AWC ヴォールの紅玉(20)       青木無常


        
#3476/5495 長編
★タイトル (GVJ     )  96/10/ 6  17:47  (200)
ヴォールの紅玉(20)       青木無常
★内容
 ――シェラは、ぞっと背筋をふるわせながら、背中を岩壁におしつけるようにして
足を動かした。
 飢餓だ。
 妖魔マラクの双眸には、まごうかたなき飢えが、うごめいているのだった。
 うす汚れた包帯に荒く巻かれた右上腕が、痛覚と屈辱の記憶に耐えかねるようにひ
くひくとふるえている。
 残った三本の腕の拳は、子どもが店先で手に入れることのできぬ菓子をでもながめ
やっている時のように、ひらいては閉じてをくりかえしていた。
 見ひらいた両の眼には、シェラが意識をとり戻したことに対する認識などかけらも
うかんではいない。
 シェラを、人格をもった存在としてはとらえていないからだった。
 強烈な飢えをみたすことのできる、この上なく魅力的な食餌のたぐいとしか見てい
ないのである。
「あ……わたしを殺しては、まずいのではありませんか?」
 恐怖にふるえながら、シェラはいった。
 マラクはなおも、言葉など理解できぬかのように飢えにみちた視線をシェラにすえ
ていたが、やがていかにもめんどうそうな、気怠げな口調で答えた。
「かも、しれぬ」
 と。
 ぞっとした。
 その程度のことは想像しているらしい。
 想像していながら、たいしたことにはならぬと考えてもいるようなのだ。
 さもあろう。
 深山の洞奥深く巣くう恐るべき妖魔どもにとって、生け贄の用にさえ足らぬ少女の
存在など、さして深刻な問題ではあるまい。
 飢えに耐えかねて妖魔の一匹が貪ってしまっても、あるいは思い起こされることす
らないほどの捕虜でしかないのかもしれなかった。
 シェラは、壁づたいに後退した。
 マラクは焦るでもなくあいかわらず惚けたように飢えでみたされた視線をゆるゆる
とシェラの後退にあわせて移動させる。
 泉のすぐわきまで来て、後退する先を喪失した。
 痴呆のような表情でそんなシェラを見まもっていたマラクが、ふいに、にたあ、と
異様な笑いをうかべた。
 ずしり、と、余裕たっぷりの足どりで一歩をふみだした。
「来ないでください!」
 叫んだ。
 叫びながら反射的にふところをまさぐっていた。
 奇跡を体感する。
 短剣だ。
 ふところのかくしにつねに忍ばせている護身用の短剣が、とりあげられもせずにお
さめられていたのである。
 ふるえる手でとりだし、鞘からぬいた。
 研ぎたてのように鋭い光を放つ刃が、ぎらりとむき出された。
「来ないでください」
 もう一度、決然とマラクを見かえしながらくりかえす。
 腰を低くして両手で短剣をかまえ、対峙した。
 青黒いい舌を、マラクは形のいい厚い唇の上に這わせた。
 異様な眼光を放つ双の眼には、シェラのかまえた凶器など意識したそぶりさえ見え
ない。
「来れば、刺します!」
 いわずもがなの脅迫を口にしたのは、マラクがいっさいのためらいなしに迫ってく
るだろうことを確信していたからだ。
 その確信どおり、隆々とした筋肉に全身を鎧われた官能的な肉体の女妖魔は、岩場
をふるわせる重量感をまきちらしながら一歩、また一歩とシェラに向けて前進する。
 眼前に立った。
 シェラは目をかたくとじたまま、力まかせに短剣を突きだした。
 かたい感触がすぐに刃の前進をはばんだ。
 目をひらく。
 マラクは、避けてさえいなかった。
 碁盤目状のみごとな腹筋のあいだに、いとも無造作に短剣の刃をのみこんでいた。
 強靭な筋肉がそれ自体強力無比な鎧と化して刃の侵入さえ許さないのだ。
 くふう、と切なげなため息をつきながらマラクはめんどうくさげに突きたてられた
刃をはらう。
 かん、と岩を打って短剣は泉に飲まれた。
「あっ」
 逃げようとしたところを、腕をつかまれ吊るしあげられた。
 苦鳴をあげつつ、身をひねるが何の役にもたってはいなかった。
 妖魔が、恍惚の表情に野性的な美貌をうっとりとゆがませながらシェラを見つめた。
「おまえの血はうまそうだ」
 吊るしあげたまま四臂のふたつまでを駆使してシェラのふっくらとした頬を愛撫す
るようになであげ、ふるえる声でそう告げた。
「はなして」
 もがきながらシェラはいったが、もとよりそんな懇願が聞き入れられるはずさえな
い。
 左一臂がシェラの胸もとにのび、その上衣をつつつと引き裂いていった。青い宝石
がころがり出、その下から白い肌があらわになっていく。
「うまそうだ……」
 妖魔はくりかえし――舌なめずりをしながらぐい、と手を後方に引いた。
 殺される、とシェラは確信した。
 きつくとじた瞼の奥で、渦巻く混沌が荒れ狂い、死への恐怖だけがくっきりと際だ
っていた。
 それが――召還の役を果たしたのかもしれない。

