#3886/5495 長編
★タイトル (PRN ) 97/ 5/24 23: 0 (162)
海人(2) 叙朱(ジョッシュ)
★内容
小舟は強風の中を浜へ戻ってきた。
松造は唇まで真っ白になったサヨをおぶって、浅瀬に飛び降りた。舟のモヤ
イ綱を松の木にくくるのももどかしく、浜から駆け出した。海水を吸ってすぶ
濡れになった綿入れは舟の中に脱ぎ捨てたが、意識のないサヨの身体は冷たく
そして重かった。しかしときおり、松造の背でサヨは思い出したように僅かに
震えた。サヨの生きている証だった。
松造は心臓がせり上がりそうになるくらい焦って走った。花も飾られていな
い寒々とした石墓所のわきを走り抜けると息が切れた。足ももつれている。し
かし血走った目で、口を苦しげに開き喘ぎながら駆けた。サヨの命が一刻を争
っていることが松造には分かっていた。
サヨはなんと舟の真下にいた。追いつめられてついに冬の海に飛び込んだ松
造の目は、舟の切っ先にひっかかっている見慣れた丸帽子を見つけたのだ。そ
れはもう絶望のぎりぎりから見つけた僥倖だった。
松造は境川に沿って走った。隣家の住人が外に出て海苔台の水掃除を始めて
いた。
「松造さん、どうしたんだい」
ヨネ子が海苔台から手を離してびっくりしたように声をかけた。
松造は息があがって、口を動かしてみたものの声が出ない。松造の尋常なら
ぬ姿と背負われたものが生気のないサヨと分かったヨネ子は、後ろから追いか
けるように松造の家に飛び込んだ。
「サヨちゃんが海に落ちたんだね。こりゃ大変だ。すぐに布団を敷いて着替え
させて、温かくしてやらなくちゃあ。私が着替えさせるから、松造さんは布団
をすぐに敷いてくださいな。それから火もおこさないといけないね。あと、医
者も呼ばなくてはいけないよ。あらいけない。こんなに冷たくなっている。早
く早く」
ヨネ子はサヨの濡れている着衣を急いで脱がせた。サヨの身体はまるで死人
のように力が無くだらりとしていて、着衣を脱がせるだけでも一苦労だった。
サヨの下巻きを脱がせてヨネ子は、はっとした。
サヨの白い首筋から小さなふくらみの胸にかけて丸い赤い斑点がいくつもつ
ながっていた。青白い身体でそれだけはまるで生きているかのような赤い色を
していた。乾いた手ぬぐいでこすってやっても消えなかった。気味が悪かった。
これは何だろう。ヨネ子は、サヨを寝間着に着替えさせながら、思いをめぐら
せた。
ヨネ子が手配した湯たんぽがふたつ、隣家からすぐに届き、そして電話でせ
かされた医者がバイクに乗ってやってきた。
サヨは幸いなことにあまり水を飲んでいないようだった。体温も脈も正常で、
ほとんど咳き込むこともなかった。二月の冷たい海に落ちたと聞いてきた医者
は、そのことを不思議がった。
「熱が出ると思うが、栄養のあるものを食べてゆっくり安静にしていれば大丈
夫だ」
医者は掛け布団をととのえて熱冷ましの薬だけ差し出すと、バイクに乗って
そそくさと帰っていった。
「松造さん、あんたの方が顔色悪いわよ。サヨちゃんは大丈夫なようだから、
少し休んだらどうだい」
ヨネ子から言われて、松造は初めて自分の疲労を感じた。足が萎え激しい頭
痛が急に襲ってきた。脇の冷や汗と胃のあたりに悪寒も覚える。
「じゃ、そうするかな」
しわがれた声でそう呟くようにいうと、松造は奧の納戸の方へ消えた。ヨネ
子はまた家の者を呼び、熱いお粥と玉子酒を言いつけた。
