#4085/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/ 8/17 0:10 (161)
代償 第二部 8 リーベルG
★内容
8
全てのタイムトライアルが終わった後。
部員達が遠くから見守る中、祐子が必死で吉住教師に抗議している。めぐみは
祈るような気持ちで祐子を見ていた。
声は届かないが、吉住は祐子の抗議を馬耳東風と受け流しているようだった。
もう一度タイムトライアルをやり直すなど面倒だという考えに決まっている。や
がて、吉住は大声で何か言うと、祐子に背を向けた。
しばらく立ちつくしていた祐子は、くるりと振り向くと、つかつかと部員達の
方へ向かってきた。険しい表情が顔に浮かんでいる。
「あの、先輩……」
めぐみは声をかけたが、祐子はちらりと視線をくれようともしなかった。その
まま早足で部室の方に歩き去ってしまう。周囲の部員達は、どちらにも声をかけ
ることができず、黙ってみているだけだった。
次の日、めぐみは重い心を抱えたまま朝練に出た。
部室に入ると、椅子に祐子が座っていた。数人の部員が周囲を取り巻いて、何
かを話している。めぐみが入ると、ぴたりと話がやんだ。奇異な印象を受けたが、
めぐみはそれほど気に止めず、いつものように挨拶をした。
「おはようございます」
仲のいい一年生の部員が笑顔で口を開きかけたが、はっと何かに気付いたよう
に慌てて顔をそらした。
わけがわからず戸惑っためぐみは、クラスメイトの部員に目顔で問いかけた。
だが、クラスメイトは目を伏せ顔をそむけた。
「さあ、練習始めるわよ」祐子が、やはりめぐみの方を見ないまま手を叩いた。
「急いで」
部員たちは露骨にほっとした顔で、先を争うように部室から出ていった。祐子
は、一瞬の冷たい視線でめぐみを突き刺すと、ゆっくりときびすを返して、部員
達の後を追っていった。
めぐみの背筋に、気温とは無関係の寒さが走り抜けた。祐子が深い恨みを抱い
ていることを直感的に悟ったからである。寡聞にして、祐子があっさりした気性
だという噂は耳にしたことがなかった。
その日から、陸上部の練習は、めぐみにとって苦痛そのものとなった。
長い時間をかけて話し続けためぐみは、さすがに疲れた表情を浮かべていたが、
全てを話し終えるまでは口を閉ざすつもりはないらしかった。落ちていた小枝を
拾うと、砂浜をひっかきながら、乾いた口調で残りの部分を由希に打ち明けた。
「それから、あたしは陸上部の中で完全に孤立しちゃったの。練習に出ても誰も
声をかけてくれないし、こっちがかけても無視される。ペアを組む練習なんかの
ときは必ずあたしが余ったし、タイムトライアルでもあたしのタイムをとってく
れる人はいない。部室に戻ったら制服がなくなってたこともあったしね。どこに
あったと思う?男子トイレの中よ。男子に頼んでも笑って相手にしてくれなくて、
しょうがないから自分で取りに行ったんだけど、出た途端に大声で『ちかんだあ!
立川が男便所覗いたぞ!』って叫ばれるし。
さすがのあたしも、いやになって二年生になると同時に退部届けを出したの」
由希とめぐみは、大量の焼肉で腹を満たした後、近くの海辺に来ていた。ちょ
うど夕陽が沈むのを見るのに間に合う時間だった。めぐみは車の中から、堰を切
ったように話し始めていた。敬語を使っていないのは、由希が「友だちだから」
と強引にやめさせたからである。
「それからしばらくは何も起こらなかったわ。でも、そのうち、今度はクラスの
女子たちが、少しずつあたしに、どう考えても嫌がらせとしか思えないようなこ
とを始めたの。すぐに男子も同じことをするようになって、今じゃ、クラスの全
員があたしの敵みたいなもんね。ううん、敵じゃないわね。あたしは戦うことさ
えできないもの。こういうの何て言うのかなあ……やっぱいじめか」
「それが全部、朝倉さんの差し金だということは、どうしてわかったの?」
「うん。仲良かった友だちがこっそり教えてくれたの。朝倉先輩が、うちのクラ
スの小沢に命令したって」
「命令した」由希は繰り返した。「どうして命令できるの?」
「そこんとこはよくわかんない。お金をもらったみたい、とは言ってたけど。あ
と、スリーとか」
「スリー?なに、それ」
「先生、たまごっちシリーズって知ってる?」
「うん。もちろん知ってるわ。大流行してるものね。見たことはないけど」
「四月にバージョン3が出たじゃない。今でも、予約で二ヶ月待ちとかだけど、
朝倉先輩はお父さんの仕事の関係で、早く手に入るんだって。あれは中国に工場
があるから」
「それをエサにして、小沢さんに命令したわけね」
「直接確かめたわけじゃないけど」めぐみは砂浜にマンガちっくな猫の絵を描き
ながら、あどけなさの残る顔には似つかわしくない苦い笑みを浮かべた。「小沢
がスリーを見せびらかしてたのは確かだし」
由希はめぐみの顔から目をそらした。そのまま見つめ続ければ、内なる怒りを
