#3744/5495 長編
★タイトル (YOK ) 97/ 1/26 22:30 (187)
ナコンラチャシマの星はラビナルの太陽(13/完) 横山信孔
★内容
マヤの祖先から続いている教えでは、たとえ身内であろうとも、彼らは死んだ
者を極度に恐れる。死者が現世に未練を残し、霊となって家族の者を道連れにす
ると信じているからだ。そのために、教会で儀式を終えた一行は、墓地に棺桶を
運ぶまで、街を一通り巡回する。自宅への帰り道を死者に分からなくするために、
ぐるぐると回り道をするのだ。
岡田にはなんとなく分かった。その葬列があの老人のものであることを。確信
はなかった。ただ彼は自然にそう思うだけだった。しかしながらそうは思っても、
それほど驚くことはなかった。岡田はその葬列に向けた目を動かさず、重心の定
まらない体でそこに立ち尽くした。
後ろの方からついてくるインディヘナの女性に、一緒に歩いてもいいかと尋ね
た。彼女はもちろん、と答えた。
「この老人を知っていたの?」と彼女は歩きながら岡田に尋ねた。
「はい、何度か挨拶したことがあります」岡田は言った。
「彼には誰も身内もいないし、誰も名前も知らないの。可哀想な人ね」
岡田は黙って頷いた。
「彼は頭が馬鹿になっていたの。だから同じ部族仲間であっても、なかなか行
列に参加してくれる人はいないわ」彼女は低い調子で言った。「可哀想な人ね」
それ以上彼女は何も言わなかった。黙々と歩き続けている。
岡田も黙って一緒に歩いた。足どりは非常にゆっくりで、何度も前を歩く男に
ぶつかりそうになる。
岡田は老人の言葉を思い起こした。
「夜になったら星を見るがいい。そのあなたの友人は星になったのじゃ。あな
たなら、きっと彼がどの星になったか分かるじゃろう。そして見つめるのじゃ。
コラソンの中で話すのじゃ。そしたら寂しくなんかない」
「寂しいです..」岡田は声に出して呟いた。「寂しいですよ、おじいさん..」
岡田は空を見上げた。この空の向こうに赤井がいるのだろうか。夜になれば赤
井に会えるのだろうか。心の中で話ができるのだろうか。
そんなはずはない..。岡田は思った。どの星が彼自身なのか、分かるわけがな
い..。そう思った。
日は沈みかけてきていた。日中の陽気が心地よい風に変わりかけている。メル
カードに足を運ぶ通行人の流れもゆっくりと変わり始めていた。それでも変わる
ことなく、老人の葬列は街の中心部を一定のリズムに従い、ゆっくりと進み続け
ていく。
岡田も同じテンポで歩き続けた。
おじいさん、僕の友人は地球の反対側で死んだのです。タイのナコンラチャシ
マと言うところです。そこで星になったのです。そこで見える星空と、グアテマ
ラの星空とは違うのです。彼の地で星が降る夜、ラビナルは昼なのです。だから、
彼の星を見ることができないんです。とても残念です、おじいさん。残念でなり
ません。
おじいさん、僕の友人は素晴らしい男でした。青年海外協力隊に参加した理由
も、本当に途上国の人々のために生きた援助をしたいと思ってのことでした。彼
と援助に関することで、熱い議論を交わしたことはありませんが、彼の情熱は、
ひとつひとつの言動ですでに知っていました。
おじいさん、残念ながら僕には嫌いなグアテマラ人がたくさんいます。その人
達の悪口を無碍に言うつもりはありません。しかし、心許せる仲間と話している
と、知らず知らずに悪態をついてしまうことがあります。自分でもいけないなぁ
とは思っているのですが、ついつい口が悪くなってしまうのです。しかし、その
友人は違っていました。遅れた国の人々だからといって、彼らを蔑んで見ること
なく、逆に尊敬していたというのです。彼らを見て、逆に自分を顧みていたとい
うのです。なんという寛容さでしょうか。なんという誠実さでしょうか。僕は自
分がほとほと恥ずかしくなりました。そしていつものように、彼に嫉妬心を抱い
てしまったのです。
おじいさん、きっと彼の葬儀には、任地の多くの知人が参列したことでしょう。
そしてきっと彼を、皆自分の息子のように、兄のように、親友のように思って噎
び泣いたでしょう。それは同情や世間体のためではなく、真実に限りなく近い涙
に違いありません。それほど彼は多くの人達に愛され、讃えられていたのです。
おじいさん、僕の友人には素晴らしい仲間がいました。彼の死によって、僕らは
嘆きました。自我を忘れました。周りの一切のものを排除して、彼と一体になろ
