#3730/5495 長編
★タイトル (YOK ) 97/ 1/26 20: 1 (186)
一本のピンチョをめぐる想い(7) 横山信孔
★内容
バスが夜の街と同じ色の煙を吐き出しながら、せわしく通りを行き交っている。そん
な大通りを小走りで渡り、ふたりは反対側の通り沿いにある小さなレストランに入った
。それほど高級な店ではなかったが、マイラは一度もそういう店で食事をしたことがな
かった。いつも自分で弁当を作るか、たまに街角にある出店でちょっとしたものを食べ
るくらいだった。
「結構混んでるな」男はレストランの中を見回して言った。 「それで? なに食べ
る?」
「なに食べるって言われても..」
マイラはまだ当惑していた。本当にこの男は私におごってくれるのだろうか。もしも
あとからお金がないなどと言われたら..。いや、お金があることは確かだ。さっき彼の
財布の中身を覗いたときには、ちゃんとある程度の金があった。それではなぜ..? マ
イラは用心深くそのように考えていたが、当然迷いもあった。ながいあいだ自分の辛い
出来事や身の上話まで聞いてくれた見知らぬ男に、ここまで親切にされていながら、相
手のことをまだ疑っている。そんな自分を顧みて、言い得ない寂しさを感じてしまう。
このまま彼の厚意に身を委ねてもいいのだろうか。そんなことを頭の中で思い巡らせて
は、結局はこの男に甘えてみたいと思える自分を認めた。
「ええから、ええから。それじゃあ、このピンチョなんてどうだ? 好きじゃないか
?」
マイラはぼんやりと彼のその言葉を聞いた。その声がどれほど暖かく聞こえたか、こ
の男にはもちろんのこと、このレストランにいる連中にも、通りを歩く連中にも、きっ
と誰にも分かりはしないだろう。偶然にも、マイラにとってピンチョを食べるというこ
とは、昔からの夢だったのだ。小さい頃から、金持ちだけが口に入れる食べ物という印
象を常に持っていた。食欲をそそるソースを充分に吸い取った分厚い肉や野菜が、ダイ
ナミックに串に刺されている様は、想像しただけでもよだれの出るものだった。いつも
レストランの近くを通りかかり、ピンチョを口にする人たちを傍目に見かけると、一度
でもそんな贅沢なものにかぶりついてみたいと密かに思っていた。死ぬまでに一度でも
いいから食べてみたい。彼女にとってはそこまで思える代物だった。
食べたい..
そう正直に思うマイラだった。
「本当におごってくれるのかい?」
「ああ。心配せんでもええよ。次にええ仕事に就いて、ええ稼ぎがもらえたとき、そ
のときに、またあんたとこんな風に出会えたら、俺の好きなもんをおごってもらうよ」
その男は照れながら卑屈な笑いをした。そしてウエイターを呼び、ピンチョと自分用
にカフェを一杯頼んだ。彼は小一時間前にホットドッグを食べたからもうお腹は空いて
いない、と言った。
マイラは彼の言葉を夢のような気持ちで聞いていた。人の優しさというのは金で買え
るものではない。だが、こんなひもじい思いをする年の瀬の夜に、星の数ほどの偶然で
彼に出会えたことを、どんな言葉であらわしていいのか分からなかった。ただマイラが
思うことは、やはり神様は存在したんだということだった。ヘスス・クリスト(ジーザ
ス・クライストのスペイン語読み)は実存したんだと、心の底から思うのだった。
ふと顔を上げてその男の顔を見ると、吹き出しそうになった。肩まである髪の毛と、
口の周りを覆った髭が、一瞬ヘススのように見えたからだ。そんなことはない。なぜな
ら、本物のヘススはこんなに太ってはいないだろうからだ。しかしそう思える自分がな
んだか嬉しかった。そして自然と笑みがこぼれてしまう。
「なにかおかしいかい?」そう言って男は笑った。
マイラは彼の名前を聞こうとしたが、今はやめておこうと思った。もしも『ヘスス』
でなかったら、少しがっかりしてしまいそうだったからだ。
しばらくしてピンチョがやって来た。マイラは今までに何度も見たことがあったが、
焼き立てのものを目の前に置かれたことは一度だってなかった。 それは幼い頃から思
い描いていたものよりもほんの少し小さめで貧弱だったが、牛肉や赤ピーマンの上にか
かっているスパイスの効いたソースが彼女の鼻を刺激すると、思わず涙が出そうになっ
た。食べ物を前にして、これほど感動したことは今だかつてなかったことだった。
その男が頼んだカフェも同時に運ばれてきた。彼はカップに砂糖を2袋入れ、スプー
ンでかき回し、ひとくち啜った。その間、じっと彼女の目を見ていた。そしてテーブル
に両肘をつけ、彼女がピンチョを食べる様をじっと見ようとしていた。
「そんな風に見られていたら、恥ずかしいじゃないか。だって私はピンチョを食べた
