AWC 一本のピンチョをめぐる想い(4)  横山信孔


        
#3727/5495 長編
★タイトル (YOK     )  97/ 1/26  19:37  (198)
一本のピンチョをめぐる想い(4)  横山信孔
★内容
 雑巾でその写真立てのガラスを拭いた。すると雑巾に付着していた細かい糸くずがつ
いてしまい、慌てて指でこすって取りのぞいた。はじめから汚れていたわけでもなかっ
たのだが、それでもマイラにとっては常にきれいにしておきたい大切なものだった。
 居間のソファ近くに置いてある、パスクア()が枯れかかっているのが目に付いた。
女主人はもうすぐクリスマスだといってこのパスクアをいくつも買ってきていたが、ど
れもまるで注意を払われている様子はなかった。歯痒い気持ちでマイラはそれらに水を
やった。美しい赤みの帯びた葉の一枚一枚の色彩が、来るたびにくすんでいくようで悲
しかった。
 まるで自分のようだ..
 そんな風にも思ったが、自分には華やいだ時代がなかったことを思い返すと、やはり
違うなと思った。そしてそんなこと思わなければよかったと少し後悔した。
 居間を掃除し終わると、あとは洗濯を残すのみとなった。しかしまだ仕事の終わる1
2時半までには、随分と時間があった。洗濯をする前に、もう少し意味のない掃除でも
しようと思い、キッチンへ行った。
 マイラは布巾を丹念に洗い、電気コンロや電子レンジ、オーブンの周辺を拭き掃除し
た。ここの女主人はそれらをほとんど使っていないので、なかなか汚れを見つけること
ができなかったが、それでも手持ちぶさたにしているよりはましだった。
 マイラはかがんでオーブンの中を覗き、なにか汚れがないかを探した。内側の側面に
なにかのソースが飛び散って付着し、茶色く固まっているものを見つけた。それを布巾
でごしごし擦るとすぐにとれる。
 これでまたひとつ仕事が終わったと思った。
 マイラは疲れてもいないのに、フー..と息を吐いて腰を上げ、そしてふと考えた。
 なにをやっているんだろう、私は..
 毎回意味もない仕事をしている自分が腹立たしくなってきたのだ。仕事が少ないこと
は確かにありがたいことだった。しかし、今まで彼女が受け持った家で、これほどやり
甲斐のないところはなかった。
 この家にひとりでいると、皿の1枚や2枚、コップのひとつやふたつ、どうして自分
で洗うことができないのか。時折そんな風に思ってしまうことがある。その日もそうだ
った。前日の夕食はインスタントのラザニアと一杯のワインだろう。皿に付着していた
ソースの色でなにを食べていたのかすぐに分かる。それは女主人の冷蔵庫の中を完璧に
把握している、マイラだからこそ分かることだった。マイラはラザニアが嫌いだった。
一度女主人に食べさせてもらったことがあったが、とても口に合うものではなかった。
どうしてこの国に生まれておきながら、他の国の食べ物ばかり食べるのだろう? それ
が彼女には理解できなかった。
 マイラは布巾を洗ったあと、水道からじょぼじょぼと流れ落ちる音を聞きながら、ぼ
んやりとその滴が跳ね落ちる辺りを見ていた。少しでも水を無駄遣いし、ほんの小さな
反抗をしてみてはどうだろうか、そんな風に思った。それは本当にふとした出来心だっ
た。このまま仕事が終わるまでこのままにしておこう。そう思ったのだった。
 マイラはなんだか楽しい気分になってきた。自分が物心をついてから、一度だって手
に入れたことのないものがここにはある。そういったものを単に親から譲り受けて生活
している若い小娘に、極僅かな抵抗ができるような気がして嬉しかった。腹の中から本
当におかしい気分になって、そんな水滴の飛び散る行方をずっと見ていた。
 水だけじゃなく、電気もつけたらどうだろう?
