#4034/5495 長編
★タイトル (PRN ) 97/ 8/ 3 17:53 (136)
潮の匂い (4/4) 叙 朱
★内容
潮の匂い 叙 朱
8
一夜が明けた。
「点呼!」
柿山が声をかけて、S高漕艇部の朝飯前の練習は始まる。合宿所からあくびま
じりに飛び出してきた漕艇部員達は、五人一組のクルーに分かれて点呼に答える。
クルーはレギュラーからアルファベットのクルー名がついていた。柿山のクルー
はベストメンバー構成でAクルーと呼ぶ。その下に、BからEまでのクルーがあ
った。Eクルーはまだ海に出たことはない。
「Eクルー、一名足りません」新入生らしい声がした。「誰がいないんだ」柿山
が怒鳴り返す。
「スミシロです」
「部屋に行って、叩き起こしてこい」
篠崎が指示をする。はいっとふたつ返事で、新入生が駈けだした。残りの者は、
めいめいに準備体操にはいっている。朝練は合宿所から海岸までのランニングだ
った。
「墨城くんは部屋にもいません」駆け戻った新入生が報告した。
「しょうがないな。おい、それじゃあ行くぞ」
柿山のかけ声で、Aクルーからゆっくり走り始める。
合宿所を出てすぐに右に曲がり、そのまままっすぐ走ると沖新川の橋を渡る。
渡りきってもう一回右に折れると沖新川沿いに海へと続く道になった。
「おい、アイツ、どうしたのかな」
走る青鹿の隣りに来て、篠崎が囁いた。青鹿は黙って首を振った。知らないの
意志表示のつもりだった。しかし、内心ひっかかるものがあった。
「まさかとは思うが、あの島へ行った訳じゃないだろうな」
青鹿が気になっていることをズバリと篠崎が言ってきた。
「まさか。どうやって行くんだ。ボートはひとりでは漕げないぞ。それになんの
ために行くんだ」
「昨日の話を確かめに行くんだろ。確かめないと気が済まないんだよ。自分の憧
れの先輩の女を。島までは二キロくらいだ。泳ぐことはできるだろ」
篠崎は軽々と言った。走りにあわせて息が動いている。
「泳ぐ? アイツは昨日やっと200メートル泳げるようになったんだ。それは
無茶だ」
そう言いながら青鹿は、墨城の昨日の泳ぎを思い浮かべた。そういえば、20
0メートルをやっと泳げるようになったばかりの泳ぎ方ではなかった。あれは相
当に泳げる男なのだ。ただ、何かの理由で泳げないのだ。何かの理由で。
青鹿の足が自然と速くなった。篠崎も付いてくる。先頭を走っていた柿山を追
い抜く。柿山が怪訝な顔つきで二人を見送った。あるところから、二人はほとん
ど全力疾走になっていた。沖新川が海に流れ込むあたりにS高漕艇部のボート庫
がある。スレート葺きの簡素なボート小屋だが、ナックルフォア3艇を収納して
いた。そのボート庫の脇を走り抜け、二人は海岸の砂浜に走り出た。右手遠くに
小島が霞んで見えている。
「アイツは、本当に行ったと思うか」青鹿が小島の方を見たままで尋ねた。
「他にどこへ行く。アイツが他に朝練をさぼって行くようなところに心当たりが
あるか?」篠崎は息を切らしながら、応えた。
「どうする?」青鹿が問う。
「どうする?」篠崎が同じ言葉を返した。
「朝練のついでに海トレ(海上トレーニング)もやるつもりなのか」
ちょうど柿山が二人に追いついたところだった。
「願うところだ」二人は同時に答えた。
9
早朝のもやのかかった大村湾をナックルフォア艇は疾走していた。静かな海に、
柿山のガラガラ声だけが響いている。事情を知らない3番とバウもこれが普通の
朝練とは思ってはいなかった。ただ、えらく早いピッチで漕ぎ続ける整調に合わ
せて行くのが精一杯で、それ以上のことは考える余裕がなかった。岬に沿って艇
は進んでいる。それだけは横目に見ながら分かっていた。
いつもなら軽口を叩く篠崎も黙って漕いでいた。オールが海面をを叩く音が規
則正しく、繰り返され、コックスの柿山が「ロウ、ロウ」と怒鳴りつづけた。
青鹿も篠崎も漕ぎながら、目は海面を追っていた。小さな漂流物でも目に留ま
らないかと、神経を集めていた。しかし、朝の海は静かで純白だった。木ぎれ一
本として浮いていなかった。それは二人に安堵と不安の入り交じった奇妙な焦燥
感を覚えさせた。
もやの向こうの小島はみるみる大きくなって、近づいてきた。青鹿がオールを
