AWC 潮の匂い (3/4)     叙 朱


        
#4033/5495 長編
★タイトル (PRN     )  97/ 8/ 3  17:52  (132)
潮の匂い (3/4)     叙 朱
★内容

    潮の匂い           叙 朱

          6

 海からあがった青鹿を、プールの入り口で墨城が待っていた。もう海パン(海
水パンツ)一枚になっている。しばらく待っていたのか、プールの金網に指をか
らめている。青鹿を認めると、ぱっと指を放し、ぺこりとお辞儀をした。
「どうもすみません」
 墨城の言葉に青鹿は約束を思い出して、軽く手を上げた。
 日除けの屋根のせいか、それとも日が暮れかかっているからか、屋外プールな
のに薄暗かった。墨城が金網の戸を押してプールサイドにはいった。青鹿も続こ
うとした。
 柿山と篠崎が青鹿の背中をどやして通り過ぎる。
「女は乗せない遭艇部ぅ、だぜ」
 篠崎が調子っ外れに歌っている。振り返った青鹿に、柿山もにやりとした。
「分かったわかった、悪かったよ」
 青鹿も大きな声で応える。
「青鹿先輩、何かあったのですか?」
 プールサイドで、墨城が怪訝な顔になっていた。青鹿が苦笑いをしながら、金
網の戸を押してプールサイドにはいった。プールサイドのプラスチックの椅子に
腰を降ろす。ちょうど、25メートルプールを真横から眺める位置だ。水道水を
貯めたプールからは、強い消毒液、塩素の匂いが鼻をついた。その匂いに、青鹿
は白いワンピースの娘の言葉を思い出した。
「潮の匂い、か」
 墨城は屈伸運動を始めていた。遭艇部員にしては、意外なほど白い体だった。
夏合宿も後半にはいっている。短パン、Tシャツがユニホームだから日焼けしな
いわけがない。墨城は日焼けしない体質なのかも知れない。白い体が薄暗いプー
ルサイドで、規則正しく動いていた。
「おい、墨城、ちょっとこっちへ来てみろ」
「はい」と返事をして、墨城がやってきた。「なんですか」
「オレの匂いを嗅いでみてくれ」
「は?」青鹿の変な要求に墨城は戸惑った。「匂いですか?」
「うん、どんな匂いがする?」
 青鹿は真面目な顔だ。仕方がない。墨城は恐る恐る、鼻を青鹿の肩口に近付け
た。
「うーん、よく分かりません。たぶん、汗の匂いだと思いますが」
 墨城は正直に言った。途端に、あははは、と青鹿は笑った。
「汗の匂いか、そうだろうな、あははは」
 訳が分からないまま、墨城は追い返された。スタート台に上る。青鹿の視線は
感じない。こちらには青鹿の注意は寄せられていない。見やると青鹿の目は屋外
プールを素通りして、その向こうに広がる海へと向かっているようだった。
 墨城のプールへ飛び込む音で、青鹿はプールへと注意を戻した。墨城は、やっ
と200メートル泳げるようになった、という割りには綺麗なフォームで泳ぎ出
した。ゆったりとしたペースで、水しぶきをあまり立てず、クロール泳法で進ん
でいた。腕の振りやからだのしなり、ばた足にもむだがない。真水のプールでこ
れくらいの泳ぎができるなら、比重の重い海水ではもっと楽に浮くことができる。
さらに長く泳げるはずだ。
 墨城は難なく25メートルを折り返した。ゆっくりとした抜き手で、戻ってく
る。プールの水面は静まり返って薄暗い。その中を、かすかな水しぶきの音を立
てて、墨城は泳いでいる。白い肩が見える。乱れた短い髪が水をはじく。墨城は
顔を上げない。小さな鼻と口だけが、生き物のようにときおり青鹿のほうを見た。
青鹿はぼんやりと目で追い掛けていた。
 桜色の唇。しろいからだのライン。いつの間にか、泳いでいるのは墨城でなく
なっていた。洞穴の裸身の娘だった。そうだ。あのように体をしならせて、すい
すいと泳ぐのに違いない。光り輝く海にひそやかな波を残しながら、小島のまわ
りを泳いだに違いない。
 と、次の瞬間、白い体が波間に消失した。小さな波はすぐにおさまり、一面の
凪の海になった。青鹿はぼんやりとその海を見ていた。海の色が青から薄黒く変
わり、そして屋外プールの水面になった。波のない屋外プールの水面だった。さ
っきまですいすいと泳いでいた墨城の姿も消えていた。水しぶきひとつない。静
寂が青鹿を包んでいた。
「おい、どこだ」青鹿は呼び掛けながら、椅子から立ち上がった。墨城の返事は
ない。青鹿は走ってスタート台の上に上り、墨城が泳いでいたレーンを目で探し
た。スタート台のすぐ下、水中にうずくまるものが見えた。墨城が膝を抱いて沈
んでいた。青鹿はそのままプールに飛び込んだ。

