AWC 代償   第二部 10    リーベルG


        
#4087/5495 長編
★タイトル (FJM     )  97/ 8/17   0:13  (188)
代償   第二部 10    リーベルG
★内容

                10

 月曜日。
 放課後、進路相談室に現れた志穂は、先週とはうって変わって明るい表情をし
ていた。
「ごめんなさい」由希は席につくなり謝った。「桜井さんに会えなかったみたい
ね」
「ええ。でもいいんです」
「そう?」由希は志穂の顔をじっと見つめた。「何かいいことあったみたいね」
「わかります?さすが先生ですね」
 由希は苦笑した。
「誰だってわかるわよ」
「そ、そうですか」志穂は照れくさそうに笑った。「そんなに嬉しそうですか?」
「少なくとも悩みを抱えているようには見えないわね」
「やだなあ」
 志穂は何かを期待するように由希を見つめた。その視線に数秒間耐えた後、由
希はため息をついた。
「わかったわよ。何があったの?まあ、だいたい想像はつくけど」
「聞きたいですか?」
「彼氏でもできたんでしょう」
「すっごい!どうしてわかったんですか!?」
「ティーンの女の子のいいことっていうのは、大抵そんなものだからよ。後は体
重が3キロ落ちたとか、キムタクと握手できたとかね」
「あ、でも、まだ彼氏と呼べるほどの仲にはなってませんけど」
「なるほど。よかったら詳しく話してくれる?話したくてうずうずしているみた
いだけど」
 志穂は喜び勇んで、田辺俊哉との出会いを興奮した声で語った。
「……それから、田辺さんの車でレストランに行ったんです。あ、車ってのは、
ブラウンメタのパジェロですけどね。で、本当に親身になって、あたしの話を聞
いてくれたんです。田辺さんはK大の医学部の研究室で研究してるんですって」
「それで天野さんの悩みは解決したの?」
「うーん。まあ、根本的には解決してませんけど。だってまだ噂は続いているわ
けだし。でも、だいぶ気は楽になりました。結局あたしがつまらないこと気にし
なければいいんだってわかったから」
「それならいいんだけど」そう言って由希は少し眉をひそめた。「でも、その田
辺さんだっけ?本当に大丈夫?こんなこと言うのは何だけど、その、最近は女子
高生の身体目当てで親切顔で近寄ってくる男もいるから……」
「大丈夫ですよお」志穂はけらけらと笑った。「あたしだって、うぶな小娘って
わけじゃないし。それにどっちかって言えば、あたしが好きになったんですから」
「そう。まあ、ただあなたは受験生なんだから、おつきあいもほどほどにね」
「それはわかってますけど」
「恋愛と受験が両立しないなんてことは思わないけどね。えっちするな、とは言
わないけど、避妊だけはしっかりするのよ」
 志穂は顔を赤らめた。
「まだそんなところまでは……キスもしてないのに」
「キスを許したら、残りを全部許したようなものよ。これは先生という立場じゃ
なくて、年上の女として訊くんだけど、天野さん、経験は?」
 志穂の顔はますます熱くなった。
「ええと……その……まあ、それなりに」
「今まで何人ぐらいと?」
「二人です」消え入りそうな声で志穂は答えた。
「そっか。じゃあ、今さらあれこれ注意することはないわね。避妊だけは相手に
任せずしっかりやるのよ。それさえ守っていれば、もう先生の言うことは何もな
いわ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、また何かあったら、いつでも相談に来て」
「はい」
 志穂は頭を下げると、足取りも軽く相談室を出ていった。

