#3729/5495 長編
★タイトル (YOK ) 97/ 1/26 19:57 (199)
一本のピンチョをめぐる想い(6) 横山信孔
★内容
彼女はふと左手にある出店で、ホットドッグを買っている男を見た。出店の柔い光が
その男をぼんやりと照らしている。ちょうど焚き火をしている前で手をかざしている老
人のようだった。その男が金を払い、つと顔を上げると、道端に座り込んでいる彼女と
目が合った。マイラはすぐに目をそらした。そしてバッグを抱える腕に力を入れた。
その男は彼女の横に腰掛けた。そしてなにも言わずに、包装紙に包んだホットドッグ
をがつがつ食べはじめた。マイラはその男のそんな様を、横目でちらりと見た。男の髪
の毛は肩につくほど伸びていて、無精髭が顎を覆い、そこにホットドッグのマスタード
が垂れていた。45歳くらいだろうか、マイラはそんな風に思った。
こんな浮浪者のような男は、毎日なにが楽しくて生きているのだろうか。
彼の顔をじっと見ていると、妙に母親のような気持ちになってきて、目が離せなくな
った。
「仕事の帰りかい?」マイラの方から話しかけた。
「ああ..?」その男はびっくりしたような顔をして彼女を見た。顎髭についたマスタ
ードがぽたりと地面に落ちた。
「いや、おらぁ腰が悪くなってさ、もう仕事ができねぇんだ。今日息子の家に行った
ら小遣いくれたんでな、それで..これさ」と言って食べかけのホットドッグを彼女に見
せた。そして髭の奥のかさかさした唇から、抜けた歯を覗かせて笑った。 そんな笑い
が、守衛のフェルナンドに似ているような気がして好感が持てた。
「あんたは..? バスを待ってんのかい?」その男はまたホットドッグをかぶりつき
ながら言った。
「うん..。まあ、そうだね」
娘のバッグを抱える腕の力がすうっと抜けた。夕方の街角で、見知らぬ中年の男と話
している自分が無性にひとりぼっちに思えた。もう娘からも見放され、明日からの仕事
にも希望が持てないような、そんな気分を味わった。そしてその男になにもかも話した
ら、ひょっとしたらそんな孤独感からも解放されるのかと思いはじめると、いてもたっ
てもいられなくなってくる。自分の寂しさ侘びしさを、誰かと共有することで、ほんの
僅かでも幸せな気分になれると思った。
「わたしゃあ、自分の娘に裏切られたようなもんさ..」マイラはそうやって今日の出
来事をゆっくりと語りはじめた。男は何も言わなかった。ただ食べかけのホットドッグ
をじっと見ながら、首を揺らして頷いているだけだった。マイラは、今日起こったなに
もかもを話してしまうと、自分の心の内側にある空虚な部分が、ほんの少し埋まったよ
うな錯覚を味わった。
「そうかい。そりゃあ大変だ。あんたも苦労してるね」その男はホットドッグを包ん
でいた紙で、汚れた手や髭についていたマスタードを拭き取りながら言った。
「どうして娘さんは、そんな男の言うなりになっちまったのかね。この世の中、いつ
でもそういう輩が多くて、気をつけてないとすぐに騙されちまう。ひどい話さ」
「まったくだよ。それにしても私も落ちぶれたもんだ..」マイラはフーとため息をつ
いた。「私はこんなんだけどさ、私の親たちときたら、そりゃあ働きもんだったよ。小
さかったけど土地も持っててさ」
「へぇ、土地持ってたなんてすごいじゃないかい」
「まぁね。トウモロコシといんげん豆を作ってたくらいだけどさ。細々だったけど、
食うには困らなかったよ。それに週末には車で遊びにも連れていってくれたしねぇ。ま
ぁそこら辺の畑をぐるぐるまわるくらいだったけど、それでも子供の頃はそれが楽しく
て」
「車も持ってたんかい..。俺がちいせぇ頃は車なんて夢みたいなもんだったよな。去
年息子も安いボロボロのトラックを買ったけど、すぐ壊れちまってよ..」
「うちの車だって大したものじゃなかったよ。それでもあるとないとじゃ、えらい違
