AWC 一本のピンチョをめぐる想い(5)  横山信孔


        
#3728/5495 長編
★タイトル (YOK     )  97/ 1/26  19:41  (193)
一本のピンチョをめぐる想い(5)  横山信孔
★内容
 「まぁね..」彼女はそれ以上言わなかった。「最初の子はもう3歳だし、ふたり目の
子ももうすぐ1歳だよ。あいつも、もうちょっとちゃんとしてもらわないと..」
 フェルナンドはそんな彼女の口振りに物足りなさを感じたが、それ以上詮索するのは
よそうと思った。
 「まぁ、それでも子供はフリアちゃんだけだろう? ええじゃないか、それで。子供
は少ない方がええよ」
 「あんたは何人子供がいるんだったんだっけ?」
 「俺んとこなんて、7人だ。どれもこれもド阿呆でしょうがねえよ。一番上のやつと
2番めのやつは結婚して子供もおるけど、ふたりともおっかには逃げられちまってさ..
。子供の養育費だとかなんとかで、前のおっかに金せびられてる腰抜けどもだよ。まっ
たく、どうしようもない連中でさ」
 「あんたも苦労してんだねぇ」
 「まぁな。俺も40越えてこれからだと思ってるからいいけど、いくつになっても楽
させてはもらえそうにはないな..」
 「あんた、もう40かい?」
 「もうすぐ43だよ、セニョーラ..」そう言うと、フェルナンドは妙に老け込んだ顔
をして背筋を丸くした。
 マイラは彼の卑屈な笑いが聞けず、少し寂しい思いがした。
 フリアは1時過ぎに一階へ降りてきた。体裁悪そうな顔をして、わざと母親とは顔を
合わせようとはしない。フリアの顔には、先ほどの黒い箱を持ってきたときのような純
粋な微笑みが消えていた。いつもそのときそのときで、順番待ちをしているように意味
もなく感情が入れ替わるのだ。マイラは相変らず情緒不安な娘を見て、心が疲れた。
 「オラ、フリアちゃん..」フェルナンドは彼女に声をかけたが、それ以上なにを言っ
ていいか分からなかった。
 フリアはまともな返事をせず、「ママ、はやく行こ」と言うだけでさっさとガラス張
りのドアの前へ立った。フェルナンドは肩をすくめ、電磁ロックを解除した。
 「それじゃね、また..」マイラは申し訳なさそうな顔をして挨拶した。フェルナンド
は気にすることはないよ、とでも言いたげな顔をして笑って手をあげた。そして彼女ら
がドアを閉めて去っていく姿を見ながら、「冗談じゃねぇよ、売女野郎どもが..」と目
を伏せて呟いた。
 
 テグシガルパの都心にあるバスターミナルまでふたりは一緒だったが、フリアはどう
してもホセと会うと言ってきかなかった。バスの中で散々口論したあげく、仕方なくマ
イラが一緒に行くことで承知した。
 ふたりはセントラル公園の辺りで待った。約束の時間は3時だとフリアは言ったが、
ホセは40分遅れで来た。マイラが帰ろうと言って、腰を上げた瞬間に姿を現したのだ
った。
 彼女はまさにこの男らしいと思った。
 「これはこれは、フリアのママ..。本当にお久しぶりですね」ホセは戯けた調子で言
った。
 フリアがこの男の子供を身篭もったとき、一度だけ会ったことがある。それは4月中
旬の、雲のない暑い日だった。セントラル公園の汚れたベンチに腰掛け、この男を待っ
た。
 マイラはわざとフリアを連れて行かなかった。当時彼女は、誰からも祝福されること
ない子供ができたこともあって、特に不安定な毎日を送っていた。フリアは暴力によっ
て授かったひとり目の子供にもそれなりの愛情を注いでいたが、すべて母親のマイラに
頼りきりで生活していたために、自分で排便の処理や体を拭いたりするということを面
倒がった。虐待こそはしなかったものの、その子供のおかげでまともな男と付き合うこ
とができなくなったと、まだ一歳もならぬその子を関心ある目で見ることはなかった。