ことがないんだよ」
マイラは照れて顔を赤くした。
彼女は不思議な気分を味わっていた。なんだか本当に久しぶりに恋をしているような
、そんな新鮮で甘酸っぱい空気が体の中を駆けめぐった。
「ああ、まずその鉄串をはずさないとダメだよ。そのままナイフを入れたり、かぶり
ついたりするのはよくない」
そう言って彼は身を起こし、彼女の皿の上で、食欲をそそる香りを放っているピンチ
ョの串を抜いた。
マイラはもうその厚い肉を食べたくて、待ちきれない気分になっていた。 そうする
と、今日の出来事も、今までの生い立ちも、すべてを忘れてしまいそうな気分になって
全身が高揚した。ほんのひとかけらでよかった幸せが、突然どっと押し寄せてきたよう
だった。 そのピンチョをすべて食べてしまうと、これからの人生の中で与えられてい
る、幸運のすべてを失いそうで恐いくらいだった。彼女は肉の表面を弾けているソース
の香りを嗅ぎながら、ヘスス・クリストと彼に似た目の前の男に、心の中で合掌し、感
謝した。
突然、マイラの目の前が激痛で真っ白になった。
テーブルの上に置いていた左手の親指を、その男が鉄串で刺したからだ。そして男は
彼女が抱えていたバッグを奪い取り、一目散に店を飛び出していった。
強烈な痛みで視界がぐるぐる回り、椅子から転げ落ちた。あまりの衝撃で言葉が出な
かった。ただ混乱する頭では、駆け寄ってくる足音や、視界に入ってくるいくつもの顔
が、すべて恐ろしく見えるだけだった。
多くの野次馬がマイラに声をかけたが、誰もそれ以上は関わりたくないと思っている
ようだった。彼女が文無しになり店から出されたあとも、誰ひとり「大丈夫?」「気を
つけて」以外の言葉をかけなかった。
彼女の親指は串で貫かれていた。しかしそれを治療するどころか、家に帰るためのバ
ス代も持っていなかった。男がフリアのバッグとともに、彼女の荷物まで持っていった
からだ。その近くに知人もなく、彼女は完全に途方に暮れた。スカートのポケットに何
度も何度も手を入れたが、どんなにその中で指を動かしても触れるものはなにもなかっ
た。
クラクションを激しく鳴らしながら、数台の車が彼女の横を通り過ぎていった。開か
れた窓からは、威圧するような激しい流行歌が流れている。ひずんだ低音が、それぞれ
の車体を揺らしていた。通行人がそれら何台もの車を、恥知らずな者を見るような表情
で眺めていた。
マイラはそんな車を見送りながら足を止め、苦痛に歪んだ顔に気を払いもせず、口を
半開きにしてぼんやりと立っていた。そしてもう一度ポケットに手を突っ込みまさぐっ
てみたが、やはりなにも出てこなかった。なにもないところに突然なにかが現れること
なんてないのだ。
そのときマイラは、
神様なんていない..
と、はっきり思うのだった。
乱れきった髪でふらふらと歩いた。もうしっかりとしたことが頭で考えられなくなっ
てきていた。 左手の親指がドクンドクンと脈打つたびに、左の腕全体を痛みで揺らし
た。
マイラは自分の家へ向かうバスと同じ方向へ歩いた。夜のとばりの中、うつろな目で
その道を真っ直ぐに歩いた。もうどうなってもいい。そう思う以外なにもなかった。
なにも考えられなくなっていた。
そう、すべてが信じられなくなっていたのだ。
目を覚ますとまったく知らないところで眠っていた。しばらくすると、鼻に土と草の
匂いが伝わってくるのが分かった。大きな通りの脇道の、草むらの中でひとり横たわっ
ていたのだ。もうすっかり陽は昇っているようだった。雲の谷間から顔を出した太陽が
眩しい。しかし太陽はすぐに雲の中へ消え、マイラの顔にも影が差した。
体に力が入らない。空腹感で胃が荒れて、気持ちが悪いのだ。しかしどうすることも
できない。彼女が眠りこけていた辺りにはまるでなにもなく、たまに長距離バスやトレ
ーラーが通り過ぎていくだけだった。
マイラは体を起こして歩き出した。親指はまだ痛かった。出血は止まっていてすでに
固まっていたが、気持ちの悪いほど腫れていた。それをぺろぺろ舐めると少ししょっぱ
い味が唾液と交じって、口の中に広がっていった。彼女はその道を歩いているあいだ、
ずっと親指を舐めていた。
いつかトラックやトレーラーが止まって私を拾ってくれないか、そう思ったが、彼女
の汚れきった格好ではどうしようもなかった。トラックが通り過ぎるたびに通りに向け
て腕を出し、止めようとしたが、乱暴にクラクションを鳴らされては走り去っていく。
一度だけ、わざと彼女に向かって方向を変え、脅そうとするトラックがあった。そのと
き彼女は脇道に転がり込んで頭を抱え、身を縮めた。遠ざかっていくがちゃがちゃとい
う荷台の揺れる音を聞きながら、彼女は染みのついたスカートが土埃だらけになってい
