AWC 風船 1   赤尾充哉


        
#3721/5495 長編
★タイトル (SND     )  97/ 1/26  12:23  ( 99)
風船 1   赤尾充哉
★内容

 今日、風船を買った。駅前で売っていた。僕は学校から一時間の帰路を終えてきた
ところだった。そして、駅から出てくるなり、風船達と遭遇した。きれいだった。広
告用の風船と違って無印字で、それぞれ赤、青、黄色などの単色だけで彩られていた。
太陽の光を受けてその丸い頬は艶やかに輝いていた。それはいかにも楽しそうな微笑
みだった。
 その風船売りは、いわゆる露店商で、十個ほどの風船を露店の端の方にくくりつけ
て浮かべていた。風船が売れると、売れた分だけ新たな風船をふくらませて、そこに
くくりつける。風船にガスを送り込む機械は、その度にけたたましい音を立てた。
 今日は土曜日で、どこかへ出かける子供連れが多い。風船は少しずつ売れていった。
僕はそうした光景をしばらく眺めていた。最初は近くのベンチに腰かけて、ぼうっと
眺めていた。しかし、やがて僕は風船を意識的に見るようになり、ついには立ち上がっ
ていた。すると、露天商のおじさんが僕に気付き、笑いかけてきた。僕は微笑み返し
て、風船に近づいて行った。「いくらですか?」
「三百円だよ。」と愛想の良いおじさんは答えた。三百円とは少しばかり高すぎる。
僕はそう思いながらも、財布から三百円を出していた。
「ありがとね、お兄さん。」
 そういったわけで今日、風船を買った。駅前で売っていた。僕は帰路の途中であっ
た。しかし、僕が手にした黄色のきれいな風船は、駅から家までのわずかな道程を許
さなかった。僕はとりあえず近くの公園までゆったりと歩いて行った。
 公園はやはり子供達とその親で溢れていた。子供達はみな遊んでいた。親は子供と
一緒に遊んだり、子供を見守りながらベンチに腰かけて夫婦で、或いは他の子供の親
と会話をしていた。子供達の中には、僕の風船をうらやましがり、親にねだる子もい
た。
 僕は砂場の前のベンチに腰かけた。そして、風船を見上げてみた。ひもを引っ張っ
てみた。風船を小突いてみた。風船は揺れた。あやうげに揺れる風船を見て、僕が手
を放せばこれはおそらく飛んで行ってしまうであろうことを、今更ながら悟った。
 思い切って飛ばしてみようか。きっと公園中の子供達が「あっ。」と言って見上げ
るだろう。その時、風船はさらなる賞賛を浴び、尊敬と憧憬を一身に受けるのだ。こ
の黄色は輝きを増すだろう。
 僕はというと、大切な物を失い茫然と風船を見上げているだろう。同時に、風船が
浴びている尊敬や憧憬がこぼれ落ちてくるのを、ほんの少し得ることができるだろう。
 しかし、僕の手は固く風船のひもを握っている。
 気がつくと、花を眺めていた。花壇に植えられている、たくさん植えられている、
その中の一輪の黄色い花を眺めていた。僕はあいかわらずベンチに座っている。あい
かわらず風船のひもを握りしめている。あいかわらず上向き加減で、あいかわらず下
目使いに眺めている。だが違う。僕はほとんど意識せずに眺めているように見えるか
もしれないけれど、はっきりと花を見ている。視界の中心にある黄色い花が鮮烈に脳
に突き刺さってくる。それは何故か。他に何の理由も無い。きれいなのだ。
 思い出した。花は美しいのだ。久しく忘れていた。普段美しいものを目にしていな
いのだろうか。
 花は美しい。それは土に根を下ろしているからだろうか。確かに僕の生活は土との
つながりに欠ける。僕が普段目にするものは、だから美しくないのか。すると、僕も
無論美しくないわけだ。
 しかし、風船はどうだろう。僕が必死にひもを握っているのは何故だろう。僕がこ
の風船を買ったのは何故だろう。美しいからだ。けれども風船は地に足をつけてはい
ない。
 鳥はどうだろう。鳥は美しいのだろうか。それは分からない。僕は鳥と同じ高さで