          7

 墨城は気を失っただけだったようだった。幸い青鹿が早く気づいて、プールか
ら引きずり出したので、水も吸い込まず大事には至らなかった。墨城はプールサ
イドですぐに気を取り戻したが、青鹿の強い指示でそのまま合宿所の木製ベッド
に寝かされた。横になってもしきりに恐縮している。青鹿はベッドの脇に腰を下
ろした。
「一体どうしたんだ、あんなにうまく泳いでいたのが、急に溺れるなんて。オマ
エは、心臓かどこか具合が悪いんじゃないか?」
 開口一番、青鹿は聞いた。墨城は大きくかぶりを振った。
「どこも悪くありません。ただ、」そこで口をつぐむ。
「ただ、なんだよ」青鹿が追いかけた。
「せっかく泳ぎを見てもらいたいのに、先輩は、心ここに在らず、という感じで
したから、少し驚かしてみたかったんです」
「オマエの泳ぎはちゃんと見たよ。全く問題のない泳ぎ方で、今日までたかが2
00メートルを泳げなかったというのが不思議なくらいだ」
「ああ、ちゃんと見ていてくれたのですか、嬉しいな。でも、本当は先輩は他の
ことを考えていたんじゃありませんか」
 墨城が食い下がる。そこへ、青鹿の背後から声がした。
「ああ、アオは女のことを考えていたのさ」
 振り返ると、篠崎が戸を開けて立っていた。
「離れ小島に白い服の女ありってね」
 篠崎がにやにや笑いながら、続ける。
「何の話ですか、篠崎先輩」
 墨城がベッドの上に半身を起こした。青鹿は苦笑いをするだけで何も言わない。
しかし、あえて篠崎の話を遮るでもない。青鹿の反応を確かめてから、篠崎は喋
り始めた。
「岬の先に小さな島があるだろう。アオの話では、あの島のどこかにうまい湧き
水が出るらしいんだ」
「あ、篠崎先輩、それなら僕も知っています。僕の母がよく汲みに行ってます。
茶の湯に使うのだとか。でもそれが、どうして白い服の女になるんですか?」
「おや、湧き水の話は本当らしいな」
 篠崎が意外そうに言った。篠崎は、青鹿が女に会いに行くために思い付いた作
り話だと思っていたようだ。
「本当に決まっているさ。今日の午後はちゃんと飲んできた」
 青鹿が初めて口を挟んだ。それを機に、篠崎は部屋に入ってきた。
「その湧き水には妖精がいてな、麦藁帽子を被って、白いワンピース姿だったか
な」
「あんな小島に人が住んでいるのですか?」墨城が驚く。
「いや、住んでいるわけじゃないそうだ」青鹿が説明した。
「朝早くに漁に出る父親の漁船に乗せてきてもらうらしい。あの涼しい小島でお
昼くらいまで、ひとりで本を読んだりしているんだそうだ。そして昼すぎに港へ
戻る漁船に乗ってまた帰る」 
「あれ、今日は夕方までいたじゃないか」これは篠崎だ。
「ああ、今日は特別だったらしい」
「何が特別だったんだ?」篠崎はしつこい。娘は今日の午後、青鹿を待っていた
のだ。午前中の出来事から、きっとまた来るだろうと思ったという。しかしそれ
は、ここでは口にできなかった。また余計な騒ぎになる。
「いや、よくわからんがそう言ってた。それよりか、こいつは今日のプールで倒
れちまったんだ。しばらく休ませておいてやろうや。シノ、晩飯だろ。さ、行こ
う行こう」
 青鹿はまだ何か続けようとする篠崎を、追い立てるようにして部屋を出た。墨
城は何も言わずに見送った。
 部屋の戸を閉めて廊下を歩きだしたところで、篠崎が低い声で言った。
「アオ、墨城といったか、あの新入生は。あいつはオマエに気があるぞ」
「なに? 馬鹿なことを言うなよ」
 青鹿は歩きながら、頭から否定した。
「いやいや、注意した方がいいぞ。オレが小島の女の話を始めたとき、アイツは
すごい形相をしていた。あれは本気だぞ」
 篠崎はまじめな顔だ。男ばかりの漕艇部では、下級生が上級生に対して憧れに
似た気持ちを持つことは間々あることだった。しかし、青鹿は戸惑った。戸惑い
を打ち消すためにも、言葉を続けた。
「それよりも、アイツは心臓でも悪いんじゃないか。その方が心配だぜ」

  (以下、つづく)




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