るのを見た。立ち上がり、自分の格好を見直す気力もなく、千鳥足で体をふらつかせ、
ただその道に沿って歩いた。
彼女は歩き続けた。そう、もう歩き続ける以外に一体どうしろというのか。マイラは
やけくそになって、足を前に出す気力だけを残して歩いた。
空を見上げると、太陽を隠す雲の切れ間が黄色に染まって縁取られていた。そんな縁
取りがだんだんと光に満たされていくと、玉のような光が溢れ出し、見る見るうちに太
陽が顔を出す。そして自分の顔の表面にまでその光が到達すると、ぴりぴりと肌が灼け
る感覚を味わった。しかし、すぐに流れの速い雲が太陽を隠すと、その雲は背後から照
らされる陽光によって、無数の水滴がちかちかときらめき、これ以上もないほどの純白
色を放ち浮かび上がっていく..。
惨めだった。
そしてどんなときよりも哀れだった。
マイラはそんな感情を抑えることができないでいた。
自分の意志に関係なく、不規則な間隔で雲が太陽を隠していき、陽の光が自分の肌を
照らされたり、照らされなかったりすることと同じように、自分の思い通りにならない
ことばかりだった。なにもかもが自分の都合のいいようには働いてはくれなかった。
路上で知り合った男に、少しでも恵まれた家庭で育ったなどと嘘ついたことを、後悔
するべきかどうか悩んだ。「この世の中が悪いんだ」そう言ったあの男は、自分のした
行為に対しても「この世」のせいにするのだろうか。人を傷つけ、盗みを働いた自分を
責めることなく、この世の中が悪いから仕方がないのだと開き直ってこれからも生きて
いくのだろうか。
きっとそうではないだろう..。マイラはそんな気がした。
確信などない。ただ、あの男はホセとは違う種類の男だと思った。きっと出来心でや
ったに違いない。そして今頃は自分がした許されぬ罪を、悔いて途方に暮れている頃だ
ろう。マイラには、どうしてもそういう風にしか思えなかった。
たとえこの世の中を自分の思い通りに変えるほどの力があったとしても、あの男のこ
とは許してあげられる気がした。ヘススに似た、長い黒髪のあの男が、卑屈に笑う姿を
思い浮かべては、許せられる..。あの男に対しては許せられる..。そんな風に心の内で
呟きながら、彼女は歩いた。ただひたすらに歩いた。自分の心に嘘を並び立てて、へり
くだったものの考え方をしているわけではない。自然とそういう風に考えられるのだっ
た。
一体どれくらい歩いたろうか。時折見え隠れする太陽が恨めしかった。足が棒のよう
になり、歩いても歩いてもどこかまるで知らない異国の地へと進んでいるようだった。
バスだったら1時間くらいで着くはずの彼女のコロニーは、どんなに歩いても見えては
来なかった。
とにかくトラックが止まって欲しかった。トラックにさえ乗れば、あと10分くらい
で着くような気がした。
マイラは思った。
誰かの優しさが欲しい、と..
どんな小さなものでもよかった。ほんのひとかけらの優しさが、素直に欲しいと思っ
た。昨夜あの男にピンチョをおごってもらえそうになった、あのとき味わったあの気持
ちを、もう一度だけ噛みしめたいと思った。どんなに惨めな形でもよかった。蔑んでみ
られようと、なじられようとも..。犬に食事を与えるように、地面にパンを投げ捨てら
れても、今なら拾って食べられると思った。それほどまでに飢えていた。そして疲れて
いた。
そんなときだった。歩き疲れて呆然となっているときに、突然大きな藁葺きの屋根が
マイラの視界に飛び込んできた。なんだろうと思い、歩きながら注意深く見ていると、
通りから少し奥まったところにその藁葺きの屋根が太い柱で支えられて建っている。そ
の屋根の下にはいくつもの丸いテーブルが配置されていて、後方には背の高い椰子の木
がその建物を囲っている。
レストランだ..
マイラは目を見開いた。そして歩く足を速めた。 なにか恵んでもらえるかもしれな
い。そんな風に考えながら、そのレストランに近付いた。それは厨房のところだけに壁
がある、風通しのよいレストランだった。
通りからすぐ入ったところに車が数台駐車できるスペースがあり、そこに1台の高級
車が停まっていた。今までに見たこともないほど大きく、太陽が出てもいないのになぜ
かきらきらと光る車だった。その車をじろじろと見ながら、マイラは足を引きずりそこ
へ近付いた。少しでも哀れに見えた方がいいだろうと思い、わざと足を引きずったつも
りだったが、本当に足が疲れ切っていて、元通りに歩けないような気がした。
藁葺き屋根を支える太くて背の高い柱まで歩き、それに手をついて寄り掛かった。レ
ストランには一組のカップルしかいない。きっとあの高級車の持ち主だろうと彼女は思
った。