 職員室に戻った由希は、ちょうど帰ろうとしていた一人の教師に声をかけた。
「野上先生」
 五十代の温和そうな顔の教師は振り返った。
「おや橋本先生。また、生徒の相談ですか?いつもご苦労様ですな」
「いえとんでもありません。まだまだ未熟で」
「生徒達も例の藤澤美奈代の事件をようやく忘れかけているようですね」
「そうですね。先生、もうお帰りですか?」
「何かご用でも?」
「用、というほどではないんですが。先生は二年生の美術を担当されてますね」
「そうです。一年、二年の」
「二年一組の立川めぐみという生徒なんですが。美術の成績はいかがですか?」
「二年一組ですか。ちょっとお待ち下さい」
 野上教師はカバンを下ろすと、出席簿を開いた。OA化も少しずつ進んでいて
生徒の出席状況や成績の管理ぐらいは可能になっているが、年配の教師は今でも
紙とペンを愛用している。
「立川……たちかわ……ああ、あった。そうですね、あまりよろしくないようで
すな。これまでのところでは」
「悪いのですか?」
「うーん。このままでは一学期の評価は1か2を与えなければなりませんね」
 星南高校の成績評価は十段階の絶対評価である。普通に授業を受けていれば、
5以上は保証される。4以下になるのは、よほど授業態度が悪いか、何らかの事
情で授業を受けられない生徒に限られる。
「授業に出ていないのですか?」
「いえ、出席はしていますね」野上教師は四月からの出席状況を指でたどりなが
ら答えた。「ですが課題を全く提出していませんのでね。これでは評価のしよう
がない。たとえ技術は未熟でも提出さえすればいいのですが」
「先生。通常、課題の提出はどのようにされていますか?」
「といいますと?」
「授業時間の最後に先生が集めるのですか?」
「いいえ。時間内に課題を完成させる生徒はまれですから。大抵は、翌日までと
か、週末までといったように期限を切ります。回収はクラス委員に一任していま
す」
「なるほど」
 由希は頷いた。クラス中が敵に回っているめぐみの場合、提出した課題がひそ
かに抜き取られていたのだろう。
「先生。ひとつお願いがあるのですが」
「何でしょう」
「次の課題なんですが……」
 話を聞いた野上教師は不思議そうに由希を見た。
「それで何がわかるのですか?」
「埋もれた偉大な才能を見いだすことができるかもしれません」

「今日は静物のデッサンをします」野上教師は美術室に集まった生徒たちに告げ
た。「水彩道具は使いません。鉛筆と消しゴムだけで全てを表現してもらいます。
対象はあの猫の像です」
 美術室の中央に、実物大の陶器の黒猫が座っていた。空を舞う蝶でも見つめて
いるらしく、首は斜め上を向いている。
「では、自由に場所を決めて始めてください。ああ、そうだ。この像は借り物で
今日中に返さなければならないんです。だから時間内に描けるところまで描いて
提出してください。宿題にはしません」
 小沢律子が舌打ちをして、残念そうにめぐみを見た。が、表立って反対するこ
とはできなかった。
「では始めて」
 美術室のカーテンは全て閉じられ、照明もやや暗めにしてあった。黒一色の像
は見づらく、微妙な陰影も判別するのが困難になる。野上が意図的にセッティン
グしたことだが、生徒たちはそれほど気にしていなかった。
 立川めぐみをのぞいては。
 野上教師はそれとなくめぐみに注意を払っていた。他の生徒からやや離れた場
所に座っている。周囲のクラスメイトたちが、すでに鉛筆を動かし始めているの
に、めぐみはじっとモデルの猫を見つめていた。
 数分の間、めぐみは身じろぎひとつしなかった。手元には支給した2Bの鉛筆
が二本あるだけだった。消しゴムはない。ほう、と野上教師は秘かに感心した。
めぐみが消しゴムを使うつもりがないことを知ったからである。
 美術教師の関心にも気付かず、めぐみはようやく鉛筆を持ち上げた。息を一つ
吐くと、スケッチブックの上に走らせる。その手つきは迷いを全く感じさせない
ほど速かった。もちろん投げ遣りに描いているわけではない。
 いつものことだが、美術室の中は次第にがやがやしてきた。最初の集中心を失
った生徒たちが話し始めるのだ。だが、めぐみは周囲の様子など、全く耳に入れ
ていないらしい。真剣に猫の像を見つめたまま、手の動きを休めることがない。
 野上教師はめぐみから目を離すことができなくなってしまった。
 十分ほどで、めぐみは手を止めて、大きく息を吐き出した。スケッチブックと
モデルを交互に見比べると、満足そうに小さく頷いた。
 野上も思わず一息つき、少し騒がしくなっていた生徒たちを注意した。だが、
その間も視界の片隅にめぐみをとどめておいた。
 めぐみは鉛筆を置いた。修正するつもりはないらしい。野上教師はまたもや感
心せざるを得なかった。テンションの高い時に描いた絵に後から修正を加えても
大抵の場合かえって悪くなるばかりである。
 驚いたことにめぐみはスケッチブックをめくった。そして座り直すと、再び鉛
筆を動かし始めた。手の動きは相変わらず速かったが、一枚目に比べて伸び伸び
としている。口元には注意していなければわからないぐらいの笑みすら浮かんで
いた。純粋に描くことを楽しんでいるらしい。
 野上は授業の終わりを宣言したい衝動に必死で耐えた。一刻も早くめぐみのス
ケッチを見たかったのだ。楽しみを先に延ばすことは、この場合苦痛でしかなか
った。

