#3899/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/ 6/ 9 4:47 (146)
代償 第一部 5 リーベルG
★内容
5
ゴールデンウィークが終わると、星南高校は中間試験週間に突入した。
一、二年生にとっては、一学期の中間試験など、単調な学校生活の中の一つの
アクセントにすぎなかったが、三年生の進学組は内申書に直接関わってくるだけ
あって、真剣そのものである。
進学組でも、目標によっては世界史を必要とはしない生徒がいる。もちろん中
間試験、期末試験は受けなければならないが、上位に入る必要は全くない生徒た
ちである。
由希は優しく物わかりがいいばかりではなく、授業に関してはむしろ厳しい方
に分類できたのだが、そういう生徒たちが、授業中に他の科目を勉強しているの
は黙認していた。その際のルールは、ただ一つ。他の生徒に迷惑をかけないこと
である。
美奈代はこれが気に入らなかった。由希の授業をさぼって他の勉強をするなど、
もっての他だ、と思ったのだ。
「何も言わなくても、心の中では、由希先生、きっとがっかりしてるに決まって
るわ」クラスメイトの家で勉強しながら、美奈代は毒づいた。
「そーよねえ。隠れてこっそりやるならともかく、どーどーと先生の目の前でや
られたんじゃねえ」
「特に、田上なんか、あからさまだもんね」
「あの、メガネチビ」美奈代は顔をしかめた。「教科書も開いてなかったわね」
「美奈代、ちょっと言ってやったら」クラスメイトがけしかけるように言った。
「せめて、ノートぐらい取れよって。あんた、由希先生のお気に入りなんだから
さ」
「そうね。あんまり失礼な真似されちゃあ、黙ってらんないわね」
テスト週間が始まる前日、美奈代はクラスメイトの田上紀子を、校舎の裏に呼
び出した。美奈代の考えに同調した数人も一緒である。
「何?藤澤さん」ややずんぐりした体型で、メガネをかけた田上紀子は、苛立ち
を隠そうともしなかった。「あたし、早く帰って勉強したいんだけど」
「あんたねえ」美奈代は詰め寄った。「由希先生の授業を何だと思ってんのよ」
「ええ?何のことよ」
「とぼけないで。いつも授業受けずに、他の科目の勉強やってるじゃない」
「それがどうしたのよ」
「どうしたですって?先生に対して失礼だと思わないの?」
「何よ、それ」田上紀子は鼻で笑った。「みんなやってることじゃない。先生だ
って何も言わないし」
「だからって、やっていいって言われたわけじゃないでしょうが」美奈代は声を
荒げた。「きっと先生だって心の中じゃ、怒ってるわよ」
「へええ、そうかしらね」
「そうに決まってるじゃない!」
「でも、怒っているなら、はっきりそう言うと思うわ」田上紀子が冷静に指摘し
た。「そういうことで遠慮するような人じゃないもの」
美奈代は言葉に詰まった。それを見た田上紀子は薄く笑った。
「要するに、あんたが先生にいい顔したいだけじゃないの。なんせ、由希先生の
お気に入りだもんねえ。先生を侮辱するやつは許せない、ってわけね」
「ちょっと田上!」別のクラスメイトが、美奈代の代わりに叫んだ。「少しぐら
い成績がいいからって、なめないでよね!」
「そうよ、偉そうに!」
「ふん」田上紀子は肩をすくめただけだった。「ばかばかしい。帰らせてもらう
わ。あんたたちも早く帰って勉強したら。明日は試験な……」
平手打ちの音が、大きく響いた。
「何すんのよ!」田上紀子が頬を押さえて叫んだ。
「ふざけるんじゃないわよ!」美奈代が目を吊り上げてわめいた。「ばかにしや
がって!ぶっ殺してやる!」
脅し文句よりも、毒を含んだ視線の方にぞっとした田上紀子は、後ずさりした。
二歩めで背中が校舎の壁に接触した。
美奈代は我を忘れて、田上紀子を突き飛ばした。悲鳴をあげて地面に倒れた相
手を、美奈代は蹴りつけた。
「ばかばかしいとは何よ!」美奈代はわめき続けた。「ふざけんじゃないわよ!」
なおも蹴り続ける美奈代に、クラスメイトたちは顔を見合わせた。だが、誰か
が止めに入る前に、彼女たちの背後からかけられた声が、美奈代を凍りつかせた。
「何をしているの!」
生徒たちは振り向き、険しい表情の由希が立っているのを見た。
「せ、先生……」美奈代が怯えた子供のような声を出した。
「あなたたち、何をしているの」由希は燃えるような瞳で、順番に生徒たちを見
つめた。「大勢で一人を寄ってたかって」
「ちが、違うんです、先生」美奈代は慌てて由希の元に駆け寄った。「あたした
ち、ちょっと話し合いをしてただけです」
由希の視線が、地面にうずくまっている田上紀子に注がれた。
