#3897/5495 長編
★タイトル (FJM ) 97/ 6/ 9 4:45 (179)
代償 第一部 3 リーベルG
★内容
3
その夜、午後八時を過ぎた頃。
今井は険悪な表情で、いきつけの居酒屋を出ると、駅前のタクシー乗り場に向
かって歩き出した。由希が誘いに乗ることは、今井にとっては未定ではなく、決
定事項であったので、妻には夕食はいらない旨を朝のうちに告げてあった。由希
に拒絶されたからといって、今さら家で食べるわけにもいかず、仕方なく一人で
居酒屋ですませたのだった。
「ちくしょう、あの女」今井はぶつぶつつぶやきながら歩いていた。「おぼえて
やがれ。おれをなめやがって」
由希に対する怒りは、ビールを三本空けた後もおさまってはいなかった。むし
ろ、アルコールは負の感情を促進することになった。今井は、由希に対する不信
を、明日にでも校長と理事長に上申するつもりだった。星南高校には教頭という
役職がなく、職制上、校長の下は、三人の学年主任になっていた。中でも、三年
生の学年主任である今井の発言力は大きく、過去にも気に入らない教師を免職に
おいやったことが数回ある。
しかし、今回ばかりは、ただではすまさない、と今井は考えた。何とか校長ら
を言いくるめて、あの女の免職の最終判断を、おれの手に持ってきてやる。そし
て、その事実をあの女に突きつけて、じっくりと反応を楽しんでやるぞ。なんだ
かんだ偉そうなことを言っても、所詮、大学出たての若い女だ。他の教師たちは
味方につくわけがない。そうと知ったとき、あの女はどう出るかな。身体で許し
てもらおうとしても駄目だ。いや、抱くだけ抱いておいて、それからくびにして
やる。それとも、くびにするのを勘弁してやるかわりに、愛人にしてやるか。胸
は少し足りないようだが、あの澄まし顔を毎晩、ひいひい泣かせてやるのも悪く
ない。太いバイブをケツにぶちこみながらやってやるぞ。飽きたら捨てればいい
だけだしな……
おぞましい想念にとらわれていた今井は、周囲がまるで目に入っていなかった。
はっと気付いたときには、横から歩いてきた誰かと激しくぶつかっていた。両
者はそろって尻もちをついた。
かっとなった今井は、反射的に罵声を口にした。だが、相手の姿を見たとたん
口をつぐんでしまう。
路上で大げさに肩をさすっているのは、安物のシャツとスーツを着崩した二十
代の男だった。髪の毛は茶色に染められている。
「おー、いて」男は痛そうに顔をしかめながら、今井をにらんだ。「おい、おっ
さん。何してくれるんだよ。いてえじゃねえか」
「そっちがぶつかってきたんだろうが」今井は文句を言った。怒りがむらむらと
わいてくる。「そんなところから、急に飛び出してくるから……」
「なんだと、おい」男は来た方に顔を向けた。「おれが悪いっていうのか、おっ
さんよお。おれのせいだってんだな」
「そんなことは……」
「おい、どうしたんだ?」別の声が今井の言葉をかき消した。
男が来た角から、さらに二人の男が現れた。年格好は同じぐらいだった。
「こいつが急にぶつかってきやがってよ」
「なんだと?ぶつかってきただと?」
「そいつはいけねえな。お前、怪我しなかったか?」
「おお。肩が痛くて仕方ねえや。足もひねったみたいだし」
「そりゃいけねえな。仕事に差し支えたらことだぜ」
「こんなんじゃ仕事なんかいけねえよ!」最初の男は、にやにやしながらも痛そ
うな声を出した。「痛くて痛くて死にそうなんだぜ」
「そりゃ気の毒にな」
「で、こいつは謝ったのか?」
「謝るどころか、おれが悪いっていいやがったぜ」
「何だって、そんなこと言ったのかよ」
「許しちゃおけねえな」
三人は呆然と座り込んでいる今井を取り囲むように立った。後から現れた男の