  一番驚いたのは、マイラが買い物から帰ってきた、ある夕暮れどきのことだった。家
の中から、子供がうわんうわんと大声で泣いているのを聞いたのだ。子供を置いてフリ
アがどこかへ行ってしまったのだと思った彼女は、小走りで家の中へ入り、その泣き声
に近付いた。すると、子供のすぐ脇にフリアが座っているのが見える。彼女は泣き続け
る子供を見ながら、ケタケタと小さな声で笑っていた。子供をあやそうとして前に足を
出そうとしても、全身が凍り付いたように動かない。娘の冷え切った心が、彼女の体を
も凍らせたのではないかとまで思った。
 そんな状態の中で、ふたり目の子供ができた。
 カトリック教会では、子供を堕ろすことを罪として教えている。産むしかないことは
誰もが知っていた。 フリアはふたり目の子供が自分のすべての将来を妨げるものとし
て、やりきれない気持ちで嘆いていた。
 マイラはそんな娘の振る舞いにを、どうすることもできずにいた。だからか、ホセに
盗みの手伝いをさせられた挙げ句、彼の子供を身篭もったと聞いたとき、どんな手段を
使ってでもこの男と別れさせなければならないと思ったのだ。
 その日もホセは、約束の時間を過ぎても一向に姿を現わさなかった。マイラは汗ばむ
手で僅かながらのお金を握り、苛立つ目で往来を眺めていた。娘と別れさせるために、
手切金まで用意してきていたのだった。それは本当にごく僅かな額だった。2晩寝ずに
考えたが、他に方法が思いつかなかった。子供を餌にして、娘と関係を保とうすること
だけは避けなければならない。どうか愛する娘を自由にしてくれと、協会で教えてもら
った祈りの言葉を繰り返しながら、汗で湿った紙幣を掴む手に力が入っていった。
 1時間が経った。マイラは落胆する肩を隠しもせず、のっそりと立ち上がった。する
と足下に動かぬ影があるのを見た。目の前に、痩せこけた頬の男が立っていた。軽薄な
笑いを浮かべてこっちを見ている。名前など聞かなくとも、その男がホセだということ
はすぐに分かった。1時間も遅れてやってきたにもかかわらず、悪怯れることもなく普
通に握手を交わそうとして右手を出す。 そんな彼の手の甲を、信じられない目で眺め
た。
 娘と遊びで付き合うのはやめてくれ。そう罵るつもりだったが、彼のそんな態度にす
っかり気力が失われた。放心した頭で、とにかく別れてくれと言った。子供は自分たち
でなんとかするからと、相手がなにか言うのを待たずに早口でまくしたてた。
 「それなら、それでいいんですけどね」
 彼はあっさりと了解した。すぐさま背を向け、それじゃと言い、手を挙げて去ってい
くのだった。彼は両手をポケットに突っ込み、リズミカルな足どりで雑踏の中へと消え
ていった。
 拍子抜けしたマイラは、その場にとり残されて呆然となった。口を半開きにして、汗
ばむ手が静かに冷えていく感覚を味わう。急に肩の辺りにも鳥肌が立つのを覚えた。目
の前を歩き去っていく人々の笑顔やお喋りが、無償に悲しくって不意に涙が出てくる。
娘を妊ませた男が、自分の子どもにまるで執着することなく引き下がったその潔さに、
狂うほどの怒りを覚えたのだった。
 その男がまた自分の目の前にいる。拭いても拭いても流れ出る汗に顔をしかめていた
あの日と違い、今日は肌に心地よい風の当たる年の瀬だった。どんな言葉を並べたとし
ても、また自分の娘に近付いてきたことに変わりない。
 ホセもまだ若く、25歳くらいだったが、以前会ったときとそれほど変わっていなか
った。頬の痩けた顔立ち、乱れて襟足を伸ばした黒髪、そしていやらしい口髭がマイラ
は嫌いだった。自分の前の連れ添いが同じように痩せていて、いつも調子のいいことば
かり言う男だったからだ。
 「うちの娘になんの用だい? また変なことをさせようってんなら、今度こそ承知し
ないよ」