医者の言葉通り、サヨは夕方から高熱にうなされ始めた。
まだ意識は戻っていない。少し眠った松造が枕元でそんなサヨを見つめてい
た。ヨネ子は夕飯の支度をするといって先ほどから隣家に戻っていた。
サヨは、うーん、うーん、と時々うめいた。それが久しぶりに聞くサヨの声
だった。浜から駆けたときにあれほど冷たかったサヨの身体は、熱で火照り額
には汗が光るほどだった。その汗を松造は丁寧に拭いてやった。
その時、サヨが小さく呟いたようだった。松造には聞き取れなかった。
「ウ、ミ、ン、ド」
今度は松造にも聞き取れた。
その意味を考えようとして汗を拭く手を止めた。
「海人」
確かにサヨは海人と呟いたようだった。松造は愕然とした。
「まさか海人が・・・」
思わず声に出していた。松造はこぶしを握りしめた。まさか。松造は自分の
想像を打ち消すために、頭を振った。
その時ちょうどヨネ子が、勝手口から夕食の盆を持って入ってきた。
「松造さん、夕食を作ってきたからね、食べて頂戴よ」
ヨネ子は上がってくると盆を松造の横に置き、サヨの顔をのぞき込んだ。
「ああ、こりゃあかなり熱が出ているようねぇ。でも正気になってくれないと
薬を飲ませられないし、困ったなあ」
ヨネ子は松造の隣に腰を下ろしサヨの顔に見入った。少しの間ぎこちない沈
黙があった。こらえきれず、ヨネ子が思いきったように口を開いた。
「さっき、サヨちゃんの着替えをしていて気づいたんだけど、首のところに赤
い斑点があったわ。丸くて、首から胸あたりまでいくつもつながっていたの。
手ぬぐいで拭ってみたんだけどもとれなかったから、まだ残っているかもしれ
ないね」
ヨネ子が布団を上げサヨの寝間着の胸元をはだけさせた。首筋からの丸い斑
点は、発熱で赤みを帯びているサヨの肌にそれでもはっきりと見てとれた。
「何なんだこれは」
松造は絶句した。
サヨの前を大きな精霊船がゆっくりと通り過ぎてゆく。
小さい頃から見たもので一番大きな精霊船だ。それはもう、普通の漁舟の大
きさくらいあった。艫から縁、そして舳先まで金色や銀色の蓮の花で飾られ、
真ん中には社のようなひとまわり大きな回り灯籠がひとつあり、ロウソクの炎
の熱でくるりくるりと蓮の花の影絵が回転している。
ゆっくりと境川を流れてゆく精霊船を追って、サヨは歩きはじめていた。境
川沿いの道は浜に向かってだらだらと下っている。小高い丘の上の石墓所には、
ちがい笹の家紋をつけた送り提灯が竿に横一列に連なっていた。
サヨは気づいた。精霊船は母ツネを送るものだった。
舳先に女が座っている。ツネだった。ツネはタコ漁に出かけるときと同じよ
うに、綿入れを着込み小豆色の丸帽子をかぶっていた。
何故わざわざタコ漁の格好をしているのだろう。他にもっとましな着物はあ
るのに。
サヨはそんな事を思いながら、精霊船の後を追い恵比寿様を過ぎ浜の入江に
まで来ていた。
入江に流れ込む境川はそこで遠浅の有明の海と一体になる。干潮時には沖合
はるかまで潮は引き、境川は黒く濡れた砂浜を浸食して流れる。満潮時には境
川の河口にまで潮は満ち寄せ、海と川の境目は消える。
精霊船は満潮の海へゆっくりと流れ込んだ。まるで意志を持っているかのよ
うに、精霊船は沖を目指して進んでゆく。サヨは堤防から舟を目で追った。
突然サヨの目の前で、海面が隆起を始めた。静かだった海の一部が急に盛り
上がり、精霊船をその頂きに乗せて右に左にと揺れた。さらにその隆起した海