「話し合いですって?」
「ちょっと、意見が食い違ってしまって……」
「みんなで田上さんをいじめていたってわけ?」由希は美奈代の言葉を遮った。
「あなたたちが、そんなに卑怯な子たちだとは思わなかったわ」
美奈代は刃物で刺されたような顔をした。激しいショックが表れている。
「そんな……先生……いじめてなんか……」
「黙りなさい、藤澤さん」由希は、今まで美奈代に対して発したことがない厳し
い口調で言うと、田上紀子の肩をそっと揺すった。「田上さん、田上さん。大丈
夫?」
田上紀子は痛そうに顔をしかめていたが、うっすらと片目を開けた。
「はい、先生」
「とにかく保健室に行きましょう」
由希は田上紀子を立ち上がらせると、肩を貸して体重を預けさせた。もはや、
美奈代たちには目もくれずに言い捨てる。
「あなたたちも早く帰りなさい。このことは、テストが終わったら、しっかりと
聞かせてもらいます。さあ、早く」
生徒たちは一目散に駆け去っていった。
美奈代は信じられないような顔で、由希と田上紀子を見ていた。
「先生、信じて。あたし……」
「早く帰りなさいと言ったのが聞こえなかったの?」
冷たい声だった。たいていの生徒の失敗は、肩をすくめて許してくれる由希が、
別人のように険しい表情を作っている。
耐えきれなくなった美奈代は、クラスメイトたちの後を追って、走り去ってい
った。
由希は冷ややかな視線で、その背中を追っていた。
大好きだった由希先生に裏切られた、との思いが尾を引いたせいか、美奈代の
中間試験は無惨な結果だった。
由希にきつい言葉を投げつけられた日の夜は、ほとんど眠れなかった。翌日か
ら始まった一日、三科目づつの試験にも集中できなかった。おぼえたはずの単語
や、活用形が問題と結びつかない。地名が浮かんでこない。漢字の変換機能が動
かない。
さすがに世界史だけは、ほとんどの設問を埋めて提出することができた。もっ
とも、試験勉強の成果を半分も生かすことができなかったのは、他の科目と変わ
らなかった。むしろ、直接由希に関係する科目であるから、解答するのが苦痛で
すらあった。
全ての試験が終わったときも、今までなら鎖から解き放たれたような気分を味
わったのに、今回は重く苦しい苦みだけが残った。
試験期間中は、ほとんど由希に会うことができなかった。朝のホームルームの
時だけは教室に現れたが、そのときも美奈代にも、田上紀子にも、あのとき居合
わせた他のクラスメイトたちにも、特別に興味を示しているような態度はみせな
かった。
「それでは、みんなお待ちかねの試験を返します」由希は封筒から、解答用紙の
束を取り出した。「名前を呼ばれたら、取りに来て下さい。石川くん」
名前を呼ばれた生徒は、期待と不安を等分に浮かべながら、前に出て解答用紙
を受け取った。由希は、用紙を渡す際に、「ここ、惜しかったわね」とか、「一
世と三世がごっちゃになってるみたいね」とか、「ごめん。ここは引っかけだっ
たんだけど」などと、一言ずつコメントを付けた。解答用紙を無造作に返して、
事務的に正解を述べるだけの教師とは一線を画していた。
「田上さん」
美奈代ははっと教卓を見た。田上紀子が由希の前に立っている。由希はにっこ
りと微笑んで解答用紙を渡した。
「いつも授業を聞いてないわりには、よくがんばったわね」皮肉抜きで由希が評
した。「学年で三番目の点よ。ここ、書き間違えね。まあ問題は理解しているみ
たいだけど」
教室の中に、声にならないざわめきが満ちた。
田上紀子は、嬉しそうに顔を輝かせながら振り向いた。その視線が、美奈代の
それと交差した一瞬、田上紀子は勝ち誇ったような笑みを刻み、自分の席に戻っ
た。美奈代は唇を噛みしめた。
しばらくして、美奈代の名前が呼ばれた。美奈代は震える足で立ち上がると、
おどおどと由希の前に立った。解答用紙が渡された。
43点。
予想以上に悪かった。絶望に近い失望感が走る。そこに由希の言葉が追い打ち
をかけた。
「次はもう少しがんばりましょうね。がっかりしたわ」
最後の言葉は、美奈代にしか聞こえない小声で囁かれた。殴りつけられたよう
に、美奈代の視界がぐらりと揺らぐ。美奈代はふらふらと自分の席に戻った。
「ねえ、何て言われたの?」隣の席のクラスメイトが囁いた。「聞こえなかった
けど」
「あ、うん」美奈代は強ばった笑いを浮かべた。「ちょっと悪かったから」
「ふーん」何も知らないクラスメイトは首を傾けた。「世界史、あんなにがんば
ってたのにねえ。でも、紀子はすごかったねえ」
美奈代は答えなかった。解答用紙がくしゃっと握りしめられた。