 「ちょっと待ってくださいよ。娘さんには言ったんだけど、僕だってもう立派に働い
ているんですから。フリアが仕事をやめたいって言うから、彼女のために探してきたん
ですよ」
 「嘘ばっかり。あんたのその格好を見れば、働いているかどうかなんて、ちゃんと分
かるんだよ」マイラは突っかかった。
 確かにホセはとても好感の持てる身なりをしていなかった。よれよれのTシャツに、
サイズの合わないだぶだぶのジーンズを少しずらして履いていた。ふたつもみっつもあ
る首にかかった金色のネックレスが、妙に鼻につく。ポケットに手を突っ込みながら背
中を丸め、媚びた笑みをするこの男を、誰が信用できるというのか。
 「ちょっとお母さん、やめてよ」
 フリアがふたりのあいだに割って入ろうとしたが、 マイラは強い態度で譲らなかっ
た。
 「どんな仕事か今すぐ教えて欲しいねえ。ええ?」
 「知り合いの服屋でレジをうつだけですよ。大した仕事じゃないからそれほどの手当
はないだろうけど、楽な仕事ですから」ホセは上半身を小刻みに揺らしながら、へらへ
ら笑った。
 「フリアはまだ今のところに働きはじめて、半年も経っていないんだよ。私はね、そ
んなにいろいろと仕事を変えさせるつもりはないんだよ」
 「もうフリアも22じゃないですか。自分のやりたいことは自分で決めさせてあげな
いと。それに聞くところによると、今の仕事は相当きついそうじゃない。マンションの
奥さんも大層ひどい人らしいし。 それじゃあフリアが可哀想ですよ。そう思いません
か」
 「あんたがそんなことに口出す権利なんてないんだよ。もうあんたとは手を切ったん
だからね。大体あれくらいの仕事で根をあげていたら、どんな仕事だって務まるもんじ
ゃないよ。とにかく、もういいからあんたは帰りなさい。あんたと話をしているろくな
ことがないんだから。とにかくうちのフリアは..」
 「まぁまぁセニョーラ、そんな風に怒らないで。とにかく彼女が気に入るかどうか、
今から見れば分かりますよ。それじゃあ、セニョーラ、そういうことで..」
 マイラの話が終わらないうちに、フリアの肩に手をかけてふたりだけでどこかへ行こ
うとした。
 「ちょっとお待ち!」そう言って娘の持っていたバッグに手をかけた。「フリア! 
ふたりだけでは行かせないわよ」
 マイラが強引にフリアのバッグを掴むと、彼女の肩からずるりと落ちて、マイラの手
の中にずしりと落ちた。彼女はそこまでするつもりはなかったので、そのバッグを両手
で支えて戸惑った。
 「ママ、返して!」フリアの顔が緊張で歪んだ。
 マイラはその娘の慌て振りで、 ずしりと重いこのバッグの中になにかがあると感じ
た。それは直感に似たものだった。ここにはなにかがあると咄嗟に思ったのだ。そして
心臓の音が体の中で、ドクンドクンと響いていくのが分かった。
 マイラは自分の周りの時間が止まったような気がした。
 彼女を包む周囲の人たちの足が止まったような気がしたのだ。そして知らなければよ
かった、そう..なにも知らなければ過ぎていくことがあるように、自分のその行為を、
瞬きをするくらいの時間の中で悔やんだ。
 「ママ、返して!」
 フリアの必死の顔が迫ってくるたびに、マイラは体をひるがえし、自分の背中でバッ
グを隠した。
 「セニョーラ、返してやりなよ!」
 ホセもマイラに掴み掛かった。覇気のないホセの目が険しく変わる瞬間を、マイラは
信じられないような目で見た。
 マイラは後ずさりし、背中でそのバッグを開けた。そしてひんやりと冷たく指で感じ
たものを、胸の前に持ってきてそれを見た。それはあの黒いノートパソコンだった..。
 彼女は訳の分からない言葉を発し、その場で立ち尽くした。街頭を歩く過ぎていく誰
もが立ち止まり、彼女をいぶかしげに見た。マイラはまるで死んだ人間の首を持ってい
