AWC 海人(1)   叙朱(ジョッシュ)


        
#3885/5495 長編
★タイトル (PRN     )  97/ 5/24  22:58  (177)
海人(1)   叙朱(ジョッシュ)
★内容

 朝から氷雨になっていた。
 松造は雨戸を少しだけ開けて庭先を覗いた。開いた雨戸の隙間から、二月の
凍るような風が吹き込んでくる。
「さてと、どうしたものかな」
 松造は憂鬱そうな顔でひとりごちた。しけで漁を休んでもう三日になる。僅
かな畑はあったが、そろそろ本業の漁に出て日銭を稼がないといけなかった。
娘のサヨとの二人暮らしはもの要らずではあったが、畑に作物の実らない二月
だ。
 松造は支度を始めた。
「サヨ、今日は出るぞ」
 サヨの寝ている御前部屋に向かって声をかける。この寒さと天候ならできれ
ば休ませてやりたい、と松造は思う。しかし松造の思いとは裏腹に、小さな
「はい、」という返事が、御前部屋からすぐに返ってきた。

 サヨはそそくさと綿入れを着た。ゴム長靴を履いて玄関の戸を開け、松造よ
り先に家の外へ出る。朝はもう七時を回っていたが、まだ外は薄暗くそして寒
かった。
 サヨは氷雨が落ちてくる空を見上げながら手ぬぐいで頭を覆い、そしてその
上に小豆色をした毛糸の丸帽子をかぶった。
 隣家はまだ寝静まっている。海苔網が干してあるその家の前を横切り、境川
沿いに浜まで歩いた。浜をのぞむ小高い丘には、六軒分の石墓が暗く沈んで並
んでいる。石墓に軽く会釈をしながら通り過ぎ、河口の松林の祠に手を合わせ
た。祠には恵比寿様が石でできた鯛を抱えて笑っていた。
 松林の裏の入江に松造の舟は繋いであった。有明の海からの寒風がサヨの顔
に痛い。潮は満ちており、小舟は波にゆらゆら動いていた。曇り落ちた海面の
向こうに、いつもははっきり見える多良岳が今朝は雪雲に遮られ、見通せない。
サヨは堤防に立ちモヤイ綱を引っ張って舟を引き寄せた。舟底にはこの数日の
荒天での屑が溜まっている。舟に乗り込むと、サヨはすぐに屑を掻き出し始め
た。
 松造はタコ縄を担いで遅れてやってきた。サヨが寄せた小舟にタコ縄を投げ
入れる。浜風は冷たく案外に強かったが、タコ漁にはまずまずだった。松造は
サヨに頭で合図して舟に乗り込んだ。
 松造が乗り込むとすぐにサヨは舟を堤防から離した。松造がタコ縄を巻き直
している間だけサヨが櫓を漕いだ。小舟は境川の河口から有明の海へと進む。
 やがてサヨに代わり、松造が舟を力強く漕ぎ出した。

 冬のタコ漁は去年の三月までは、サヨの母親ツネが松造に同行していた。
 ツネは陽気で働き者だった。ほとんど毎日松造を引っ張るようにして漁に出
かけ、戻ってからも畑仕事をしたり近所の灌漑の手伝いに出かけた。ツネは唯
一の楽しみに煙草を吸った。器用にタバコの煙で色々な形を作った。中でも、
丸い輪がいくつもつながってツネの口から吐き出されると、小さい頃のサヨは
わくわくしたものだった。
 ところが去年の三月も晦日近くに、松造とツネの乗った船が転覆した。内海
の有明海には珍しい突風だったらしい。幸いだったのは、近くにタコ漁の僚舟
がいたことだった。最初に松造が助けられ、すぐにツネが引き上げられたとい
う。
 しかし家にかつぎ込まれたとき、ツネはもう呼吸をしていなかった。バイク
で駆けつけた医者は、そんなツネの脈を取るとすぐに黙って首を振った。松造
は何とか持ち直したが、ツネはあっけなく死んでしまった。あまりに突然すぎ
てサヨは母を失ったという実感が湧かず、葬儀の間中呆然としていた。
 ツネの葬儀は慎ましく執り行われた。隣組の仕切だったが、供物も少ない質
素なものだった。力落ちしたらしい無口の松造に代わって、参列客の応対は隣
家のヨネ子が甲斐甲斐しく当たってくれた。サヨにはそんなヨネ子のよく動く
口と時々松造にの肩に触れる白い指が脳裏に奇妙に残った。
 松造はツネの初七日が終わるとすぐに漁に出た。当然のように、十六歳のサ
ヨが同行するようになった。

