AWC 代償   第二部  9    リーベルG


        
#4086/5495 長編
★タイトル (FJM     )  97/ 8/17   0:11  (174)
代償   第二部  9    リーベルG
★内容

                9

 クラスメイトが自分を避けていることを、志穂が知るのに要した時間はそれほ
ど長くはなかった。本当はもっと前に気付いていながら、気付かないふりをして
いただけなのかもしれない。
 原因が例の噂にあることは間違いなかった。面と向かって真偽を問われれば、
否定することもできるし、事実何人かにはそうしたのだが、陰で囁かれる噂をど
うすればいいのだろう。
 ごく少数の仲のよかったクラスメイトたちは、それでも顔を合わせれば軽口を
まじえたあいさつをしてくれるし、いつもと変わらないおしゃべりにも混ぜてく
れた。だが、注意していなければ気付かないほどの緊張が存在していた。志穂は
今まで親友だと思っていたクラスメイトたちが、自分を秘かに恐れているらしい
ことを察した。怒らせると自殺に追い込まれるから、機嫌を損ねないようにしな
きゃ……と顔に書いてあるようなものだ。
 そうした状態で受験勉強に集中できるほど、志穂は図太い神経を持ち合わせて
いなかった。たまりかねた志穂は、再び相談室に足を運んだ。
「ごめんなさい」由希は申し訳なさそうに言った。「誰があんな噂を流している
のか、まだわからないのよ」
「誰が流しているかなんてどうでもいいんです」志穂は疲れた顔で答えた。「先
生から変な噂を流すのはやめろって、みんなに言ってもらえませんか?」
「それは得策とは言えないわ。こういう噂は、禁止されれば余計に広がっていく
ものよ。あなたがむきになって否定したり、大騒ぎをしても同じよ。今は何を言
われても知らん顔しているしかないわね。誰かが何か言っても、なにいってんだ
こいつは、ばかばかしくって相手にするだけの価値もないわ、みたいな態度を崩
さなければ、そのうち消えると思うわ」
「やってみますけど……」自信のない表情と声で志穂は頷いた。
「もしよかったら、大学院で臨床心理学の研究をしている知り合いを紹介しまし
ょうか?社会人や受験生が、仕事や受験のプレッシャーからノイローゼになった
りする症状を研究しているの。心理的なアドバイスをしてもらえると思うわ」
 志穂は気が進まなかったが了承した。薦めてくれたのが由希でなければ、きっ
と断っただろう。
「そうですか。じゃあ、お願いします」
「明日の土曜日の午後でいいかしら?」由希は卓上カレンダーを見ながら訊いた。
「先生はちょっと用事があるから一緒に行けないけど、電話をしてよく頼んでお
くから。無理にとは言わないから、もしどうしても気が進まなかったら、連絡な
しですっぽかしても構わないわ。そんなことに気付くような人じゃないから」
「女の人ですか?」
「そう。先生と同級生よ」メモ用紙に手早く地図を書きながら由希が答える。「
F女子大の場所は大体わかる?」
「行ったことはないですけどわかると思います」
「ここの研究棟の二階。212号室。前園教授の研究助手。名前は桜井響子」