いだからね。ところが、今じゃあその日暮しの毎日さ。土地も車もある家に生まれて、
少しは恵まれていたかなと、今になってやっと思えるようになったよ」彼女は目を伏せ
て言った。
「そりゃそうだ。あんたの親御さんもよう働いたんだろうね。 大したもんじゃねぇ
か」
「ホントだよねぇ..」そう言ってマイラは遠くを見、子供の頃過ごした想い出に身を
悶えるような、そんな振りをした。
ここまでのマイラの話はすべて嘘だった。子供の頃、土地や車を持つなどという生活
は夢にだって見たことがなかった。両親は首都よりも北に行ったところの小作人で、彼
女も小さな頃から働かされていた。今と同じように、毎日毎日の生活の中で自分の体を
休める時間だけを探し、そこにすべての幸福感を求めていた時代だった。それでもマイ
ラは幸せだった。 自分の口から出てくる言葉がすべて嘘だと分かっていても、この男
がその話に納得することで、彼女の過去がそんな風に塗り替えられていくような気がし
た。それは惨めなことではなかった。自分自身を納得させ、偽りでもいいからほんの少
しの優越感が欲しかった。
「運が尽きたのは、前の夫と知り合ってからだろうね。そいつは、それはそれは口が
達者な男でね、私が喜びそうな言葉を全部知っていたよ。まぁ、ただ私が馬鹿だっただ
けなのかもしれないけどさ。でも、知り合ってから結婚するまでの4ヶ月間、幸せだっ
たよ。亭主はしがない車の修理屋でさ。いっつも真っ黒になって帰ってきたよ。稼ぎも
よくなくってね。それでもさ、食うものなくても幸せを感じられる時代だったよねぇ。
今じゃ毎日毎日の生活に追われてさ、あの頃が懐かしいよ」
「御両親は助けてくれなかったのかい?」その男は純粋に聞いた。
「え? ああ..」マイラは言葉に詰まった。「もうその頃には両方とも死んでたんだ
よ」
それも嘘だった。ふたりとも病気だったがまだ生きていた。2番目の兄が父親を、4
番目の兄が母親を引き取っていた。しかし北部の田舎に住んでいたために、マイラはほ
とんど連絡をとっていなかった。
「そうかい、それじゃあ苦労したろ」
その男の情けなく下がった眉毛が、マイラには嬉しく感じられた。
「娘のフリアは結婚してすぐにできたよ。でもね、産まれる前にそいつは出てっちま
った。他に女を作っちまったんだよ。まぁよくある話だよね。私はそいつと一緒になる
ために首都に出て来たんだから、当然田舎に帰ろうと思ったよ。それでもやっぱりこっ
ちの方が稼ぎがいいだろ? フリアにもちゃんとした学校に行ってもらいたかったしね
。田舎に帰ったら、また畑仕事に逆戻りだよ。フリアにはそんな苦労をかけたくない。
中学校くらいは出てもらいたい。そう思ったのさ。だからこっちでいろんな仕事を探し
たんだよ。私みたいな不細工な女は、レストランでは雇ってくれなかったけどね。警備
員やったり、マンションやビルの清掃員になったり..なんでもやったよねぇ」
「大したおっかさんじゃねぇか」その男は同情するような表情をして言った。
「フリアが中学出てやっと落ち着いたと思っていたら、すぐに変な男が寄って来たの
さ。まぁ、そいつがさっき言ったホセっていう奴なんだけど」
「ホセか..」その男はその名前をゆっくりと言った。「おらぁ、ホセって名前がだい
っ嫌いでさ。昔の友達にもホセって奴がいっぱいいたけど、悪い奴らばかりだったよ。
ホントに..」
「いつだったかな、暑い日だったよ。フリアが突然、派手な服来て家に帰ってきたん
だ。なかなか可愛い服だったねぇ。その頃フリアは小さなカフェテリアのウエイトレス
をやってたんだけど、はじめはそこの給料で買ったのかと思ってたよ。
『なかなかいい服買ってきたじゃないか。いくらしたんだい?』って聞いたよ。そし
たらなにも答えないじゃないか。高い金出して買ったもんだから、私に怒られる、だか
ら何にも言わないんだろう..そんな風にはじめは思っていたよ。