引き上げる。それを見て篠崎もオールを引っ張り上げた。柿山は残りの漕ぎ手二
人に、「イージーオール」と伝える。艇がゆっくり減速した。
青鹿はシャツを着たまま、艇の横に掴まりながら海に飛び込んだ。篠崎もすぐ
あとに続いた。二人はクロールで小島に向かって泳いで行く。3番とバウの二人
は柿山と一緒に黙って二人を見送った。
小島のいつもの岩場のあたりに、何かがひっかかるようにへばりついていた。
青鹿は海面に顔を出して、その正体を見きわめようとした。背中に悪寒が走った。
細くて白い体は、墨城のそれとよく似ていた。まさか、本当に・・・。予感はあっ
たが、それを目の当たりにして、青鹿は海の中でこわばった。篠崎は気づかない
のか、そのまま泳ぎ続けている。墨城は、海岸からここまで泳いできたというの
か。
青鹿は気を取り直して、また泳ぎはじめた。岩場にいるという事は、最悪の事
態ではなかった。少なくとも途中は大丈夫だったのだ。自分に言い聞かせながら、
泳いだ。今度は近いと思った小島が案外遠かった。
篠崎が先に岩場に取り付いた。黒いからだが岩場をよじ登る。篠崎は慎重だっ
た。ゆっくりと上ってゆく。やっと、岩場にある白い体に気づいたらしい。体の
向きを変え、そちらの方に進み出した。
やっと青鹿が岩場の近くまでたどり着いたとき、篠崎が突然止まった。白い体
へはあと3メートルくらいのところだった。そのまま、止まって動かない。もう
篠崎にはそれが誰であるか、そしてどういう状態なのかが分かったのに違いない。
青鹿は悪い予感がした。篠崎があれ以上進もうとしないということは・・・。
「おーい、頼むからあっちへ行ってくれ」
突然、篠崎の情けない声がした。それは青鹿に向けられたものではない。青鹿
が見上げると、篠崎の声に岩場に倒れ込んでいた白い体が、跳ね起きて動き始め
た。
「あっ」青鹿は声を出した。白い体は墨城ではなかった。あの娘だった。
「何よ、良い気持ちで寝てるところを邪魔しないで」
その声もあの娘のものだった。
「こんな所で、素っ裸で朝寝なんかするなよ」篠崎も返している。
青鹿はほっと息をつき、慌てて岩場をよじ登った。すぐに篠崎の隣にたどり着
く。
「おい、参ったね。こんな所で素っ裸でいるなんて」
今度は青鹿に向けた言葉だった。娘は岩場の向こうに姿を消していた。
「こんなに朝早くに、ここに近寄るやつなんていないんだろ」
青鹿は言いながら、さらに岩場をよじ登った。篠崎もしぶしぶ続く。岩場の向
こう側の砂地にも、娘の姿はなかった。おそらく何か着るものでも取りに行った
のだろう。岩場の上に立ち、小島の周りの海を見回してみた。朝もやは晴れかか
っていた。200メートルくらい離れた凪の海に、ナックルフォア艇が佇んでい
た。
「ねえ、今朝はどうしてこんなに早いの」
頭上から声がした。岩山の頂きにさっきの娘が顔を出している。麦藁帽子を被
っていた。篠崎が青鹿をつつく。返事をしろと言うことらしい。
「人を探しているんだよ。こっちへ向かって泳いできたんじゃないかと思ってね」
青鹿が説明した。麦藁帽子が動く。
「ああ、その声はアオシカ君ね。昨日はどうもね。うん、ここから見えるよ、誰
かがこっちに向かって泳いでくるね」
「なんだって。どっちのほうから?」
青鹿は思わず、もう一度海の方を見やった。篠崎も慌ただしく海を見回す。し
かしそれらしい人影は見つからない。
「どこだ。教えてくれ。そいつはあんまり長く泳げないんだ。助けに行かないと、
溺れちまう」
青鹿の心配した声に対して、娘の明るい声が返ってきた。
「大丈夫よ。ちゃんと自分を自覚してるみたい」
「どういうことだ」
「あのね、浮き輪をつけて泳いでいるから」
「浮き輪?」
青鹿と篠崎は同時に間抜けな声を出してしまった。泳ぎの不得手な墨城なりに
一生懸命に考えた結果なのだろう。が、二人はこみ上げてくるおかしさを堪えき
れない。一斉に吹きだしてしまった。腹を抱えて笑い出す二人。岩山の上では麦
藁帽子の娘が、浮き輪に掴まる墨城に向かって大きく手を振った。
どうやら艇の上で待つ柿山も墨城に気づいたらしい。ナックルフォア艇が小島
のまわりでゆっくりと動き出した。
(了)
あとがき: お断り/文中の漕艇用語は、現在では使われていないものもありま
す。