の中から細長いものが三本、四本、六本と伸びて精霊船に絡みついていった。
みるみるうちに精霊船はバラバラになってゆく。舳先のツネは座ったまま動
かない。金銀の花がはねて海に舞った。細長い手がツネに絡みつく。
「海人!」
サヨは叫んでいた。海人に母さんを取られてしまう。
サヨは浜から駆け出していた。砂を蹴り海の隆起に向かって駆け出していた。
「母さんを帰して、海人、母さんを連れていかないで」
サヨは精霊船に向かって駆けた。しかし、サヨがいくら走っても叫んでも、
壊れた精霊船へは近づけない。
ツネに絡まる細長い手は火傷でもしたかのように爛れていた。しかし、それ
は人間の手のようにも見える。火傷の跡のある白くて細い人間の手?、サヨは
胸騒ぎがした。
次の瞬間、ツネは海から伸びる白くて細長い手で隆起した海に引きずり込ま
れた。
「海人、母さんを帰して」
サヨは絶望感に突き上げられて絶叫した。
叫びながらサヨは我に返った。
布団の中だった。頭が痛い。背中も痛い。裸電球が目にまぶしい。サヨは目
をせわしくしばたかせた。動けない。枕元に人の気配があった。それが父、松
造と隣家のヨネ子だと分かるのにはもう少しの時間が必要だった。二人は寄り
添うように座っていた。
それから、記憶がゆっくり戻ってきた。サヨは舟から落ちたのだ。
「気がついたようね。気分はどう」
最初に声をかけたのはヨネ子だった。優しい声音だったが、サヨはなぜかぞ
っとした。松造は黙っている。
「大変だったわね、松造さんが浜から走ってきたときは、何があったのかと本
当に驚いたのよ。でも幸いに風邪くらいで済んで良かったわ。どう、食欲はあ
るの。お粥を今温めるから、食べてね」
ヨネ子がゆっくり喋った。松造はまだ黙り込んだままだった。サヨはヨネ子
の問いかけを無視して、松造に話しかけた。
「父さん、夢の中で母さんに会ってきた」
サヨの声は小さく、そして震えていた。
「母さんの乗った舟が海人に壊されて沈んでしまった。それでも母さんはじっ
と座っていた。私は見ていたの、浜まで行って見ていたの。しっかりと見てい
たの。海人の白い細長い手が母さんを海に引きずり込んだのよ」
最後の方は泣き声になっていた。松造が悲しげな目をしていた。相変わらず
黙り込んだままだ。そのまま部屋は静まり返った。
サヨは顔を僅かに動かしてヨネ子の顔を覗き見た。ヨネ子は目を伏せている。
恐る恐る膝の上に置かれたヨネ子の手を盗み見てみる。海苔を扱うにしては、
白くて細長い手だった。しかし、サヨの探している火傷の跡はそこにはなかっ
た。しばらく見つめた後、やっとサヨは目を閉じた。ほうっという溜息が自然
に出た。
さらさらという屋根瓦の音だけが耳についた。いつの間にか外はまた氷雨に
なったようだった。
サヨは日毎に快方へ向かっていた。
三日目にはもう歩けるくらいになった。しかし、入れ替わりに松造が布団か
ら起きてこなくなった。松造はサヨが促してもしわがれ声で曖昧に応えるだけ
で、疲れ果てたように布団に横たわっていた。
松造に寝込まれてサヨは困った。サヨ一人では舟が操れないから、漁ができ
ないのだ。
ヨネ子もあれ以来顔を見せなくなった。それでも食べるだけはヨネ子の手配
か、朝方になると必ず玄関口にタコ足のぶつ切りがおいてあった。タコ足は松
造の好物だった。それに土間に埋めた去年の野菜の蓄えを細々と取り出して、
それで何とか間に合わせていた。
(以下続く)