまり、思わず手をかざすと同時にまぶたを閉じる。放射状の残像が現れた
かと思うと、一瞬のうちに消えた。
ゆっくりと目を開け、指の隙間から刺した犯人をとらえようと試みる。
それは反対側に建っているビルの窓ガラスだった。勢いづいている日光を拒
むかのように反射している。
僕は手を下げて視線を足元に落とした。くたびれたスニーカーがまず目に入
る。そしてアスファルトの地面。
おそらく、ユカの歩く道と僕が歩くであろう道はもう交差しないだろう。
何故かそんな予感が胸をよぎった。でもそれは必ずしも悲しいことではないの
だ。
僕の中には彼女と過ごした日々が美しいかたちとなって眠っている。今日偶
然再会できたことも、明日になれば思い出になる。これでいいんだ。
直人だったらきっと大丈夫よ。
ユカ、君を好きになってよかった。行き着く先には何が待っているのかわから
ないけれど、自分を信じて頑張ってみるよ。
青のランプがつく。
僕はまた走りだす。
失敗を恐れない開拓者となって。
了