#3743/5495 長編
★タイトル (YOK ) 97/ 1/26 22:26 (193)
ナコンラチャシマの星はラビナルの太陽(12) 横山信孔
★内容
「....やっぱり、まだまだ全然信じられないんです。何も考えず、ぼおっとして
いるときがよくあります。本当に何も考えてないんです。でも視界に入ってくる
物すべてが以前と違うように見えるんです。だからふとそれに気付くと、どうし
ようもない悲しみが突然襲ってくるんです。街でちょっとしたカップルを見かけ
たときとか、幸せそうな家庭の噂や子供の笑い声が..。そして何事もなかったよ
うに振る舞う周りの隊員とか..」
「自分だけが悲しいんじゃないって分かる。確かに自分より不幸な人はいくらで
もいるんだろうなぁって冷静になれるときもあります」
そして少し間をおいて「ごめんなさい..」と言った。
再びふたりのあいだに悲しい閑寂が漂った。香山のごめんなさい、という言葉
は、菅谷や倉山、高柳のどんな言葉よりも岡田には悲しく聞こえた。
「いえ、とんでもないです..」岡田はなんと答えたらいいのか分からなかった。
そして岡田の心は大きく傷つきえぐられたような気がした。
「とにかく、香山さんが案外落ち着いているようで驚きました」岡田はボソボ
ソ話した。
「いまはね..」香山の口調は一瞬、岡田のよく知っている昔のそれに戻った気
がした。その言葉とブルガリアの電話に出た隊員の口調とで、きっと香山が任期
短縮するとき、ある種の騒動を起こしたことが容易に想像できた。
岡田は最後に「大丈夫ですか」と尋ねた。
「大丈夫..」と香山は答えた。その口調ははっきりとしていた。
香山は結局それ以上何も言わなかった。
岡田は受話器を静かに置いた。岡田は深い深いため息をつき、少しのあいだ電
話機の前にたたずんだ。そして居間へ行き、テーブルに戻った。
伊藤と高柳は食事を終えていた。岡田に気を使って、伊藤が話題を切り出した。
コバンの職場でのおもしろおかしな経験談だった。岡田は笑顔で答えることがで
きなかったが、ちゃんと相づちをした。高柳もやはり、岡田に気を使っている風
だったが、岡田は香山との会話をわざわざ彼女に話す必要はないと思った。
夕食を食べた後、高柳がコーヒーを持ってきた。3人でそれを無言で飲んだ。
コーヒーを啜る音だけが心に響いた。
「テレビでも見ようかな..」岡田が思いついたように言った。
「いま何か面白いプログラムやってる?」伊藤が言った。
「NBAやってないかな。アメリカのプロバスケット..」
「今日は何曜日? やってるかな..」伊藤が新聞を探した。
そしてテレビがあるソファの方へと3人で行った。
たくさんあるケーブルテレビのチャンネルをひとつひとつ見たが、やっていな
かった。伊藤が適当にチャンネルを替え、アメリカ合衆国の古いアクション映画
を3人で見た。伊藤はひとりひとりの俳優の名前を言って、彼らの略歴や代表作
品を説明した。映画はスペイン語で吹き替えてあったため、俳優の肉声を聞くこ
とができない。そのことに伊藤は少し失望しているようだった。
11時頃、映画が終わった。岡田は大きく伸びをし、欠伸をした。そして煙草
を取り出し火をつけた。高柳がすぐに灰皿を持ってくる。岡田は無言で頭を下げ、
それを受け取った。伊藤はなにも言わず、テレビのコマーシャルを見ていた。
「明日、ラビナルに帰ろうと思います」岡田は煙草の煙を吹かしながら言った。
「あ、そうですか..」伊藤はちょっとぶっきらぼうに答えた。
高柳は黙って頷いた。
その夜は大きな孤独を感じた。宿泊所にいる隊員がほとんどいなくなったこと
と、次の日にラビナルに帰らなければならないという事実が、その感情をどんど
ん膨らましていった。
†
翌朝岡田が目を覚ますと、高柳はすでに出勤していた。伊藤も朝一番の長距離
バスに乗るために、隊員宿泊所を後にしていた。
一階の窓から差し込む朝の太陽光線が、前日よりも幾分強くなっているようだ。
岡田は平日の朝の清々しさを少し肌で感じていた。
午前中に隊員宿泊所を出発しようとして身支度をし、その後で高柳の職場に電
話をした。取り次いでくれた職場の同僚が、高柳をすぐ呼びに行ってくれた。し
ばらくすると高柳が受話器をとった。
「あ、おはようございます。どうもいろいろとお世話になりました。いまから
ラビナルに帰ります」岡田は丁寧に言葉を選ぶようにして話した。
高柳は、気を付けて帰ってください、と言っただけだった。
岡田は何だかこれから新たな旅立ちをするような気分に包まれた。高柳とはも