 相変わらず氷雨は降り続いていた。
 松造の漕ぐ舟は、大きな牛の背にしがみついた蠅のような案配で有明の海を
少しずつ進んでいった。サヨは舟板に座り込んで、舟の行く手と櫓を漕ぐ松造
を交互に見やる。雲行きは決して良くなかった。風は少しずつ強くなってきて
いる。しかし島原半島と多良岳に挟まれた内海の漁場はよほどのことがない限
り大時化はない。
 タコの漁場には赤い浮き球がたくさん海面に浮かんでいた。蛸壺を沈めてあ
るところを示すものだ。松造の蛸壺の浮き球には、赤に「松」が黒く書いてあ
る。蛸壺は四日前に沈めたままだった。
 漁場に着くと櫓を持つのはサヨの役割になる。松造は目印の浮き球の近くに
舟を進めるとそこでサヨに頭を大きく振って合図した。サヨははっきりうなず
くとよろりと立ち上がり、松造に代わって櫓を手にした。
 松造は蛸壺を引き上げにかかる。蛸壺はタコ縄の先に一定の間隔で連続して
取り付いており、縄を引き上げながら舟を少しずつ次の蛸壺の方へ進める必要
があった。サヨは松造の頭の合図を見ながら、右、左、あるいは前へと舟を進
めていく。蛸壺のタコは松造の手で舟にあけられ舟底にへばりついた。
 父娘がタコ漁に気を取られている内に、海風はますます強くなってきていた。
 気がついたときには、うねり始めた波にもまれて舟は大きく揺れている。松
造は蛸壺の引き上げを続ける。しかし、サヨの操る櫓ではもう抗えないところ
まで海が荒れだしていた。
 タコはまだたったの十匹しか舟底にへばりついていない。蛸壺もまだ中途ま
で引き上げただけだ。松造は躊躇した。荒れる海は恐い。
 松造は見切りをつけた。引き上げていた蛸壺を今度は海へ戻し始める。サヨ
に舟を動かすように頭で合図した。
 ところがもうサヨは舟を操れなくなっていた。舟の揺れは大きく、掴まって
いないと振り落とされそうだった。
 松造は決断を迫られた。これほど急に内海が荒れることを予測していなかっ
た。松造は、中途まで引き上げたタコ縄をどうするかについて決めかねた。こ
のままでは舟は動かせない。蛸壺を全部引き上げてしまうか、タコ縄を海に投
げ戻すか、あるいは、タコ縄を切ってしまうかだった。
 見るとサヨは櫓にしがみついている。風と波に翻弄されて頼りないサヨの華
奢な身体は、いまにも舟の外へ放り出されそうだった。
「サヨ、櫓を引き上げろ」
 松造は怒鳴った。
 サヨはうなずくと、櫓を引き上げようともがいた。ところが、櫓はサヨの意
に反して海に刺さったまま重くて動かない。まるで海の中で何かがしっかり櫓
の先を握っているような手応えだった。
 サヨは腰を屈め、渾身の力をこめて両手で櫓を引っ張ろうとした。その時、
櫓は猛烈な力で海の方へと引きずられた。
 あっという間もなく、小柄なサヨは櫓に引きずられるように波立つ二月の海
へと転落した。

 松造はタコ縄を手にしたまま一部始終を目撃した。わけの分からない叫び声
ををあげながら届かないとは知りつつ、タコ縄を放り出して手をのばした。
 伸ばした手のはるか向こうで、サヨはあっという間に海に飲み込まれた。
 松造は焦った。舟は大きく揺れていた。バランスを失いながらも舟の艫に飛
びついた。サヨが落ちたあたりの海面には白波が立っている。
 松造は気が狂ったようにサヨの姿を探して、舟の上をせわしなく動き回った。
しかしサヨの姿は何処にもなかった。
「サヨオー、サヨオー」
 海に落ちたサヨに大声で呼びかける。冷たい風が吹き波が荒れているだけで、
松造の絞り出すような呼びかけには返事らしきものは返ってこない。松造は、
狂ったようにサヨの名前を呼び続けた。

 サヨは海面に頭から落ちた。痛いばかりの海水の冷たさに身体が竦む。必死
でもがこうとした。しかし身体は強い力で抱きすくめられたように自由がきか
ない。ただ、ゆっくりと身体が沈んでゆく感覚はあった。意識が少しずつ遠の
いてゆく。
 サヨは掠れてゆく意識の中で、夏の終わりの精霊船送りを思い出していた。