『言いたくなかったらいいけど、あんまり高いもんばっかり買うんじゃないよ。ちゃ
んと計算してお金は使わないと』
そうフリアに言ってやったよ。でもあの子も年頃だったからね。ちゃんとした服が欲
しかったんだろうと思ったよ。私なんてろくなもん着せてやらなかったから。ところが
だよ。あとからこっそり、私に言うんだ。
『これ、ホセからもらったやつだよ。グリンガ(白人女性)からぱくったリュックに
入ってたんだ』
..てね。わたしゃあ、そのときほど驚いたことはなかったよ。よく聞けば、前にもホ
セの片棒かついで、盗みの手伝いまでしたことがあるっていうじゃないか。私はね、も
ちろん盗んだことも許せなかったけど、それを親になんにも戸惑いもなくベラベラ話せ
るあの子が信じられなかったよ。その夜どんなけ泣いたことか..。あんたにそのときの
私の気持ちが分かるかい?」
「いやぁ..」男はマイラの話し口調に圧倒され、それ以上なにも言わなかった。
「何不自由なく育てたなんて言えないけど、これでも私はできる限りのことはしてき
たつもりだったよ。物事の判断くらいは、自分自身でつけられる大人になって欲しかっ
た。ずっとそうやって育ててきたつもりだったよ。父親がいなかったのが、いけなかっ
たのかねぇ」
マイラはため息をつき、完全に夜になった往来を眺めた。
「そんなに娘さんを責めることはないよ。責めるとしたらそのホセという男さ。そい
つが彼女をそそのかしたに違いない。もう一度話し合えば分かり合えるよ」
男は優しい仕草で自分の手をマイラの肩に置いた。マイラは、そんな闇の中でほんの
りと光るような優しさが、じわりじわると胸に染みていくのを感じた。
これだ..ほんの一瞬でもいいから、こういうちっぽけな優しさがいつも欲しいんだ。
そんな風に思った。
「あんた優しいね。いいこと言うじゃないか」
「そんなことはないよ」その男は言った。「でもよ、そのホセっていう男が悪いわけ
でもねぇかもしれないな。なにが悪いって言ったら、この世の中だ。合衆国にお金がい
っぱいあるのは分かる。でもな、この国にだって金持ってる奴がいっぱいいるんだぜ。
おらぁ、そういう奴が許せねえな。おんなじオンデュレーニョ(ホンジュラス人)じゃ
ねぇの。金持ってる奴がいて、そうでない奴がいて..。なんかおかしいよなぁ」男は自
分に言い聞かせるように、かぶりを振りながら言い、ため息をついて白い蒸気を前方に
吐き出した。
「あんたの言うとおりだ。賄い婦をやってれば、嫌でも分かるよ」
「そうだな、あんたの方がよく知ってるよな」そう言って、また彼は抜けた歯を見せ
ながら笑った。
完全に夜になり、人通りが少しずつまばらになってきた。通り沿いに設けられた出店
もたたみはじめていて、マイラは今日という日が終わりかけていることを否が応でも知
らされた。彼女の家は首都近郊の小さな街にある。そろそろ帰らなければ、バスがなく
なりそうな時間になっていた。マイラが住む街までは、それほど遅くまで便がないから
だ。
「それでどうするんだ、そのコンピュータは?」突然その男が聞いた。
「どうするんだって..。そうだな..」
マイラはそんなこと、まるで考えていなかった。ただ自分の胸で抱き暖めていれば、
そんな事実が溶けてなくなってしまい、またなにもかもが元通りに戻れるのではと安易
に考えていた。しかし、どんなにそれを抱える腕に力を入れても、ずっしりとしたその
重さは、彼女の膝の上で確かな手応えを保ち続けていた。
「今頃大騒ぎになってるかもな」
「なんだって?」マイラは男の顔を見た。
「だってそうだろう? 考えてもみなよ。仮にもあんたの娘さんは泥棒をやっちまっ
たんだぜ。ああいう金持ち連中はすぐに警察に通報するんだよ。あんた、このままなに
もおとがめなしに、明日からも普通に過ごせると思っていたのかい?」
マイラはそういう可能性があることを、今はじめて気付いたのだった。今までは、た