るかのようにその黒い箱を見据え、動けなくなっていた。ホセがそれを力づくで彼女か
ら奪い取ろうとしたが、マイラは紙一重でその腕から逃れ、呪うべくその黒い箱をバッ
グに押し込みながら走り出した。ホセが追ってくる足音や、フリアの叫び声が背後で聞
こえる。
 絶対に追い付かれてはならない。追い付かれたら終わりだ。追い付かれたら取り押さ
えられ、殴られるかもしれない。いや、殺されるかもしれない。そうだ、殺されるかも
しれないのだ。あの男は容赦をするような輩じゃない。このまま捕らえられたら、胸に
抱えたものを奪われたあげく、ナイフで脇腹を刺されるかもしれない。なんとしても逃
げなければ。手段など選んでいる場合じゃない。どんなことをしてでも逃げのびなけれ
ばならない。
 マイラは黒い箱の入ったバッグを胸に抱えながら、人を突き飛ばし押し倒して、気が
狂ったように走った。今まで想像してきた最悪のシ−ンよりも、現実に起こったことは
もっともっと醜いことだった。そのことに彼女の心はひどく痛んだ。
 どこへ走ればいい? どこへ逃げればいい?
 そう自分で問いかけながら、人の脇をすり抜け走り続けた。 人々にかけられる罵声
や、車のクラクション、子供の泣き声などが頭の中を駆けめぐり、足がからまってつま
づいて転び、動けなくなるまで走った。
 結局何ブロック走ったか分からなかった。ただ振り向くと、ホセもフリアも追ってき
ていないことだけは分かった。乱れた息と髪を整え、紅潮している頬を撫でながら歩い
た。どこへ行くというわけでもなく、ただ大げさに腕を左右に振りながら歩いた。
 気がつくと陽が沈みかけていて、街頭や出店の弱々しいオレンジ色の光が、ぼんやり
と埃の積もったアスファルトを照らしていた。その光に照らされて浮かび上がる疲れた
人々の横顔を、わけも分からず悲しいやら悔しいやらの気持ちで眺めた。そして誰にも
奪われないようにとフリアのバッグを胸に抱きしめ、路上に座り込んだ。
 ふと膝の上にバッグの重みを感じた。すると、だんだんとこれからどうして生きてい
けばいいのか分からなくなっていった。今までなにもかもうまくいっていたわけではな
い。ただその日その日が終わっていけばそれでいいと思って暮らしてきた。前夫と別れ
たあとにフリアが生まれたときも、まだ10代だった彼女は途方に暮れた。しかしそれ
でも自分に頼るものがないと分かっていたからこそ、なんでもやれることだけをやって
きた。不幸だと思う前に、まず自分のしなければならないことを探して生きてきた。
 マイラはふと今日の子供っぽいいたずらを想い出した。水をじょぼじょぼと出しっぱ
なしにして、ありとあらゆる電気のスイッチをつけたことを。なんだかあんな幼稚な遊
びで心が晴れるようなことが、毎日一回でもあればそれで幸せだと思えた。確かに面倒
くさいことは他人に任せて、贅沢な暮らしができればそれに越したことはないが、無理
なことは無理なことで素直に受け止めなければいけないのではと思った。
 フリアを不憫な子だと思う前に、自分自身を不憫だと思った。
 考えれば考えるほど胸の部分が焼けるように熱くなり、 全身を高揚させて震え続け
た。そして目の前の空虚な部分に息を吐きかけると、それは白い蒸気となってふわりと
舞っていった。
 「パサヘ・マノ、パサヘ・マノ! バス代、手に持って、バス代、手に持って..!」
 そう叫び続けるバスの呼び込み男の声が響いている。彼はバスに乗ろうとする人たち
の背中を押して大声で急かせていた。目の前を何台ものバスが停まっては、疲れた顔を
して家路を急ぐ人たちを飲み込んでいく。そんな様を、マイラは宙を舞う埃を見るよう
な目でぼんやりと眺めていた。




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