うとしたのです。悲しみに暮れて、彼を思う気持ちで心を支配していようと思っ
たのです。
おじいさん、僕の友人には美しい恋人がいました。彼女も同じ協力隊員で、ヨ
ーロッパにいましたが、任期を短縮して彼の地に行きました。僕たちの仲間のほ
とんどは、それぞれにそれぞれの夢を持っています。彼女もきっと多くの夢を日
本から運んだことでしょう。にもかかわらず、任期を短縮して、もう二度と帰ら
ぬ彼に会いに行ったのです。素晴らしい勇気だと思いませんか。そして彼を慕う
多くの現地人に会い、彼の本当に誠実な心に触れたようです。素晴らしい愛だと
思いませんか。
ああ、おじいさん、彼はなぜに死ななければならなかったのでしょうか。彼が
もしも生きていたら、どんな人生を歩んでいたのでしょうか。どんな愛を育んで
いたのでしょうか。彼がもしも自己の死を予感していたとしても、それでも夢を
追いかけたのでしょうか。僕にはできないような気がします。僕はその夢を諦め、
他の可能性に目を向けたでしょう。僕は意気地なしなのでしょうか。腰抜けなの
でしょうか。
おじいさん、はじめのうち、僕は彼以外のことを考えないように、心の中で自
分を戒めていました。自分の心を殻の中に閉じこめ、外部のすべてのものを拒絶
したかったのです。首都にいるときは、街を行き交う車の種類を考えてはいけな
い。通行人のお喋りを聞いてはいけない。空の眩しさを感じてはいけない。自分
を異端者と見ている者を気にしてはいけない。自分がどこへ行き、なにをしたい
のかを考えてはいけない。そう思っていたのです。自分の五感を常にシャットア
ウトしていたかったのです。
しかし、彼のことを考えなければ、考えなければ、と思いながらも、街のあら
ゆる情景、もう2度と現れないシーンに目を凝らしてしまいました。そして無意
識のうちに、いろいろなことを考えてしまう自分に気がついたのです。彼のこと
以外は考えまいと誓っても、心は時間とともに、少しずつ別の何か違うものに埋
められていきました。たとえすべてを心が拒絶していたとしても。たとえそれが
街の風景やすれ違う人々といった何でもないことであったとしても。たとえそれ
が一分一秒という非常に細かい時間の流れであったとしても。少しずつ、少しず
つ、心の中へと浸透していったのです。僕にはそれがあまりにも悲しい。友人を
忘れてしまいそうな気がするからです。たとえ将来、自分の心の中に占める彼の
存在が小さくなろうとも、いまはそれを許したくないのです。いまだけはダメな
のです。
おじいさん、僕は首都を離れるとき、友人から随分と遠くに離れて行ってしま
うような気持ちを感じました。ラビナルに帰れば、いままでの日常が待ってると
思ったからです。街中を包む砂煙、メルカードの喧噪、インディヘナの気のよい
挨拶、野良犬の鳴き声..そういったものたちがです。どんなに傷ついた心でラビ
ナルに帰っても、それを覆い包んでくれる程の大きな存在はありません。遠くに
そびえる火山を眺め、砂埃で包まれても、永遠に流れる時間以上に僕の心を癒し
てくれるものなどないのです。そして時間という薬が心を洗ってくれたとしても、
その傷は永遠にはがれないことも知っています。ただ現実的な日常というものに、
自分の傷を忘れてしまうことはあまりにも寂しい。毎日じゃなくても、彼のこと
を想い出したい。そして悲しみたい。そんなことを思うのです。
おじいさん、僕は恐い。恐いのです。僕の友人の死をまったく考えず、バスの
窓から見える情景に心を奪われたり、バスの中に流れる歌声に指先でリズムをと
ったり、目の前にある熟した果物や、酒を帯びたおかしな会話などに興奮したり、
そんな気分にいつかなってしまうだろうということがです。平穏な日常が、彼の
死を常に感じていたい心に侵入して、支配するだろうということがです。そして
彼の死や、仲間たちとの会話や涙を、ああ..懐かしいと、ああ..あんな時代もあ
ったなどと、いつの日か想い返すときが来るのだろうということがです。
岡田は深い深い青に染まった空を見上げ、太陽に手をかざした。5本の指から
漏れる、それぞれの熱い光線に目をすぼめた。
岡田は足を止めた。葬列は彼を置いて、ゆっくりとゆっくりと進んでいく。岡
田は彼らをぼんやりと見送った。岡田の脇を少年たちが何度も振り返り、通り過
ぎていく。
彼は葬列に取り残され、立ち尽くした。
頭上にはラビナルの太陽が、岡田の生まれた日からなにひとつ変わらない表情
で輝いている。