 浜へ続く道の途中にある小さな石墓所には、盂蘭盆になると灯籠や金色銀色
の蓮の造花が飾られる。夜には灯籠に火が灯り、そこだけが闇の中でぽっかり
浮かび上がる不思議な世界となる。
 里帰りした親類がぽつりぽつりと献花に訪れる他は、人気はない。普段は近
くの子供たちの遊び場だ。サヨも叱られるのを承知で、その灯りの中でよく遊
んだものだ。
 そして八月も盆明け頃には精霊船送りがある。一艘の小舟を灯籠や金銀の蓮
の花できれいに飾って、初盆の魂を海へと送る昔からの慣習だった。
 サヨは毎年この精霊船送りを楽しみにしていた。暗い木陰から精霊を見送る
しめやかな儀式だったが、きれいに飾られた舟が暗闇の境川の水面を明るく照
らしながらゆっくり進んでゆくさまに、サヨは胸の高鳴りを覚えた。
 サヨが小さい頃は、こっそりと泳いで追いかけたりしていた。舟よりも速く
泳いでしまい、とうとう何人かの腕白と一緒に舟によじ登ろうとしたこともあ
る。すぐに見つかってしまい、ひどく叱られた。
「そんな悪さをすると、海人が足を引っ張りに来るぞ」
 神妙な顔をして大人たちは言った。人恋しい海人はその長い何本もの足で水
中をすいすい泳ぎ、子供の足を引っ張っては溺れさせるというのだ。もちろん
子供たちも、サヨも、大人たちの言う海人の話を信じたわけではない。しかし、
大人たちに身振り手振りで真剣にそう諭されるとその時だけは確かに恐くなり、
もうしないと守れない約束をしていた。もちろん、翌年の夏にはもうそんなこ
とはけろっと忘れて、またぞろ精霊船を追いかけることになるのだったが・・・。
 確かにあの精霊船だった。冷たい海の中、掠れゆく意識のどこかで、サヨは
目の前を精霊船が通り過ぎてゆくのを見ていた。

「サヨオー、サヨオー」
 寒風の中で松造の声は涸れ始めていた。サヨが落ちてからどのくらい経った
ろうか。サヨは一度も海面に浮かび上がってきていない。それとも潮で流され
たのか。
「ツネェー、サヨまで連れていかんでくれぇ」
 松造は泣き出しそうだった。
「ツネェー、殺生だからサヨは返してくれぇー」
 松造の充血した目はせわしく海面を見回していた。
 舟の舳先にこんこんとぶつかるものがあった。櫓だった。サヨを海に引き込
んだ櫓だった。松造は船縁から身体を伸ばし、櫓を掴んで引き上げた。しかし
サヨの姿はない。松造はがっくりとして、拾い上げた櫓を舟底に転がした。

 そんな松造の様子をいつからか、サヨが見ていた。
 サヨは自分がどこにいるのかは分からなかった。しかし波に翻弄される小舟
と松造の姿は、あぶり出しの絵のように意識の中に見ることができた。
 松造は舟の縁に掴まりながら大きく口を開けて海面をのぞき込んでいる。そ
んな松造に氷雨は降り続け、ときおり鋭くなった波がはじけていた。
「そんなに濡れると風邪をひくよ」
 思わず、サヨは松造に語りかけた。
 すると松造はまるでサヨの声が聞こえたかのように急に空を見上げ、そして
まわりをきょろきょろと落ち着かないように見回した。口が大きくぽかんと開
かれている。サヨの名前を呼んでいるようだ。しかし、その声は全く聞こえな
かった。
 突然、松造は舟底にあったものを掴むと海に向かって投げ始めた。タコだっ
た。先ほど捕まえたばかりの十匹のタコをひとつずつ掴みあげては、海に投げ
込み始めた。投げながら口をぱくぱくさせている。何か叫んでいるのだ。
 とうとう舟底にあったタコは全部海へ戻された。投げ終わって松造は手を合
わせている。うずくまり、合わせた手を空に突き上げている。その手が肩のあ
たりからブルブルと震えているのがサヨにも分かった。
 サヨは寒気をかすかに感じた。松造の姿が陽炎のようにぼやけてきて、やが
ては小さな光の点となってゆく。寒気は唐突で強烈だった。頭から首へ、胸、
腹、そして足へと痛いくらいの寒気が駆け下りた。そうしてまた、サヨの意識
は遠のいていった。

(以下つづく)




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