一人が、腰をかがめて今井に顔を近づけた。
「おい、おっさんよお。おれの友達に怪我させてくれて、謝りもしねえで、自分
のせいじゃねえって言ったんだってなあ」
こいつら、ヤクザだ。そう悟った瞬間、今井の顔は蒼白になった。酔いが一気
に醒めていく。周囲を見回すが、街灯もあまりない暗い夜道で、人も車も通らな
かった。近道をしたのが仇になっていた。
「ま、まってくれ」今井は必死で手を振った。「わ、私は何にも……」
「うるせえ」
いきなり顔面に拳が叩きつけられた。それほど強くない一撃だったが、暴力に
慣れていない今井は悲鳴をあげた。
「責任を回避しようってのかよ、え?」
「ゆるせねえよなあ」別の男が後ろから今井の腰を蹴った。「男らしくないぜ、
おい」
「どうしてくれるんだよ、この肩」最初の男が言った。
「わかった。私が悪かった。許してくれ」
「謝るときは、正座するもんじゃねえのかよ」言葉とともに頬が張られた。「誠
意みせなよ、おっさん」
「は、はい」
すっかり怯えた今井は、あわてて正座した。学校の教師たちや生徒たちには、
死んでも見せたくない姿である。
「どうも申しわけありませんでした」プライドも威厳もかなぐりすてて、今井は
地面に頭をこすりつけた。「許して下さい」
男たちの嘲笑が、今井の耳に届いた。
「おい、どうする?」
「そうだなあ。ここまで謝ってるんだからなあ」
言葉と同時に、パッと周囲が光った。今井が驚いて顔を上げたとたんに、閃光
が目を射抜いた。小さなシャッター音から、写真を撮られたのだと気付くまで少
し間があった。
「おい、待ってくれ」今井は懇願した。「やめてくれ。撮らないでくれ」
使い捨てカメラを持った男は、へらへらと笑っただけで何も答えず、またシャ
ッターを切った。横から別の男が言った。
「おっさんよお。こいつ、今から病院に連れていかなきゃならんのだけどなあ。
おれたち、みんな貧乏でよ……」
「わかった。払う」
今井は札入れを取り出した。紙幣を数枚取り出そうとしたとき、男が札入れを
ひったくった。
「……九枚か。少ないが、これで勘弁してやるか?おい?」
「仕方がねえな」ぶつかった男が答えた。
「へえ、あんた学校の先生さんかよ」男は入っていた名刺をひらひらさせた。
「や、やめてくれ。学校の方には……」
「わかってるよ」男はにやりと笑うと、今井の肩をぽんぽんと叩いた。「なあ、
先生さん。この金は、あんたが自主的に治療費として出したものだよな。おれた
ちが脅し取ったわけじゃないってことはわかってるよな?」
「わかっている」
「念のために言っておきたいんだけどな。恐喝罪とか何とかで、サツに駆け込む
ような真似はしないだろうな?」
「しないしない!」今井は懸命に首を横に振った。「誓うよ!」
「もしこのことで、サツがおれたちを訪ねてきたりしたら、あんたが土下座して
るさっきの写真が学校に届くかもしれねえなあ」男は独り言のようにつぶやいた。
「ま、この先生はそんなことはしないだろうから、おれも安心してるけどなあ」
明白な脅迫だった。それを黙って聞いていなければならない今井は、屈辱で身
体が震えたが、ヤクザたちへの恐怖の方がそれを上回っていた。
「じゃあ、後は五、六発殴ったらかんべんしてやるか」
「ま、まってくれ!」今井は叫んだ。「もう許してくれ!」
「口約束なんかあてにならねえからな」男は冷酷に告げた。「身体におぼえてお
いてもらった方が、こっちも安心なんだよ。おっさんが、物忘れの激しいたちだ
と困るしな」
「誰にも言わない!」今井は必死で頭を下げた。「約束する!」
「信じられねえな」
脇腹に固い靴先が勢いよくめりこんだ。悶絶しそうな激痛が走る。
突然、周囲に昼間のような光が満ちた。同時にクラクションがけたたましく鳴