 日頃から女主人に無駄な電気はつけないようにと言われていたが、どうせ彼女はここ
にいないのだ。なにかを盗んで持っていくわけでもない。電気の無駄遣いくらいなんだ
というのだ。そんな風に思いはじめると、途端に気が大きくなってくる彼女だった。
 彼女はまず居間の照明をつけ、女主人の部屋と客室、そしてトイレとバスの照明のス
イッチも入れた。テレビもつけた。しかしボリュームは最小限にしておいた。隣近所に
その音が漏れるといけないと思ったからだ。居間にあるステレオのスイッチもつけよう
と思ったが、どれがスイッチなのか分からなかったのでやめた。それでも部屋の中が一
辺に明るくなったというわけでもない。開かれたカーテンから午前の光が差し込んでい
たため、そんな照明のほのかな明かりはまるで意味のないものだった。しかしマイラは
満足だった。どうせ女主人にとって大した金ではないだろうが、それでも意味もないこ
とにお金を支払わなければならなくなっただろうことを思うと、やけに幸せな気分にな
るのだ。なんだか声を出して笑いたいほどだった。
 じょぼじょぼと水が落ちる音を聞きながら、洗濯物を洗濯機に突っ込み、いつもより
多めの液体洗剤を入れようと思った。するとその洗剤が手につき、流れ続けている水道
水でそれを流した。そしてそのあと反射的に蛇口を閉めた。すると今まで身を包んでい
た心地よい雑音がなくり、ふと我に返った。
 フー..と深いため息を流し場に吹きかけると、そんな自分を振り返り、悲しくなるの
だった。自分の手で皿さえ洗えない人がいる、だから私の仕事があるんだ。どうしてそ
んな風に思えないんだろう? 水の落ちる音を聞きながら、自分を失った僅かな時間を
恨めしく思った。そうして急いで必要のない電気をすべて消した。

 呼び鈴が鳴った。フリアが来たのだと思った。フリアが賄っているマンションの奥さ
んは、10時になると子供を学校に連れていく。だから彼女はその隙を見て6階まで上
がり、母親に会いに来るのだ。
 マイラは扉を開けた。
 「ママ、もうこの仕事やめる!」フリアは開口一番そう言った。
 彼女はいつも精神的に不安定だった。楽しいときも悲しいときも苦しいときも、全身
にみなぎる感情を抑えきれないように表現する女だった。そういう彼女の態度はいつも
周囲の人たちを苛立たせた。
 マイラは娘が言った今の言葉について、まともに取り合おうとは思わなかった。この
言葉を、今日まで何度聞いたか分からなかったからだ。
 「それよりもお前、ちゃんと時間通り着いたんだろうね。遅れて奥さんに叱られなか
ったかい?」
 「ちゃんと着いたわよ」
 「何時に?」
 「え..?」フリアは神経質に目を動かした。
 「8時過ぎよ」彼女は身振りを大きくして話題を変えようとした。「それよりも、マ
マ! もう私耐えられない。他に仕事探すわ」
 いつもなら、そのまま彼女のペースに巻き込まれて話を聞いてしまっていたが、今日
こそは容赦なく問い詰めようと思った。
 「何時に来たの?」マイラは低い声で言った。
 「え..? そんな、ママ..。そんなことどうだっていいでしょう?」
 ふたりは小声で話した。ビルの廊下に声が響くからだ。
 「ちゃんと言いなさい。何時に来たの?」マイラは落ち着いていた。
 「9時半よ..」フリアは顔をそらして言った。
 「なんだって..?」マイラは顔をしかめた。「それじゃあ、あんたさっき来たばっか
りじゃないの」
 「だって、起きられなかったのよ..」フリアは腕を組み、開き直ってそう言った。
 マイラはかぶりを振った。
 「そんなんで仕事をやめようなんて、許されるわけないよ。叱られて当たり前じゃな
いの。 あんたこのままだと給料もらえなくなるよ」その強い言葉は廊下の中で反響し
た。
 「だってママ..。あのクソババアときたら、私になんて言ったと思うの?」