 土曜日の午後2時。志穂はF女子大のキャンパスに足を踏み入れていた。
 日本の女子大では上から2、3番目にランキングされるF女子大である。文学
部、経済学部、社会学部、医学部、理工学部、家政学部など、幅広い分野の学部
を擁しており、海外留学や各種の奨学金制度も完備している。「女性だけの東大」
と囁かれることもある。
 土曜日の講義は午前中までなので、キャンパスを行き交う女子学生たちの顔は、
楽しげな表情で彩られていた。どの女子学生も高価ではないがセンスのいい服装
を着こなしている。ブランドで凝り固めたような趣味の悪い学生は一人として目
につかない。志穂は感心と羨望の視線で学生たちを見ていた。自分といくつも違
わないはずなのに、誰もがずっと大人に見える。サマーセーターとキュロットの
服装が不意に恥ずかしく思え、志穂は足早に研究棟を目指した。
 研究棟はすぐにわかった。中は静まり返っていて、人の姿はみえない。志穂は
何とはなしにほっとしながら、階段を上がって212号室を探した。
 212号室のドアには、「前園教授」と「桜井研究生」の二枚の札がかかって
いた。その下に両者の在室状況を示すプラスティックのボードがある。どちらも
「外出中」になっていた。
 志穂は途方に暮れて、ためらいがちにドアをノックしてみた。応答はない。
 あきらめて帰ろうとしたとき、廊下を誰かが歩いてくるのに気付いた。志穂は
少し驚いた。まだ若い男だったからだ。白衣を着て、手に持った書類に目を落と
している。
 男は志穂に目もくれずに212号室の前を通り過ぎようとして、はっと気付い
たように顔を上げた。そしてネームプレートを見るとため息をついた。
「何だ、またか」独り言のようにつぶやく。「今日は一日いるっていったのに」
「あ、あの」志穂は声をかけた。
 若い男ははじめて志穂に気付いたように視線を向けた。迷惑そうな様子でもな
ければ、親切心にあふれる態度でもない。
「桜井さんに会いに来たんですけど」
「ああ。ここの教授はね、突然何かを思いつくと、約束なんか平気ですっぽかす
悪い癖があるんですよ。たぶん夜まで戻ってこないんじゃないかな。ぼくも教授
に約束があったんだけど」
「そうですか」志穂はがっかりしたような、安心したような、どっちつかずの表
情になった。「ありがとうございました」
 志穂は212号室を離れて歩き出した。若い男も一緒に歩き出す。
「桜井君に何の用事だったんですか?」男が丁寧に訊いてきた。
「はあ……」
 志穂はためらい、横目で男を観察した。悪い人間には見えない。二十代の前半
ぐらいだろう。白衣の下のシャツとスラックスにはシワひとつない。ナンパする
口実で質問してきたわけではなく、どちらかといえば礼儀上の関心しか抱いてい
ないようだ。
「ちょっと相談したいことがあったんですけど」
「ああ。なるほど」男はわかったというように頷いた。「よく来るんですよ。ぼ
くもたまに指導教官として同席しますよ」
「指導教官ですか?」
「そうです。ああ。申し遅れました。ぼくは田辺俊哉と申します。前園教授と共
同で臨床心理学の研究をしています」
「あたし……私は」志穂は慌てて一人称を言い直した。「天野志穂です」
「学部はどちらですか?」
「いえ、あの、ここの学生じゃないんです。私立星南高校の三年生なんです」
「おや、高校生ですか。天下御免の女子高生が、一体どんな悩みを抱えているん
ですか?」
 思わず志穂は笑い声をあげた。
「天下御免ってなんですか、それ」
「知らないんですか?今、日本で一番強いのは女子高生なんですよ。あらゆるフ
ァッションからゲーム、ジュースやケーキ、リップクリーム、液体歯磨き、テレ
ビドラマの主役まで、女子高生の意に沿うように作られるんです。そのうち政治
や経済や流通まで女子高生の意見が反映されるようになります。衆議院に議席だ
ってできるかもしれない」
「田辺さんって、おもしろい人ですね。ここの教授なんですか?」
「いえいえ、とんでもない。今年だけの臨時講師です。アルバイトみたいなもの
です。前園教授と研究をするために講師に雇ってもらったんです。どうですか?
ぼくでよければ相談に乗りますよ」
「本当ですか?」
「もちろんです。ぼく自身の勉強にもなりますしね」田辺はにっこり笑った。「
でも桜井さんの方がいいのなら……」
「誰でもよかったんです。桜井さんは紹介してもらっただけだし、気が進まなか
ったら、無理に相談に行かなくてもいいって言われてたし」
「そうですか。それならどこか静かなレストランでお茶でも飲みながら、話を聞
かせてくれますか?この様子だと、前園教授はいつ戻ってくるかわからない」
「はい!」
「じゃあ行きましょう。外の駐車場に車が停めてあります。今日はここの駐車カ
ードを忘れて、中に入れてもらえなかったんですよ。少し歩きますがかんべんし
てください。おわびにケーキでもおごりますから」
 田辺は喋りながら、自然に志穂の腕を取っていた。真面目そうに見えるけど、
結構手が早いのかしら、と志穂は考えた。もっとも不快ではなかった。
 久しぶりに心が晴れやかになった。結局、由希先生の紹介してくれた人には会
えなかったけど、かえってよかったかもね。

