#3887/5495 長編
★タイトル (PRN ) 97/ 5/24 23: 1 (118)
海人(3) 叙朱(ジョッシュ)
★内容
松造が寝込んだのを聞き及んだのか、隣村に住む叔母ツヤが訪ねてきた。
「松造さんがかなり弱ってしまってるそうね、何かあったのかい」
ツヤは挨拶もそこそこに、お土産と言ってまだ泥のついた大根を三本だけ土
間におくとそう聞いた。サヨは自分が海に落ちたいきさつをひととおり話した。
「なるほどね、それじゃあ風邪でしょう」
ツヤは一人で納得し松造を形だけ見舞うと、サヨの前に座りなおした。
「松造さんがあんな具合じゃこの家も大変でしょう、食べ物とか、どうしてゆ
くつもりなの」
ツヤの問いはもっともだった。サヨもこれからどうしようか考えあぐねてい
るところだった。
「隣の家からだと思うんですけど、毎日、大きなタコの足のぶつ切りを玄関口
に差し入れしてもらってるんです。それで助かっているんですけど、いつまで
も他人様の好意に頼るわけにもいかないしと私も考えているところです」
サヨは説明する。ツヤがサヨの言葉にかぶせるように続けた。
「ね、あなたももう十六になったでしょう。お婿さんに来てもらったらどう。
松造さんがあれでは生活は立ち行かないわよ。男手があれば何とかなるんじゃ
ない」
サヨは、ツヤの思いがけない話にどぎまぎして赤くなった。が、婿取りは全
く考えたことがないわけではない。娘ひとりなので、母親のツネもサヨに婿取
りの話をしたことがある。ただもっと先の話だと思っていた。
「頼まれている人がいるのよ。私と同じ村の人なのだけど、次男で手に職を持
っているから安心よ。良い話だと思うよ」
サヨが黙り込んだので、ツネが話に弾みをつける。
「でも、こんな家に来てくれるかしら。寝込んだ父親がいて、しかも大した田
畑もない貧乏な私の家に」
サヨは率直に一番の心配を告げた。しかし、それはツヤには話をまとめて欲
しいという意志表示となった。
「それは大丈夫よ」とツヤは笑った。
ツヤは母ツネの妹のはずだが、笑った顔はあまり似ていなかった。
「じゃあ、話を進めるわよ。松造さんには私から話すから、良いね」
ツヤはもうすっかり安心したように嬉しそうな顔で立ち上がった。手には大
根をもう一本下げている。サヨは慌てて、よろしくお願いします、と頭を下げ
た。
ツヤは、うんうん、とうなずく。手にした大根をかざしながら続けた。
「お隣にお礼をしてから帰るわね」
「それなら私もいっしょに行きます。ずいぶんとお世話になりっぱなしだから」
サヨも立ち上がり、足早に歩くツヤを追いかけて家を出た。サヨが表通りに
出ると、もうツヤは隣家に気軽に声をかけながら入って行くところだった。
隣家の入り口には干し魚をおさめた木箱が所狭しと並べられていた。サヨは
「ごめんください」と声を掛けると、箱の間をすり抜けて奥へと土間を進んだ。
土間の奥にツヤが立っていた。ヨネ子が上がり框にひざをついて、ツヤに向
かって話している。寝間着のままだ。白い細い手で髪を押さえている。寝起き
のようだった。
「サヨちゃんのところにタコを届けているのは、私ではありませんよ。気には
なっていたんですけどねえ。あいにく三日前から急に体の具合が悪くなって、
床に臥せってしまいました。いえいえ、御陰様でもうだいぶ良くなりました。
サヨちゃんのほうはもう大丈夫?」
ヨネ子は暗い顔でそう言った。まだだいぶ具合が悪そうだった。
「はい、何とか歩けるぐらいにはなりました。その節は本当にお世話になりま
した」
サヨはツヤの横に進むと深々と頭を下げた。
「そう、それは本当に良かった。松造さんはどう?」
松造はまだ起きれない。すっかり弱ってしまったようだ。サヨはそう説明し
た。ヨネ子は暗い表情のまま、ああそう、と呟やくように言った。
ツヤが大根を持った手を差し上げて話の中に入った。
