#3837/5495 長編
★タイトル (AZA ) 97/ 4/19 15: 1 (172)
そばにいるだけで 6−4 寺嶋公香
★内容
その日の放課後、純子は改めて相羽に謝った。
「もういいって、言ったのに」
廊下を行きながら、相羽は逆に弱り顔を見せる。
「そうは行かないったら。服の弁償があるわ」
胸の前で両こぶしを作り、強い調子で話しかける純子。
「これの弁償?」
相羽の手には、半透明のビニール袋。中身は、墨で汚れてしまった彼の服だ。
相羽自身は今、保健室にあった長袖の体操着を借りて、着ている。
「洗えば、落ちるよ」
「そんなことないって。墨汁は、しつこいんだから」
「落ちないときは、クリーニングに出す」
「じゃあ、クリーニング代を払う」
靴入れの前まで到着。ほんの少し、無言の間が入る。
「……そんなことしなくていい」
「するったら、する。絶対」
「僕は怒ってないって言ってるんだから、いいじゃないか」
「私の気がすまないの!」
「……頑固なんだから」
はあ、と、ため息をつく相羽。外靴を床に落とし、履き替える。
「どっちが頑固よ。悪いのは私なんだから、責めればいいでしょう。そうじゃ
ないと……居心地よくない」
顔を相羽に向けたまま、純子も靴を履き替えた。足元を見ていなかったせい
で、多少、手間取る。
「まーったく。これじゃあ、学芸会のときの風邪と同じだ」
呆れ顔の相羽は、大げさに肩をすくめてみせた。
「……そうよ。悪い?」
「お互い、進歩がない」
「今度のは譲れないの! いい? 下手したら、頭にぶつかって、大けが。こ
んな風に、笑って話せなくなってたかもしれないのよ。他の人も騒いでいた。
『相羽君を殺す気か』って」
「硯ぐらいで死ぬ? 冗談で言ってるんだろ。実際、何ともなかった。それで
いいじゃない。あとは、君が気を付けてくれたら」
「簡単に許されたら、すぐ、気が緩むかもしれない」
「……」
根負けしたらしく、歩き出す相羽。
「ちょ、ちょっと。帰っちゃうの?」
慌てて追いかけ、隣に並ぶ。
「母さんの手伝い、したいんだ」
「そ、そっか……。何かない? 弁償っていう形が嫌だったら、他に……。ほ
ら、スケートのあれもすっきりしてないから、合わせて、お詫びの意味で」
純子は相羽の腕を引っ張った。もう少し行くと、通学路が分かれるから、早
くしないといけない。
相羽は、純子の方をぼーっと眺めて、その内、何かを思い付いたらしく、不
意に頬を緩めた。
「−−涼原さんのチョコがほしい……かな」
はにかむように言って、わずかにうつむく相羽。
(? 何で下を向くのよ)
そんな風に感じながらも、純子は気が急いていたので、相手の申し出をあっ
さり承知。
「チョコね。それだけでいいの?」
「う、うん。−−くれるの?」
純子の手を振り払うかのように、相羽はまた歩き始めた。
「あなたから言い出したんでしょ。それだけで許してくれるんなら、あげる」
「そ、そう……じゃ、じゃあ、まあ、楽しみにしてるから」
「ほんとに、チョコをあげるだけでいいのね?」
「チョ、チョコじゃなくても、お菓子なら何でもいいけど」
「そういう意味じゃなくて! お菓子を渡せば、許してくれるのね、本当に?」
「こ、こうでもしないと、そ、そっちの気がすまないんだろ」
分岐点まで来ると、相羽はやけにせかせかした足取りで、遠ざかっていった。
(……変なの)
純子はしばらくその場に立ち止まったまま、首を傾げていた。
店先で立ち尽くす純子。当てが外れて、途方に暮れてしまっていた。
(簡単な手作りチョコレートのセットがなくなってる)
ただいま、土曜の昼過ぎ。学校から帰ると、ご飯を食べてすぐに買い物に出
た。日曜日を使って一気に仕上げる計画だったが、このままでは早くも支障を
来しかねない。
(困ったな。チョコあげるって約束しちゃったから、セットのチョコレートで
間に合わせようと考えていたのに……。バレンタインデーを過ぎたら、こうも
きれいさっぱり消えてしまうなんて)
特に商売上手な店でなくても、バレンタインデーを過ぎると、次は雛祭りや
ホワイトデーを目指してまっしぐら。とっくに模様替えされている。
かと言って、市販の出来合いの物を買うのは避けたかった。迷惑かけたこと
を許してもらおう(相羽は元から気にしていない様子だが)と、切羽詰まって
いたからこその行為だけれども、わざわざあんな状況で約束したからには、少
しはましな物−−せめて手作りの物をあげたい。
(相羽君、チョコじゃなくてもいいって言ってた。他に作れそうなお菓子と言
ったら……クッキー? だめだめ。おばさま手作りのあの味に慣れてるあいつ
に、私のなんかあげられない。無謀だわ。
他には……羊羹をお母さんと一緒に作ったことあるけど、あれは舌触りがお
かしかったっけ。白玉なんて、学校に持っていって、あげるような物じゃない
し。フレンチトーストは簡単すぎるかも……。あーあ、私が何で、こんなこと
で悩まなきゃなんないんだろ?)