 同じ時刻、由希とめぐみは美術館にいた。
 めぐみはパンフレットを片手に目を輝かせて歩いていた。周囲の絵からエネル
ギーを吸収しているように生き生きとしている。まるで別人のようだ。
「ほら先生見て見て!」シャガールのリトグラフの前で足を停めためぐみは歓声
を上げた。「きれいなブルーよねえ。これ、すごく気に入ってるんだ」
「ほんと、きれいね。あら、販売もしてるのね。8万5000円だって」
「うん。今、お金貯めてるんだ。一枚欲しくって。本当はアルバイトでもしたい
んだけど禁止だもんね」
「そうね。プレゼントしてあげたいけど……」
「いいの。給料安いんでしょ?それに買うなら自分のお金で買いたいし」
「確かに安月給だけどね」由希はめぐみの頭をくしゃっとかき回した。「そんな
こと気にすることないのよ」
 めぐみは楽しそうに笑った。
「ごめんなさい。でも、いいの。それより、どっちかっていえば、あたしが先生
にプレゼントしてあげたいな」
「え、だめよ、そんな」
「もちろんすぐにはダメだけど」めぐみは別のカラーリトグラフに触れんばかり
に手を伸ばした。「いつかきっと」
「こんな高い絵、先生がもらっても宝の持ち腐れだわ。先生は絵のことよくわか
らないし」
「由希先生。絵を楽しむのに絵心なんて必要じゃないのよ。本当にいい絵だった
ら、どんな人の心にも優しく話しかけてくれるの。言葉は人によって違うけど」
 由希は黙って頷いた。
「あたしもいつかそういう絵を描いてみたい……」
 めぐみは消えそうな声で囁くと、自分の大それた発言が、どう受け取られたか
を探るように由希の顔を見た。由希は思わず場所も忘れてめぐみの肩を引き寄せ
た。
「きっと描けるわ。めぐみちゃん。あなたなら。先生が保証する。だから一つお
願いがあるの」
「何ですか?」
「高い絵なんていらない。そのかわり、めぐみちゃんが描いた絵を一枚でいいか
ら、先生にプレゼントしてくれない?今すぐじゃなくてもいいわ。めぐみちゃん
が納得できる絵が描けるようになったら、先生のために小さな絵を一枚描いてほ
しいの」
「そんなあたしの絵なんて……」
「約束よ」由希は強引にめぐみの小指と自分のそれをからみ合わせた。「あなた
に描いて欲しいの」
「どんな絵ですか?」
「肖像画なの」由希は一瞬だけ視線を遠くにさまよわせた。「今はもういない人
なんだけど。もちろん写真は残っているわ。でも写真には命がない。あなたに描
いてもらった絵だったら、きっと命が宿るわ」
「で、でも。あたしの絵なんて本当にたいしたことないし。今から勉強したとし
ても、まともなのが描けるようになるには何年もかかるかもしれないし……」
「急ぐ必要なんかないわ」由希は優しく微笑んだ。「いつまででも待ってるから。
もし先生が死んだら、墓に供えてくれればいいから」
「先生、あたしを過大評価してるよ」
「どうかしらね。でもいいのよ。そんなにうまくなくても。人の顔だってわかれ
ばね」最後はからかうような口調だった。
「うーん。そこまで言われちゃ、あたしにもプライドってもんがあるし。わかり
ました。じゃあ、うんと絵の勉強をして、先生があっと驚くようなのを描いてあ
げるから楽しみにしててね」
「約束よ」
 二人は再び小指を固く結んだ。





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