う何年も会えないような気分さえした。
首都を離れ、ラビナルに向かうバスの中で不思議な感覚を味わった。窓に映し
出される情景も、すべていままでとは違って見えるのだ。何もかもがすべて新鮮
で、哀しい香りを放っていた。
隣に座っている中年の男が、流れる汗を拭きながら岡田の方にチラチラと目を
やっている。岡田のほうが彼の存在に気付いた振りをすると、「どこから来たん
だい?」と気さくな感じで話し掛けてきた。
岡田はちょっと答えるのに躊躇したが「日本からです」と答え、そして「ラビ
ナルで働いています」と言った。
彼がエルランチョで降りるまでの少しのあいだ、会話を交わした。ほとんどが
いつも初対面の人から聞かれる内容のことだった。日本は経済的に進んでいると
か、グアテマラの車はほとんど日本製だとか、カメラや時計は日本製が優れてい
るとか、そういった内容だ。ラビナルまでの長い道中を、少しでも楽しく過ごさ
せてあげようという彼なりの配慮なのだ。
岡田はすでにこういったグアテマラ人の話に食傷気味で、できれば静かにして
もらいたいなどといつも思ったが、なぜか今日は自分からも積極的に話した。岡
田自身からも、彼の家族のことなどを質問したりした。彼は気持ちよく答えてく
れ、岡田の肩をたびたび叩いた。岡田は彼との会話を作り笑いと一緒に過ごしな
がら、幾度か窓の外を眺めた。
ラビナルに着くと、案の定、インディヘナの笑顔と街中の砂埃が岡田を包んだ。
天気は相変わらず良好だ。太陽が遮るものなく輝いている。たった3日間の首都
滞在だったが、岡田の瞳には、自分の家が醸し出す雰囲気が3日前とは違うよう
に映しだされた。何だか随分帰ってきてなかったような気さえするのだった。
部屋に入ってみると、外気から解放されて、少しばかり汗をかいた肌に心地よ
い涼しさが通り抜けていった。部屋の扉も、本棚も、写真立ての中の家族の写真
も、テーブルに転がったマンガキャラクターの消しゴムも、皆懐かしい空気を岡
田の心に運んでくる。テーブルに人差し指を這わすと、指先の芯の方がひんやり
と冷たく感じられ、自然と彼の全神経がその指先に集中していった。そして体の
芯にぴんと張りつめた緊張感を味わい、それを気持ちよい感覚で受け止めた。混
沌とした心の内が、岡田の肌を取り巻く冷気によって、幾分静まり返っていくの
をじわりじわりと感じとっていった。
ベッドの上に、身につけていたものをすべて無造作に投げ捨て、裸足のままシ
ャワーを浴びに行った。汗が蒸発して冷えた彼の体の箇所に、外の気温とは正反
対の冷水があたると、彼は体をこわばらせ低い声で呻いた。そして独りで苦笑し
た。
シャワーを浴びた後、なぜか少し晴れやかな気分になった。なぜだろう、そん
な気分を不思議に思った。そして家にいてもなんだか落ち着かなくなり、田中の
教室へでものぞいてみようという気分になった。
以前首都で奮発して買った、まだ一度も袖を通していない純白のシャツを着た。
何だかこれから入社式に参加する新入社員のように、すっと背筋が伸びたような
錯覚を覚え、鏡の前に立って二、三度ポーズをとってみた。そんな自分を振り返
って少し照れて笑う。
そして頭をボリボリ掻いた。
田中の教室へ行く途中を、いつものようにブラブラ歩いた。ラビナルの街に溢
れる2度と起こらないシーンに目を向けた。
メルカードを横切り、パルケ・セントラル(中央公園)の方へ歩いた。公園の
隅に腰を下ろし、近くで遊ぶ子供たちを眺める。首都と違って空が広い。行き交
う人々の表情が穏やかだ。排気ガスの代わりに土埃が岡田を包んでいく。
ラビナルを吹き抜けていく風はそれ程ない。普段の平日の午後だった。
メルカードでインゲン豆を売っているインディヘナのおばさんが、岡田と目が
合って手を挙げた。彼女は岡田に会うたびに、にこやかな笑顔で応対する。名前
さえ知らなくとも、岡田にはちょっとした挨拶を交わす人たちがこの街にたくさ
んいた。そういう人たちの笑顔は、いつも彼の心を和やかにしてくれるのだ。岡
田はそのことを、ここしばらくのあいだ忘れていた。
痩せた犬が木の枝をくわえて、目の前を走っていった。それをふたりの子供が
追いかけている。しばらくすると、ひとりの子供が引き返してきて、岡田の目の
前に来て足を止めた。そして恥ずかしそうに岡田の顔をのぞき込んだ。岡田がに
こりと笑うと、彼らは歓声を上げて友達のいる方へ逃げた。5メートルくらい離
れた場所から、ふたりの子供は岡田をじっと見ている。岡田がそちらの方へ目を