買い物かごを肘にかけ、片手を頬にちょこんと当てる。傍目から見るとその
仕種は、随分かわいらしい。かごの中には、父親にあげるチョコレート−−も
ちろん?出来合い−−が入っているだけ。
「チョコ作りの材料、一つずつ、ばらばらに買うしかないか」
ため息混じりにつぶやいて、その類のコーナーへ向かった。
「……あら? 何で」
思いも寄らぬ顔を陳列棚の前に見つけて、言葉が勝手にこぼれる。
「涼原さん?」
相羽がびっくりした目を向けてきた。手は、チョコチップの袋を取る途中で
止まっている。
「こんなとこに何でいるのよ」
「ひどい言われよう」
苦笑いを浮かべ、チョコチップの袋を一つ、かざした相羽。
「頼まれて、これ、買いに来たんだ」
相羽の口調や態度は、いつものものに戻っていた。約束をしたときの、あの
どもりは何だったんだろうと思わせる。
「あなたのお母さんに頼まれたのね?」
「そうだよ。休みの日はたいてい菓子作りしてるんだ。今度はチョコチップク
ッキーらしいや」
「いいわね。いつもおいしいお菓子が食べられて」
口ではそう言いながら、心の中では、後悔の念が強まる。
(どうしてあのとき、お菓子をあげるなんて引き受けたんだろ! 手作りじゃ
かなわないって、分かってたのに)
「涼原さんこそ、何を買いに来たのさ」
「その、目当ての物がなくて……」
本人を前に言い淀む。
「だから、何?」
重ねて聞いてくる相羽に、純子は迷った。
(ただ単にあげるだけなんだから、変に隠すことないよね。隠してたら、かえ
っておかしい)
「言ってもいいけど、相羽君の楽しみ、減るわよ」
一転して秘密めかす。相羽は気になったのか、知りたくてたまらない様子。
「へ、僕の? どういう意味?」
「私、相羽君にお菓子あげるって約束したじゃない。その材料を買いに来たの」
「え? ということは、本当にくれるの? あれからだいぶ過ぎたから、あき
らめてたのに。しかも手作り」
相羽は急に弾んだ物腰になった。
「お詫びだもん、約束は守るわよ。それより、何でそんなに喜ぶのよ。お菓子
なら、手作りのおいしいのをいつも食べてるくせに」
「いつもじゃない。暇なときにしか作らないよ、母さん。しかも、作れるとき
には大量に作るもんだから、片付けるのって、結構大変だぜ。いくらうまくて
も、飽きてくるものなんだ」
「そんなこと言っちゃ、お母さんが怒るわよ」
「実は、言ったことある。全然、怒らなかったな。かえって、学校の友達にあ
げてちょうだいって、やりこめられた。ま、そういうわけで、違う物も食べた
くなるってこと」
「じゃあ、この間のバレンタインはさぞ、うれしかったでしょうねえ」
「そのとーり」
皮肉を効かせたつもりの純子だったが、果たして相手に通じたのかどうかは、
分からなかった。
(どういうつもりで、みんなからのチョコを食べてんのかしら、こいつは。好
きな子以外からのは、単なるおやつの足し? まさかとは思うけど)
純子はかごを床に置き、ついでとばかりに質問。
「……いったい、いくつもらったのよ、チョコ」
「チョコだけなら十個だった」
「すご……。でも、チョコだけってどういう……」
「手焼きのクッキーをくれた子が二人。家庭科で習ったっけ、クッキーなんて」
「ばか。その子達は自分で調べて焼いたのよ、きっと。お料理の本を片手に、
必死になってね」
「ふうん」
「あなたにプレゼントしたみんなの気持ち、分かってる? いつもと違うおや
つが食べられてよかったなんて思ってるんなら、ただじゃおかないから」
腰に両手を当てる純子。相羽は焦った風に言い添えた。
「そ、そんなこと、言ってないだろ。ちゃんとお返しする」
「嘘じゃないでしょうね? それならいいけど」
純子の言葉に、相羽は芝居がかって大きく息をついた。続く小さな小さな声。
「−−全く、これだから、好きな子以外からはもらいたくないんだ」
「何か言った?」
「別にっ」
「そう? 暇だったらさ、いっそのこと、何がいいのか言ってよ。できる範囲
で努力するから」
純子の問いかけに、相羽はしばし逡巡を見せたかと思うと、ぽつりと言った。
「千歳飴」
「ち、千歳飴? もう、どうしてそんな変な物を」
意外すぎる答に、純子は呆気に取られてしまった。
「七五三のときに食べ損ねた。一度ぐらい、食べてみたいなと思って」
「買えばいいじゃない。そんな物、上手にできるわけないでしょっ」
「うまくなくたって、いい。気がすむんだったら、何でももらいまっす。それ
じゃ、適度に頑張って作ってくださいな。期待せずにいる」
「もう行っちゃうの?」
きびすを返した相羽を見て、純子は慌て気味に声をかけた。
相羽はチョコチップの袋を振って、
「母さんが待ってるから」
と笑った。
(結局、何にすればいいのよっ。本気で、他の約束にしてもらうんだった!)
純子は、チョコレートが一つだけ入った買い物かごをじっと見下ろした。
−−つづく