#3722/5495 長編
★タイトル (SND ) 97/ 1/26 12:26 (104)
風船 2 赤尾充哉
★内容
見下ろすと僕の肉体が見える。先程と同じように怠惰に辺りを眺めているようだが、
その中にはすでに僕の意志は無い。正に空気の如き僕自身はその宿る身体をこの風船
に変えたのだ。即ちこの風船は僕なのである。しかし、風船というものはなかなか自
分の意志では動きにくい。ただ、僕の「もっと高くへ。」という思いがこの風船を上
昇させるだけだ。
差し当たって、まず見るべきものが僕にはあった。鳥は美しいか否か、この身体な
らそれを確かめることができる。やがて上昇し続けると、突然僕の目の前に一羽の鳥
が姿を現した。丸い眼は縦長の瞳を有し、その眼光は光の矢のように鋭く、ばさばさ
と力強く悠然と羽撃く翼は恐ろしく大きい。おおよそ街の上空には似つかわしくない
野性的な鳥だ。ともすると人の子すら喰ってしまうやもしれない。そして、この鳥は
黄色い眼で僕を捉えたまま、僕の前に留まっている。美しいか否か、そんな問題は僕
の頭から消え去っていた。どこかへ行ってくれ。その鋭い眼光でこの風船が射抜かれ
割れてしまおうものなら、僕は死んでしまう。しかし、否応なく鳥はそこにいる。そ
して、僕を凝視し続けている。
しばらくその状態が続いたその時だった。鳥の声がはっきりと聞こえたのである。
「お亡くなりになりました。」
その瞬間、僕の血の気がひいていくような感覚を覚えた。そして、全ての、ありと
あらゆる物が、鳥の黄色い眼に吸い込まれて行った。僕なる風船もまた同様に、水が
渦を巻くかのような流れに乗って吸い込まれて行った。
「お亡くなりになりました」医師の口調は淡々としていた。母はその言葉を聞くや否
や、倒れそうになるのを夫の腕にしがみついて耐えながら、声を上げて泣き出した。
父は妻の肩を抱き、ひたすら黙っている。薄暗い夜の病院の片隅だった。「一度目の
手術がほぼ成功し、回復の兆しを見せていました。我々もこれなら大丈夫と胸を撫で
下ろしていたその矢先に……」医師が話している言葉は全て母の泣き声に掻き消され
ているような気がした。だがその一方で、彼らの一挙一動が、指を少し動かしたりす
るほんの些細な動きまでもが、はっきりと音として聞こえた。そして、涼しい夜風が
そういった音をどこかに運び去って行く。僕はその夜風が入り込んでくる窓の側に立っ
ていた。父母の遣る瀬ない思いから守ってくれる風の陰に僕は隠れていたのだ。そし
て、父母から目を反らし、窓の外を見ていたのだ。
その時、ビルの明かりが夜を侵食している中で、一際明るく輝く丸い物体を僕は発
見した。それは空を浮かんでいて、風にゆっくりと流されていた。しかし、それとて
も微々たるもので、やはりほとんど静止しているに等しかった。そしてその正体を知
ることは、僕にとって決して難しいことではなかった。即ち、それは異様に輝く黄色
い風船だったのだ。同時に僕は一種の恐怖と共にはっとなった。無意識的にその風船
は昨日自分が買ったものだと思ったからだ。僕は視線を反らさなかった。遠い空のほ
とんど点のようでさえある風船は、鋭い光を発しながら僕の視界に留まっていた。
背後からポンと背中を叩かれた。「お前が気にすることはない。お前が悪いんじゃ
ない。悲しい顔をしていてはいけない。誰よりお前が悲しい顔をしていてはいけない。
お前が悪いんじゃない。そうだ、お前が悪いんじゃない。」僕が初めて聞く父の弱々
しい声だった。だが、その言葉を誰に向けているのかは、あまりに不安定だった。僕
に言っているのは事実なのだろう。しかし、父の声は口の中でこもっていた、自分に
言い聞かせているかのように。或いは又、声を出しても届かない妹へと向けられてい
たのかもしれない。だから、その言葉は確固とした明瞭さを以て僕に伝わることはな
かった。父の声は僕を通り過ぎて窓の外に漏れていくばかりだった。
母が僕を背後から抱きしめた。それでも僕は風船を見ていた。だが、どこからとも
なく見たこともない大きな鳥が風船へと近づいて来、その嘴で風船のひもをくわえる