吐露することになるかもしれなかったからである。視線は砂浜に落ち、めぐみが
描いている猫の絵に行き着いた。ぼんやりと手を動かしているように見えたが、
にんまりと笑ってヒゲをつまんでいる猫の絵は、なかなか可愛らしかった。
「お家の人は?」
めぐみの手の動きが一瞬停止した。
「パパとママは、あたしが小学校のときに交通事故で死んだの」素っ気ない口調
で言う。「今は伯父さんの家にいるんだけど、心配かけたくないから何も言って
ないわ」
「ごめんなさい」
「いいの。別に伯父さん伯母さんに冷たくされてるとか、虐待されてるとか、そ
んなことは全然ないから。伯父さんには子供がいないから、あたしのこと、本当
の子供みたいに可愛がってくれてるし。逆にちょっと過保護かなって、あたしか
ら見ても思えるとこあるからさ。いじめられてる、なんて言えないよ」
めぐみは立ち上がると、背をそらせて伸びをした。
「うーん。話したら少しすっきりしちゃった」
「絵うまいのね」由希は猫の絵を見ながら言った。
「え?ああ、これ」めぐみは恥ずかしそうに、足で砂をかけた。「ただの落書き
よ、こんなの」
「そろそろ帰りましょう」由希も立ち上がった。「お家の人が心配するわ」
「うん」
二人は砂を払うと、車の方へ歩き出した。
「由希先生」
「なに?」
「誰にも言わないでね。先生に話したこと」
「わかってる」
「朝倉先輩にもだよ?」
「わかってるわ」由希はめぐみの肩を抱いた。「しばらく様子を見る。でも、ど
うしても耐えきれなくなったら、迷わず先生のところに来るのよ」
「朝倉先輩が卒業するまで我慢するだけだもん。それぐらいなら何とかなる」
いじめの被害に遭っている子供達は、悩んだ末にめぐみと同じような結論に達
することが多い。クラス替えを待つ、卒業まで我慢する、退部する。反撃しよう
と考えるのはごく少数である。反撃が失敗すれば、いじめは前にも増して激しく
なるかもしれない、と考えるからだ。
普通なら、由希はめぐみの考えを訂正しただろう。たとえ効果がなくても、反
撃の意志を示すことで、相手はいじめをやめることが多い。被害者が自分と同等
の立場にいることを認識するためである。いじめの加害者のほとんどは心の底か
ら邪悪というわけではなく、単に想像力が欠けているにすぎない。相手の身にな
って考えることを知らないため、ふざけあいの延長としか思っていないのだ。被
害者が反発の意志を示すことで、自分の行為がいじめだと気付き、反省するケー
スも多い。
だが、朝倉祐子は明らかに自分のやっていることを認識した上で、めぐみをい
じめている。こういう人間に中途半端な反撃をしても、逆効果に終わるだけだ。
特にプライドの高い朝倉祐子の場合は、めぐみが反撃の意志をほのめかしただけ
で、怒り狂うに違いない。
早急に対策を考えなくては、と由希は決心した。そのためには、現在進行中の
方を急がなければね。
めぐみの家に向かう途中、弱い雨が降り始めていた。
車に乗った後、二人は無言だった。めぐみは心につかえていたことを、一気に
吐き出したことで、倦怠感を見せてシートにもたれて窓の外を見つめている。由
希もあえて会話を引き出そうとせず、時々さりげなく様子をうかがう以外は、運
転に集中していた。
「ねえ、先生」顔を外に向けたまま、めぐみがつぶやくように言った。
「ん?なに?」
「明日、学校行かなきゃだめかな?」
由希は珍しく言葉に詰まった。
自分で決めなさい、などという言葉が無意味であることはわかっている。相手
の自主性を尊重しているように見えて、その実単なる責任逃れにすぎない。
「明日は休んでいいわ」由希は瞬時に躊躇いを捨てて答えた。「風邪でもひいた
ことにしときなさい」
「あさっては土曜日で半日だから、ついでに休んどいていい?」
由希はくすくす笑った。
「そうね。私も土曜日の午後は予定がないから、どっかに遊びに行こうか?」
「ほんと?」
「ほんとよ」
「木津美術館がいいな。今週いっぱいマティス&シャガール展やってるのよ」
「絵が好きなのね」
「うん。見ると落ち着くのはね」
「描くのもでしょ。ネコが好きなの?」
「え?」
由希はナヴィゲータシートの窓を指さした。めぐみは、自分がいつの間にか窓
に猫の絵を描いていたことに気付いて、慌てて手のひらでかき消した。
「ネコ飼いたいんだけど、マンションが禁止だから」
「消すことないのに。先生は絵心が全くないから、うらやましいわ」
「こんなのただの落書きよ」
「そうは思えないけど」だが由希はそれ以上めぐみの絵については言及しなかっ
た。「じゃあ、土曜日の一時半に迎えにいくわ。少し遅れるかもしれないけど」
「え?」
「美術館よ」
「本当に連れてってくれるの?」
「先生は冗談は言わないわ。絵のことを教えてくれる?」
「もちろん!」
めぐみは嬉しそうに顔をほころばせた。由希はその笑顔に胸をつかれ、それが
なぜなのかに気付いた。由希が失った肉親に似ていたのだ。もう一度この笑顔が
失われるようなことになってはならない。微笑み返しながら、由希は固く決意し
ていた。