岡田はもう一度目をすぼめて、太陽に顔を向けた。暖かい陽光が彼の顔の表面
を包んでいく。そして両手で顔を覆い、ジリジリと熱いものが体中にみなぎって
くる。
今頃、ナコンラチャシマに燦々と星が輝いているに違いない..。
岡田はぼんやりとそう思った。そして頭をぼりぼりと掻いた。
突然、彼の心は何かが弾けたように開放された。目が輝き、両手を拡げて、全
身で太陽の光をいっぱい浴びたくなった。
一瞬ラビナルの風が土埃を誘い、岡田の体を吹き抜けていった。しかし彼は顔
を背けなかった。太陽に向かってしばらくのあいだ立ち尽くしていたかったのだ。
そして少しずつ心が晴れ晴れとしていく。清々しい陽気が岡田の身を包んでい
く。彼が太陽に向かって、コラソンで語りかけたからだ。
岡田は2本の足でしっかりと地面を踏みしめ、葬列を見送った。そして老人に
語りかけた。
おじいさん、ありがとう。僕は分かりました。これからずっと、僕の友人に語
りかけていきます。
寂しくなんかありません..。
岡田は遠ざかっていく葬列を背にして向き直った。駆け出していきたい気分を
精一杯抑えて、土の感触に思いを込めて足を前へ進めた。田中の教室への一歩一
歩が、軽やかに岡田を導いていった。
洋裁教室へ着くと、田中に窓から無言の挨拶をし、教室へ入った。
田中は彼に目で挨拶をした後、気を使わずに授業を続けた。ひとりのインディ
ヘナがミシン針の操作に四苦八苦している。ブラウスの首の付け根を縫うときに、
布自体をまわして一気に縫い上げてしまおうとしていた。田中はその彼女に、角
度を少しずつ変え、一回一回ミシン針を上げて布の方向転換をしなければならな
いことを丹念に教えていた。その生徒は分かったか分からなかったかは、客観的
には判断し難かった。彼女は頭を掻き、難しい顔をしてもう一度布をミシンにあ
てがった。
田中の教室の隅の暗い部分に岡田は座り込み、そんな風景を眺めた。
午後の光が教室の小さい窓から差し込んでいるだけだ。部屋の中はいつも通り
薄暗い。
岡田は顔を正面に向けて、それぞれのミシンに向かう生徒の動きを見ていた。
教室中でトコトコというミシンの音が響いている。
田中のひとりひとりの生徒の動きに目を追っていると、突然視界がぼやけた。
岡田ははじめ、自分が泣いていることにまったく気付かなかった。しかし、泣い
ている自分に気付くと「ブッ!」と声に出して吹き出し、膝を引き寄せ突っ伏し
て号泣し始めた。声は極力殺そうとしたが、少し出たかも知れない。それでもミ
シンの鳴り響く教室なら少しはいいだろうと思った。
しばらくして、ひとりの生徒が田中を呼んだ。そして岡田が泣いていることを
知らせた。
田中の足音らしき音が近付いてくる。岡田は構わずおいおい泣いた。
田中がどうしたんですか、と言って彼に近寄った。田中は当惑してしまった様
子だ。
岡田はそのまま何も答えず、何度も鼻をすすりながら豪快に泣いた。内股に膝
を強く引き寄せ、膝小僧を鷲掴みにする拳に力が入る。肩は不規則に、そして小
刻みに震え続けた。
やがてすべてのミシンの音が消えた。
8人の生徒の足音が、岡田の座っている方向へと近付いてくる。
岡田はそれでも顔を上げず、泣き続けた。
岡田は思った。赤井が死んでから彼のために何ひとつやってなかったと。菅谷
や倉山、香山に電話したことは、ただの自己満足でしかなかった。結局山木を通
して花を持って行ってもらおうという案も自分のものではなかった。そして赤井
の両親を思い、それを撤回したのも自分ではなかった。そう、何ひとつやってい
なかった。それでも岡田はこうして、誰に恥じることなく泣き続けることにより、
少しでも赤井が救われるような気がした。それもひとつの自己満足に過ぎないと
分かってはいても、泣くことで、いまは亡き赤井に気持ちが通じるような気がし
たのだ。
岡田は止めどなく流れ続ける涙を何度も左手で拭った。右手は髪の毛を鷲掴み
して、引っ張り続けていた。ときおり膝小僧を引きつけ、また髪の毛を鷲掴みに
した。幾度か溢れる吐息がときおりひきつった声に変わった。
田中は岡田がなりふり構わず泣き続ける様を見て、彼女もなぜだか涙が出てき
た。そして彼の足もとに膝をつき、彼の肩に手をかけた。その周りに生徒が集ま
り、不思議な面立ちでふたりを見つめている。彼女らは何を言うわけでもなく、
ただじっとふたりを見つめているだけだった。
窓から入る西日が強くなってきている。ラビナルを照らす太陽は、西に傾き始
めていた。