話をしたことが無い。空に舞い上がって鳥を見に行きたい。だが、それは僕にはでき
ない。この体は空を飛ぶことはできない。
 そこで再び風船に目をやった。こいつなら飛んで行ける。こいつは飛びたいと言っ
ている。僕は手を離すべきだ。子供達がみなそう僕に叫んでいるような気がする。け
れども、この手を離したら、僕は風船を失う。僕をここに置いて風船は行っていまう。
それを恐れて、僕はさらに固く手を握りしめた。
 幼かりし日。僕は小遣いをはたいて風船を買った。思えばその風船も黄色だった。
僕は目を輝かせ、微笑みをこらえきれなかった。なぜならば、その風船は妹のために
買ったのだ。入院している二歳年下の妹のために。このきれいな風船を見れば、妹は
すぐに元気になるだろう。
 ぼくは風船を手にすると、こらえきれずに走り出した。妹が入院しているのは大き
な病院だが、それほど遠くではない。自分のような子供でも充分歩いて行ける。以前
僕の喘息がひどかった頃に何度も行ったから、場所はよく分かっている。さぁ、早く
妹に風船を届けたい。足が空回りしそうになるほどの思いだった。
 やがて病院が遠目に見えてきた時だった。僕が道路を渡ろうと駆け出した時だった。
「あっ。」
 車が走って来たのだ。僕はぱっと身を引いた。危うくはねられるところであった。
ほっとして気付くと、僕の手に風船は無かった。空高く舞い上がっていく風船を僕は
茫然と見上げていた。翌日、妹は死んだ。
 今にして思えば、そもそも妹はICUに入っていて、意識も薄弱だったから、風船
を届けるなど無理なことではあった。しかしながら、幼い僕にそんなことが分かろう
はずも無かった。そして、風船を届けられなかったことが、ひたすら悔やまれて仕方
が無かった。
 だから、僕はこの手を離すことはできない。この手を離したら、風船が飛び去り、
大切な物がまた一つ失われる。そんなことはまっぴらごめんだ。これは僕の風船だ。
しかし、黄色の花が手を離せと強く僕に訴えてくる。
 妹の分まで。それが僕に科せられたノルマであった。妹が死んだその日から今に至
るまで、ずっと付いてまわるノルマなのだ。妹の分まで頑張って生きる。妹の分まで
勉強して偉くなる。そして妹の分まで幸福になる。これが両親が決めた僕の人生であ
る。
 妹が死んで何年も経ったにも関わらず、両親の口からは妹の名が出る。妹のために、
妹の分まで。僕の成績が思わしくないだけで、妹が悲しむと言われる。
 妹は死んだのだ。僕がエリードになることで、妹に何の得がある。果たして妹の分
とはどれくらいのものか。妹が生きていたら億万長者にでもなるというのか。僕は妹
の代わりにそうならなくてはいけないのか。妹ではなく僕が死んでいたなら、全ては
うまくいっていたのだろうか。
 このノルマをこなさなければ、僕の存在理由は無くなる。僕は無用の長物に過ぎな
くなる。最近、その方向に傾きつつあるようだ。妹の名が両親の口から頻繁に出てく
るようになったのはその表れだろう。
 もはや僕は誰からも必要とされない。両親からも社会からも。僕は何もしてあげる
ことができないのだから。それにも関わらず、僕はありとある人々の恩恵によって生
きている。それが悲しい。
 どうやら僕は、あの日風船を手放した時に、僕自身の存在価値を失くしてしまった
らしい。
 僕は風船をじっと眺めた。つやつやとした風船の表面は僕の顔を写し出した。これ
が僕。僕と僕は見つめ合った。お互いに目の奥を見つめ合った。
−−そう。これが僕。でもきみは分かっていない。
 誰の声かということを疑問に感じる暇は無かった。僕は僕の手からひもを伝わって
風船へと流れ込んで行った。僕は気体となって風船の中にいた。そして、主を失った
僕の体は力無く手をゆるめた。僕を内包した黄色い風船は飛び立った。
 黄色い花が一段と輝いた。僕を見送っているのだ。




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