「あのお、こんなものしかなくて。大根なんですけど、どうぞ」
いえ、とんでもないと、ヨネ子はかぶりを振る。ツヤはそんなヨネ子に構わ
ず、大根を上がり框に置いた。ヨネ子が恐縮して頭を垂れる。
二人は話が途切れたところで、隣家を辞去した。
「変な話ねえ、お隣じゃなければ一体何処の奇特な方がタコを届けてくれるん
だろう」
隣家の外に出て、ツヤとサヨは顔を見合わせた。サヨには他に心当たりはな
い。まるで狐にでもつままれた気分だ。
サヨは隣村に帰るというツヤを境川の橋の上まで見送った。小走りに歩くツ
ヤの後ろ姿にお辞儀をしながらも、サヨはツヤが持ってきた婿取り話より、タ
コ足の送り主の方が気になって仕方がなかった。
サヨは今夜は眠らないつもりだった。
もしもそれまでのように誰かが松造の好物を届けてくれるのならば、今夜こ
そは出ていってお礼を言うつもりだった。一応布団は敷いたが、土間との間の
障子を少し開けて聞き耳を立てた。
何事もなく夜は静かに更けていった。納戸で寝ている松造の苦しそうな鼾が
ふすまを通して聞こえてくるだけだった。しかし、さすがに高熱からの疲れが
残っているのか、夜も十二時頃になるとサヨはうつらうつらとしはじめた。
ぴたん、ぴたん、ぴたん。
水が垂れるような音でサヨは浅い眠りから覚めた。かすかなその音は、確か
に表通りの方から聞こえた。ぴたん、ぴたん、ぴたん。何の音だ?、何かを引
きずるような音も混じっている。
サヨは胸騒ぎを覚えて起きあがった。ぴたんぴたん。水垂れの音はもう家の
前から遠ざかってゆくようだった。静かに草履を履くと、音を立てないように
ゆっくりと玄関の戸を押し開いた。
月のない暗くて寒い夜だった。玄関戸の前にはいつものように、タコ足のブ
ツ切りが置いてある。サヨは開いた玄関戸から首だけ突き出して、音のする方
を見透かそうとした。しかし月明かりもなくて何が何か全く分からない。その
音は境川の方へ向かっているようだった。ぴたんぴたん。
気がせいた。サヨは家から走り出た。ぱたぱたという草履の音が、静かな真
冬の空気を震わせた。水垂れのような音は、一瞬ぴたりと止んだ。しんとした
静寂が辺りに訪れた。何も動く気配はない。サヨは思い切って呼びかけた。
「海人でしょう。そこにいるのは海人なんでしょう」
囁くような声だったが、静まり返った冬の夜には鋭く響いた。
水垂れの音はしない。サヨの目が徐々に闇に慣れてきた。そして確かに何か
がいた。その何かは境川の堤防の上にうずくまっていた。見られたと感じたの
か、次の瞬間、その何かは動いた。堤防を越え境川へと跳んだようだった。
ぱしゃん。境川に何かが飛び込む音がサヨの耳に届いた。
サヨは境川の橋まで走った。橋の上から見下ろす境川は、満ちてきた潮で川
面がせり上がっていた。飛び込んだ何かの姿は見当たらない。しかしサヨの目
には、境川に飛び込む瞬間のその何かの姿が、黒いシルエットとなって残って
いた。
それは短くなった手足をばたつかせる大きなタコのシルエットだった。
「まさか自分の足を」
サヨは絶句した。タコは自分の足を切り刻んでサヨの家まで届けていたのだ。
タコ足は父松造の好物だった。
サヨは急に身体が熱くなったような気がした。胸の赤いぽつぽつの痣がうず
いている。暗い川面に向かってサヨは話しかけた。
「ごめんなさい、私が思い違いをしてたのね」
凍るような二月の夜だというのに、サヨは暖かさの中にいた。煙草の匂いが
した。目を凝らすと、川面に広がる丸い波紋が母ツネの吐くタバコの煙の輪に
重なった。
「母さん・・・」
サヨは初めて母の死を受け入れる気持ちになっていた。ツネの葬儀以来サヨ
の胸の奥に巣くっていたものが、ゆっくりと溶けて消えてゆく。
サヨは欄干にもたれて川面を見つめ続けた。サヨに応えるように、境川の川
面がぴしゃと跳ねたようだった。
(終わり)