り響く。今井を殴りかけていた三人は動きを止めて、近づいてくる乗用車を見た。
「ちっ。おい、いくぞ」
三人は今井を放り出して逃げ出した。最初にぶつかった男が、通り過ぎざま、
今井の尻を思いっきり蹴飛ばしていった。今井は無様に顔を地面にこすりつけた。
乗用車がすぐ近くに停まる音が聞こえた。ドアが開く音とともに、誰かが降り
て歩いてくるのがわかった。今井はゆっくりと身体を起こそうとした。
「今井主任ですか?」
聞き覚えのある若い女の声が耳に届き、今井は苦痛をこらえて顔を上げた。か
すむ視線が相手の顔に焦点を結び、一番この姿を見られたくない人物が立ってい
るのを知った。
「どうしたんですか、今井主任!」由希は藤色のパンツが汚れるのも構わず、膝
をついて今井の身体を起こそうとしていた。「血が出てますよ!病院へ行かない
と!」
「い、いや」今井は何とか声を出した。「大丈夫だ」
「さっきの人たちにやられたんですか?警察呼びましょうか?」
「やめてくれ!」思わず大声で叫んでから、今井は気付いて声を落とした。「い
や、たいしたことはないから」
「でも……」
「いいんだ」
由希は頷いてハンカチを出して今井の顔にあてると、今井の手を取って上から
押さえさせた。
「押さえていて下さい」
今井は頷いてハンカチで、傷口を押さえた。ハンカチは洗濯され、きちんと折
り畳まれていた。まだ少しぼうっとする頭で、今井は由希が立ち上がって、小走
りにどこかへ行くのを見ていた。
由希はすぐに戻ってきた。手に缶コーヒーを持っている。プルタブが引かれて、
手渡された。
「どうぞ」
今井はそれを受け取ると、むさぼるように飲み干した。甘いコーヒー飲料が、
全身に浸透していくようだった。大きく息を吐き出すと、ようやく落ち着いてきた。
「ありがとう、橋本先生」礼を言ったとたんに、夕方の一件が思い出され、今井
は急に恥ずかしくなった。「助かったよ」
言いながら、今井は由希の顔を観察した。今井の不幸を喜んでいたり、弱みを
握った優越感がそこにあっても不思議ではない。だが、由希の顔には、心配そう
な表情しか浮かんでいなかった。
「びっくりしましたよ」由希が話している。「たまたま、そっちの道を通ろうと
思ったら、誰かが蹴られているみたいでしたから。行き過ぎてからバックしてみ
たんですけど。まさか、今井主任だとは思いもしませんでしたね」
負けた。今井は傷の痛みも忘れて、心からそう思った。立場が逆だったら、自
分が由希のような態度を取れたかどうか自信がなかった。それどころか、誰かが
襲われているのを発見しても、助けに入るどころか、その場から逃げ出してしま
ったかもしれない。だが、一見、世間知らずのお嬢さんのような由希が、ためら
いもせずに助けに来てくれたとは……。
「橋本先生。学校では申しわけないことを言った」今井は頭を下げた。今度は強
制されたのではなく、自分から下げたのだ。「本当に傲慢だった。どうか許して
下さい」
「やめて下さい、主任」由希はとまどったように、今井を押しとどめた。「気に
していませんから」
「しかし……」
「それ以上おっしゃらないでください。それより立てますか?ご自宅まで送りま
す」
「そうか。ありがとう。世話をかけてすまない」
少し離れた建物の陰から、今井に暴力をふるった三人の男たちが、由希のシビ
ックが走り去るのを見つめていた。今井から金を奪った男は、テールランプが角
を曲がって消えていくと、満足そうに後の二人に言った。
「よし、おれたちも引き上げるぞ」
「あれで良かったんですか、兄貴」
「ああ、上出来だったぞ。ほら、二人で分けろ」男は今井から奪った金を、残ら
ず渡してやった。「今夜のことは他言するなよ」
「わかってます」