やると、照れくさそうにニヤニヤ笑った。岡田は話しかけようとしたが、彼らは
手をつないで走り去っていった。
彼らが追いかけていた犬ももうどこにもいなかった。
煙草を吸おうと思い、一本口にくわえ、ポケットからライターを取り出した。
そして火をつけようと風下に体を傾けると、誰かの体に触れた。顔をあげると、
いつも声をかけてくれるあの老人が横に座っている。岡田は目を大袈裟に丸くし
て彼を見た。老人は少しよだれを垂らし、屈託のない笑みを岡田に投げかけてい
た。岡田は煙草を吸うのをやめて、彼の方を向いた。
「こ、こんにちわ」岡田はちょっと戸惑いながら言った。
「こんにちわ」彼はゆっくりとつばを飲み込んで言った。
「お元気ですか」と岡田は尋ねてみた。
彼は「元気ですよ。いつものようにね」と答えた。そして皺で刻まれた、満面
の笑みを見せてくれた。
「あなたはどうですか」老人は言った。
岡田はすぐには答えなかった。そして目を空に向けた。ラビナルから見える入
道雲は、二度と形成されないだろうその立体感ある姿を、惜しげもなくさらして
いる。彼は目を細め、日中の光で心の内を洗い流したい気分になった。岡田はど
う答えるべきか迷っていたのだ。
「私はいま、悲しいです」
岡田はそう言ったあと、彼ではない誰か他人の口が言ったような気分を味わっ
た。しかし一度口から発した言葉を取り消すわけにはいかない。彼は言葉を続け
た。
「大切な友人が死んでしまったのです」
老人は岡田を見るのをやめ、前方のメルカードの方に目を据えた。
「それは残念なことじゃ」
「はい、本当に..」岡田は目を細めてそう言った。
「あなたの友人は、幸せだったじゃろうか」
「それは分かりません」
赤井は幸せだっただろうか。岡田は思った。
「あなたはその友人に会いたいかい..」
老人は岡田の瞳を覗き込んだ。
「会いたいです」岡田は言った。「本当に会いたいです..」
「その友人には、あなたという会いたがっている人がいた」老人は微笑んだ。
「幸せだったのじゃよ」
「僕だけではありません。たくさんの人が、本当にたくさんの人が彼に会いた
かったのです。彼は本当にいい人でした..」
「そんな風に言うあなたの友人は、きっと幸せだったに違いない」
岡田は少し体を震わせた。冷えていた肌が、照りつける太陽の光でじわじわと
熱を持っていく課程を心地よく感じた。そして彼が必死に表には出すまいと決心
していた悲しい熱情も、じわじわと体の表面に顔を出し始めていた。
「でも、もう会えません..。僕たちはもう会うことができないんです」
「会うことはできない。語り合うこともな。でも見つめることはできる。この
コラソン(心)の中で、話しかけることはできる」
老人は眩しいばかりに微笑んで話す。
「夜になったら星を見るがいい。そのあなたの友人は星になったのじゃ。あな
たなら、きっと彼がどの星になったか分かるじゃろう。そして見つめるのじゃ。
コラソンの中で話すのじゃ。そしたら寂しくなんかない。わしらのマヤの祖先の
人たちは、宇宙の神秘を理解していた。彼らは全宇宙を奉り、天空より降りてき
た神々を信じ、その魂を捧げ続けてきた。天に還った魂は、宇宙をさまよい、
『神を得る地−スイヴァ』へ行って、神を迎えるのじゃ。その旅立ちは、彼ら祖
先が創造される以前から約束されたものなのじゃ」
「あなたの友人も、宇宙へ旅立ったのじゃ。これからは夜空を見上げ、彼を見つ
めよ。コラソンで語りかけよ。そしてあなたがいつの日か、宇宙へ旅立つ日を待
ち続けるのじゃ」
目の前をたくさんのインディヘナが行列をなして通っている。岡田はそれを夢
を見ているかのように眺めた。
老人はもういない。突然岡田の視界から姿を消したのだ。老人の言葉は難しか
った。岡田には、分かったような分からなかったような不思議な気分だった。
岡田は腰を上げ、お尻をはたいた。そしてゆっくりとゆっくりと進んでいくその
行列に目を向けた。
それは葬列だった。数人の男たちが棺桶をかつぎ、その周りを数人の女たちが
一束の花を持っていた。ふたりの男が『コロナ』と呼ばれる、色とりどりの花で
作った大きな飾りを運んでいる。行列に参加しているインディヘナは10人にも
満たない。皆無表情だ。足どりは非常に鈍く、皆退屈そうに歩いている。岡田が
いままで見たどの葬列よりも規模は小さく、質素な印象を受けた。葬列の最後尾
には、先ほど犬を追いかけていた少年たちが歩いている。彼らは岡田を見ると、
また恥ずかしそうに首を傾げ、笑った。