 「お黙り。ちゃんと仕事もできないくせに文句なんか言わないの。この仕事やめたっ
て、他にどんな仕事があるって言うの?」
 「大丈夫よ、ママ。心配しないで。今日の夕方、ホセに会うことになってんだけど、
彼がちゃんとした仕事を紹介してくれると思うわ」
 「ホセってあの..? ホセ・ベラスケスかい? あんた、まだあんなろくでなしと付
き合ってるの?」
 フリアは街角で知り合ったその男と、一度親密な関係になったことがある。そして母
親には黙って何度か盗みなどを手伝わされたことがあった。マイラは途端に派手な服を
着てきたフリアを問いただし、その男と強引に手を切らせた。それから1年ほど経ち、
やっと落ち着いてきたと思っていたのだが..。
 「それが大丈夫なのよ、ママ。彼は今ちゃんと働いているの。小さな服屋だけど店長
みたいに店を任されてるって言うのよ。彼の口利きで、服屋の店番でよかったら仕事が
あるって言うんだけど..」
 「馬鹿かい、お前は? あんなごくつぶしが店を任されるわけがあるか。そんなの嘘
に決まってるよ。どうしてお前はすぐに騙されちゃうんだろうね。冗談じゃない、絶対
に行くんじゃないよ」
 「でも、ママ..」
 そこで隣の部屋に住んでいるアメリカ人が部屋から出てきた。咄嗟にふたりは会話を
やめた。
 「昼の1時になったら、いつものように下で待ってるから一緒に帰るんだよ。分かっ
たかい? 寄り道はさせないからね。ちゃんと仕事をやるんだよ」そう言ってマイラは
、娘が言葉を続けようとする表情をみとめながらも、黙ってドアを閉めた。

 おやつを食べようと、持ってきた菓子パンをビニール袋から取り出した。そしてプラ
スチックの水筒から緩くなった甘いカフェを蓋に注ぎ込んだ。そこでふと、あることを
思いついた。今日はどうしたのだろう。変なアイデアばかりが頭に浮かんでくる。マイ
ラは女主人の部屋でおやつを食べたら、どんな気分になるだろうかと思った。
 早速マイラは女主人の部屋へ行き、ふかふかの絨毯の中央に揺り椅子を持ってきて腰
掛けた。その上でゆらゆら身を任せ、菓子パンを頬張り、カフェを啜ってみた。開け放
たれたカーテンから、通りを挟んで建てられている、もう一方のビルが見える。あっち
の建物から、そんな自分の姿を見られたらたまったものじゃない。 そう思ったマイラ
は、すぐにカーテンを閉めて照明をつけた。そしてもう一度揺り椅子に体をあずけて、
ぎこちない腰使いで椅子を揺らした。
 揺り椅子の上でおやつを食べていても落ち着かず、ベッドメイキングされたベッドの
上に腕を拡げて横たわってみた。すると染みのついた服を着た自分が、色彩豊かな花柄
のシーツカバーを汚しているようで、居心地が悪かった。一生こんな暮らしができるわ
けないと、分かっていた。そんなことを求めて生きてきたわけではない。ただ、そんな
暮らしを居心地悪く思える自分の貧乏くささが、たまらなく侘びしく思えるのだ。
 マイラは揺り椅子の傍らに置いた菓子パンと、カフェの入った水筒を手にして、自分
のスペースへと戻った。日の当たらない薄暗い小さな個室で、便器を見ながらカフェを
啜る。そんな自分の方が似合っているようで、悲しくもあったが、変に現実を見せられ
て落ち着かなくなるよりはよかった。

 もう一度呼び鈴が鳴った。マイラはまたフリアが来たのだと思った。扉を開けるとや
はりフリアが立っていた。
 「どうしたの? あんまりこっちに来ていると奥さんに叱られるわよ」
 「大丈夫よ、ママ。まだあいつ帰ってきてないから。それよりもこれ見て。あいつの
部屋にあったものを持ってきたんだけど、すごいのよ。こんなのはじめて見た」そう言
って、母親の前にプラスチック製の黒い箱を見せた。
 「奥さんのものを、勝手にこんなところへ持って来るんじゃないよ。なんてことをす
るんだい、お前は」