 放課後、美術室に赴いた由希は、驚喜した野上教師に抱きつかれんばかりの歓
迎を受けた。
「あの立川という生徒は素晴らしい才能を持っていますよ!」野上は由希に椅子
を勧めるのも忘れてまくしたてた。「見て下さい、このデッサンを。あの子は、
短い時間内に何と四枚も描きあげたのです。しかも、どれも同じ像をモデルとし
ていながら、捉え方が全て違う。まるで一匹の猫の四通りの表情を見ているよう
だ」
 由希は机の上に並べられた四枚のスケッチを見て感嘆した。同時にめぐみの才
能がまぎれもなく本物であることを知って、深い安堵を感じた。
「彼女は本物です」野上教師は断言した。「先生の言われた通り、猫をモデルに
して時間内に提出させました。最初は半信半疑でしたが、脱帽しました。素晴ら
しい。実に素晴らしい。私があと二〇年若ければ、猛烈に嫉妬したでしょうな」
「私も安心しました。先生に正しく評価していただいて」
「しかし、これほどの才能を持っていながら、どうして今まで課題の提出を怠っ
てきたんですかな?」野上教師は心底不思議そうに首をひねった。「見たところ
真面目そうで、クラスメイトとおしゃべりする様子もなかったのに」
「そのことなんですが……」
 由希は簡単にめぐみが置かれている立場を説明した。野上教師は驚き、次に怒
り、最後に深い同情と決意をこめて頷いた。
「なるほど。そういうことでしたか」
「先生にお願いしたいのは、今後のことなんです」由希はデッサンにそっと指で
触れた。「このまま放っておいたら、立川さんの才能は確実にスポイルされてし
まいます。そうなる前に手を打ちたいんです。ただし、私や先生が、単純にいじ
めをやめろ、と言っても収まることではないと思います」
「そうですな。それは同感です」
「まず立川さんに自信を付けさせることが必要です。そこで、先生、今からでも
出品がまにあう絵画コンクールをご存じありませんか?」
「ああ、なるほど。そこで入賞すれば、本人も自信が持てるし、周囲の生徒たち
も彼女に一目置くようになるというわけですか」
「ええ」
「それならば毎年十月に開かれる、県教育委員会主催の学生絵画コンクールがい
いでしょう。学生ならば誰でも参加できるし、芸大や美術館のキュレーターが何
人も審査委員会に名を連ねています。たとえ入賞しなくても、彼女ほどの才能が
あれば、必ずどこかの芸大からスカウトが来ますよ」
「提出の締め切りはいつですか?」
「八月十日です。油絵か水彩画ということになっています。彼女は油絵の経験は
あるのでしょうかね」
「わかりませんが」由希は微笑んだ。「では、手続きの方をお願いできますか?
私は立川さんに話をしますので」
「わかりました」野上教師は由希の手を固く握った。「ありがとうございます。
橋本先生。このような素晴らしい才能に巡り合わせて下さって」
「私は何もしていません。真に称賛されるべきは立川さんですわ」





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