と、風船を何処かへと連れ去ってしまった。
それがこの鳥だったのだ。今僕の目の前にいる鳥である。何故今になって風船と化
した僕の目の前に現れたのであろうか。僕を何処かへと連れ去ろうというのか。鳥は
何も語らない。
ふとアクマという言葉をぼんやりと思い出した。なるほど、この鳥の恐ろしい姿と、
僕を圧する強い視線は、悪魔と呼ぶにふさわしいかもしれない。しかし、悪魔とは何
であろうか。
アクマはテンシの反対語であるということもぼんやりと思い出した。では、天使と
は何であろうか。天使の絵を見たことがある。それによれば、天使は翼を持っていた。
しかし、僕はそんなものを見たことはない。誰かが見たことがあるのかもしれないが、
僕が見たことが無い以上、僕とその人の間の客観としては成り立たない。おおよそ、
多くの人は見たことが無いだろうから、この世界に確実に存在するものとは言えない。
しかし、もしそれが僕達の認識し得る世界と異なる世界のものであれば、その世界
のもの同士の客観としては存在するかもしれない。それを僕達が無理に認識しようと
する際に、絵の天使のイメージをもとに形成された像を見るのだろう。
とすれば、僕にはやはり天使は見えない。僕の心には天使などいないのだから。絵
で見た天使は僕にとっては天使にはなり得なかったし、他にも天使として認識される
ものは無かった。だから、僕の目の前に天使がいたとしても、僕はその像を形成する
ことはできない。
では、鳥よ。お前は一体何なのだ。
「キィーッ!」鳥が鳴き声を上げた。今までゆっくりと羽撃いていた鳥は、力強く羽
撃き始めた。そして、僕が下方に垂らしているひもをその嘴でくわえ、僕を連れて空
を進み出した。やはりぼくをどこかへ連れ去ろうというのか。
そうして僕が連れて来られたのは、ある路地だった。片側は中小企業の事務所が雑
居するビル、片側はマンションに面している。しかし、僕がそれを見ている間に、い
つの間にかそれらは消え、いずれも草花の繁る空き地になっていた。そして、そこに
は幼い僕と妹がいた。
僕らは何やら花を摘んでいるらしかった。それをどうするなどということは考えも
せず、ただひたすらに摘んでいるらしかった。「お兄ちゃん、これきれい。」と妹が
一輪の花を摘めば、「こっちのほうがきれいだよ。」と言って僕は別の一輪を摘む。
そうこうしているうちにどうやら僕はこの空き地に飽きてしまったらしく、道路をは
さんだ反対側の空き地にじっと目を向けていた。
だめだ、やめろ。
やがて、妹がそれに気付いたようで、「どうしたの?」と聞いてきた。僕は反対の
空き地を指差して、「あの黄色い花きれいだね。」と言った。
やめろ、やめるんだ。
「私とってくる。」妹はそう言って駆け出した。
やめろー!
そして、幼い僕と風船と化した僕の二人の目の前で、妹は宙を舞った。車のタイヤ
が地面をこすって泣いた。妹の体は反対側の空き地の前に転がった。僕が指差した黄
色い花は赤い血で鮮やかに染められた。
ふたをしていた記憶が一気に僕に襲いかかった。それらを処理しきれず、僕の体で
ある風船は破裂せんばかりだった。
僕はずっと、僕自身が妹を死に追いやったと僕を責め、同時にそれから逃げ続けて
いた。あげくの果てには、親に科せられたノルマなどとこじつけ始め、全ての罪を妹
に転嫁させていたのだ。
そうやって今まで次から次へと溜め込んできた罪を、僕は今初めて認識した。僕は
一体どうすればいいのだろう。鳥よ、教えてくれ。
しかし、鳥はもういなかった。代わりに何かが現れた。初めはよく分からなかった
が、やがてその姿がはっきりと見えてきた。僕の前に現れた妹の姿をしたそれが天使
であるということを、何ら疑うことなく、そして即座に認め、確信した。
そして、その天使は手を振り上げた。そこには一本のナイフが握られていた。それ
を風船である僕の表面に、そっと撫でるように走らせた。すると、風船は破裂するで
もなく、薄いフィルムのようにふわりとめくれあがった。そして、僕はそこから大気
に溶け出して行った。とめどない優しい幸せな空気が僕を包んだ。
そういったわけで今日、風船を買った。黄色のきれいな風船だった。