だ心の中でフリアの行為を責めることに集中していただけだったのだ。
「たとえ通報しなくたって、娘さんはもちろんのこと、あんただって仕事を続けられ
ないだろう? 信用なくしちゃったんだから..」
彼女は目の前に写るものすべてが真っ白になり、そのまま蒸発して見えなくなってし
まいそうだった。平衡感覚がなくなり、座っていても重心が定まらないで、右へ左へと
体が傾いていくような感覚を味わった。なにもかも捨てて、どこへでもいいから逃げ出
したい、身を隠したい、そんな気分になっていた。
「どうすれば..どうすれば、私は..」マイラは頭を抱え、その場でうなだれた。
「もう明日からは仕事に行かない方がええよ。きっと見つかったらただじゃ済まされ
ないんじゃねぇか?」その男は無責任にそう言い、ため息をひとつついた。そして鼻を
啜って泣いている哀れな中年女を見た。
「気の毒になぁ..。なにが悪いんだろうな。やっぱりこの世の中かな..」その男はか
すれた声で、白い息を吐きながら言った。
「やっぱりこの世の中だよな..」ともう一度言った。 「悲しいけど、その通りなん
だ..」男はそんな言葉を、答える心境もまるでない中年の女に聞こえるように呟き続け
た。
マイラは頭を抱えたまま地面に目線を落とし、土埃の積もったアスファルトの断片を
見ていた。鼻水が垂れ、唇まで伝うと、慌ててそれを啜った。 そんなことをずっと続
け、なにかわけの分からないなにか、なにか知らない大きな力で、自分をどうにか助け
てくれないかと思った。それはまさに悲嘆に暮れた願いだった。前夫が家を出て、腹の
大きい自分ひとりが残されたときも、確か同じ様なことを思った。どんな形でもいいか
ら誰かに助けて欲しいと願い続けていた。しかしどんなに待ち続けても、そんな得体の
知れないなにかが現れるわけでもなかった。ただ、少しずつ膨らんでくるお腹を恨めし
い気持ちで眺めながら、悲哀の念で一日一日を過ごしていた。きれいな花柄のシーツに
くるまって、朝を迎える毎日などを望んでいるわけではない。ただ今の信じがたい絶望
感を、誰かに癒して欲しい。なにか暖かい力で包んで欲しい。その力はほんの小さなも
のでよかった。そんなものでよかったのだ。それは贅沢というものなのだろうか。それ
は夢見てはいけないことなのだろうか。マイラは凍える心で呟き続け、アスファルトに
向かって白い息を吹きかけていた。
「お腹が空かないかい?」不躾に男は言った。
マイラは黙って首を振った。 そして「なんにも食べられる心境じゃないよ」と言っ
た。
「少しは気が休まるかもしれんだろ。ほら、ちょっと待ちな」そう言って彼は後ろの
ポケットから財布を取り出し、中の紙幣を数えはじめた。それをマイラは横目でちらり
と目配せし、ついでに彼の表情も見た。
「なんか食べたいもんがあったら、言ってみなよ。もちろん大したもんおごることな
んてできんけど、さっきも言ったように、息子から少しばかりもらってきたところなん
だよ」
「ちょっと待っておくれよ。さっき知り合ったあんたに、そんなこと頼めるわけない
だろ」マイラは手の甲で涙を拭きながらそう言った。
「ええから、セニョーラ。そんなこと気にせんでええから」そう言って彼は腰をかが
め、ぐるりと近くを見回した。
「あそこにええ店がある。入ったことないけど、いっぺん行ってみたかったんだ。一
緒に行こうか? ああ? 俺がなんでもおごってやるから」
「冗談はよしとくれよ..」
そう言いながらも、男が彼女の腕を抱えて立ち上がろうとすると、その腕に体をあず
けて彼女も同じように立ち上がった。
「本当に行くつもりかい?」マイラは不安げに男の顔を見た。そしてほのかに暖かい
ものを、足の先から全身へと感じていた。
「行こう。ええじゃないか、こういう日があっても..」男は力強く言った。その口振
りが彼の風貌とミスマッチで、彼女には一層頼もしく聞こえた。