 「でも素敵なものなの。ママもこれを見たらきっと驚くわ。とにかくすごいの。すっ
ごく面白いの」
 「なにがそんなにすごいんだい? なにが言いたいのかさっぱり分からないよ。とに
かくすぐに返してくるんだよ。いいかい?」
 「分かった、ママ。分かったから、とにかくこれを見てちょうだい。すごく素敵なの
。どうしてもママに見せたかったのよ」
 「分かったよ。でも一体なんだい、これは?」
 マイラはその黒い箱を手に取ると、ずっしりと重いことに驚いた。その箱は両手で持
たないと支えきれないほど重量感があった。
 「なんだい、これは..? やけに重いね」
 「こうやって開くのよ。今日あいつが使っているところを、盗み見て覚えたの」
 フリアは母親からその箱を奪って、側面についている小さな四角いボタンを押しなが
ら開けた。すると箱がまっぷたつに割れるようにして口を開けた。それを見ていたマイ
ラは、驚いて身を引いた。中にはたくさんのボタンが順序よく並べられてあった。
 「これはコンピューターかい? そんな感じだね..」
 「どうしてママ知ってたの? すごいじゃない!」フリアは愉快そうに笑った。
 そんな彼女の無邪気さにマイラの心は急に切なくなった。素直すぎる娘の性格が、と
きには誰かに傷つけられる要因になることを知っていた。彼女の純真さを失って欲しい
などとは思っていない。しかし、もう少し世渡りが上手になってくれはしないか。いつ
も思わされることだった。
 それから彼女はそのノートパソコンのスイッチを入れ、カラフルな画面をマイラに見
せようとしたが、それ以上はどうすればいいのか分からず、結局立ちあげの途中でスイ
ッチを切った。
 マイラはちゃんとあったところに返しておくんだよ、と何度も念を押してフリアを帰
した。フリアは快活な返事をして母親に手を振った。いつも彼女の起伏の激しい感情表
現に振り回されるマイラだったが、そんな娘を正直に愛しいと思った。
 居間にあるソファに腰掛け、ぼんやりと娘の幼年時代を回想した。どんなときでも情
緒不安の中にいる彼女を、誰よりも憎いと思ったし、誰よりも可愛いと思った。
 
 マイラは12時半に仕事を終えて、フェルナンドのいる受け付けまで降りていった。
 「おや、セニョーラ。もう仕事は終わりか? フリアちゃんはどうした?」
 「あいつは遅れてきたからまだやらされてるだろ」
 マイラは吐き捨てるように言った。もう自分の娘だというのに完全に呆れてしまって
いるという素振りをした。
 「今日は遅かったな。あそこの奥さんも、カンカンだったんじゃねぇのか?」
 「怒られたって泣きついてきたよ」マイラは言った。「だけど冗談じゃない。もうあ
の子はどうしようもないよ」
 「おいおい、そんなこと言うなって。フリアちゃんだって、頭が痛くて休もうかと思
ってたらしいじゃねぇか」
 いつものことだったが、自分の娘の嘘を、そうやって聞かされることが心苦しかった
。マイラは彼になにか言おうと思ったが、やめた。ますます自分を哀れに思えるからだ
った。
 「もうフリアちゃんいくつだっけ?」フェルナンドが聞いた。
 「22だよ」マイラはぶっきらぼうに言った。
 「そろそろ結婚する歳じゃないの?」そう言って彼はヒヒヒ..と笑った。
 「あんな娘、誰が引き取ってくれるんだい? もう子供もふたりいるんだよ」
 「あれ? お子さんいたんだっけ?」フェルナンドはとぼけて聞いた。
 実のところ、彼はそのことについて知っていた。ふたり目の子供はどこかのごろつき
との子供だったが、ひとり目の子供は若い頃に暴行されたあとに宿った子だった。その
ことをフェルナンドはうわさで聞いて知っていたが、敢えて母親の彼女の口からもう一
度聞こうと思った。




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