 追手をさけて必死に逃げつづけていたアリユスが、ふいに目をむいた。
 暗黒の迫る山間の暮空に、黒い不吉な影が走ったように感じたからだった。

 ダルガもまたその瞬間、猛悪な追撃者の存在を完全に失念していた。
 影は、剣士の背筋を氷のように刺激した。

“青の洞窟”を遠望する位置で、ザナールの大海の彼方からわたってきた法師もまた
思わず、虚空に視線を走らせていた。
 黒い貴公子の影はまぼろしのように淡く、そして圧倒的に邪悪に、法師の視界をよ
ぎっていった。

 洞奥にうめくサドラ・ヴァラヒダは驚愕に死へと直結しつつある傷の痛みさえ忘れ
ていた。
 レブラスは得体の知れぬ悪寒をおぼえてうめきをあげ、シャダーイルは異様に光る
双眸をぎらりとさせて洞牢の方角に向ける。

 そしてマラクは、眼前にかかげた娘の背後に、異様な存在がまぼろしのようにすべ
り寄ったのを感じて、悲鳴をあげていた。
 まぼろしのように実体をもたないのは、それが現界とは遠くへだたった遥かな高み
に棲む存在であるからにちがいない。
 それでいて、これほどまでの圧迫感を放っているのはなぜなのか。
 影さえ視認できないままに、異様な眼光を感じてマラクはぼんのくぼから抑えきれ
ぬ恐怖感が地獄の炎のように爆発するのを感じていた。
 己があるじ、ヴァラヒダにさえ感じたことのないほどの恐怖であった。
 絶叫した。
 絶叫しながら、むき出しにした両眼で目撃した。
 ついさっき自らの爪で裂いたシェラの上衣の胸もとに、あざやかな黒の痣がうかび
あがっているのを。
 否。
 それは痣ではなく――紋章であった。
 鋭利な刃を組み合わせたものとも、また可憐で危険な刺のある花とも見える、奇妙
な様式美にみちた紋章。
 その紋章から、地獄が噴き出してきた。
 地獄――としか形容できなかった。
 あらゆる苦痛、あらゆる悲嘆、あらゆる絶望。
 およそ生あるものにとって最悪のあらゆるものが、その紋章から一気に噴き出して
きたのだ。
 叫びながらマラクはシェラを放り出した。
 泉に、シェラの小柄な身体がしぶきをあげて投げこまれた。
 ひいい、ひいいとぶざまきわまる悲鳴をあげながらマラクは、逃げることさえでき
ぬように四臂で頭部を抱えこんでその巨体を消えてしまえとでもいいたげにちぢめて、
うずくまった。
 水中から跳ね出ながら呆然とシェラはマラクのそんな惨状を見やり――ついで、そ
の瞳に恐怖と、そして哀しみをはしらせた。
 異形の気配はすでに洞窟を去っていた。
 すべてはほんの一瞬のできごとにすぎなかったのだ。
 それでもシェラは、自分の身に何が起こったのかわかっていた。
 少女の生命の危機を救いにあらわれた、気まぐれな救世主の正体が何者であるかも。
 それこそがシェラの生涯につきまとう黒い影の正体なのだ。
 少女は唇をかみしめて妖魔の醜態をながめやっていた。
 あわれみが、その瞳にうかんでいた。
 が、いつまでもそうしているわけにもいかなかった。
 あわてて泉から身をひきだし、
「帰ります」
 頭を抱えてぶるぶるとふるえる妖魔に向けて律儀に宣言すると、入口に向けて歩を
ふみだした。
 結界のあったあたりで一瞬躊躇したが、意を決して一気にかけぬけた。
 先刻感じた悪寒の抵抗はまったくなくなっていた。
 救い主の力によるのであろう。
 シェラの胸に、刻印を刻みこんだ魔界の存在だ。
 地獄の公爵スティレイシャ。
 それが、その存在の名であった。

    17 逃亡と追跡

 どこをどうかけめぐったのかはさだかではない。
 無我夢中で、勘だけにたよって出口をさがした。
 ひどく迂遠な道をあちこちさまよったような気がしたが、案外すんなりと脱出する
ことができたのかもしれない。
 ふいに洞窟からぬけ出して外界にまろび出ていた。
 岩壁にこびりついた青い燐光になれた目に、上空にうかぶティグル・イリンの青と
銀の冴えざえとした光は奇妙にまぶしく感じられた。
 月光をあびながらシェラはしばし、逃走路を検討する。
 すぐに、下に降るしかないだろうと決めた。
 音を立てぬよう用心してかかるべきか思案し、それよりも一刻もはやくこの場を離
れるべきだと結論して走り出した。
 下生えをかきわけて、道なき道を降りつづける。
 幾度となく根や草や石に足をとられて転倒した。
 ずいぶんと下ったように思えて、樹間から天に視線をやった。
 赤みのかった半月が東の方角にあらわれている。
 息をつきつつ斜面に沿って腰を降ろし、草に背をたたきつけるようにして寝ころが
った。
 樹間からさし染める月光を全身でまだらに受けながら目をとじる。
 荒れていた息がようやくのことでととのってきたとき、シェラは四囲を虫の音がみ
たしていることにはじめて気がついていた。
 一帯から生の季節が去ろうとしているのだった。
 胸に手をやり、青い宝石を握りしめた。
 うかんでいた痣――紋章は、いまも黒々とその胸の中央に刻まれているはずだった。
 シェラーハ――と、とじた瞼の裏で忘れていた顔が呼びかけた。
「イアド兄さま……」
 力なくつぶやきながら、シェラは腕で目をおおいつくした。
 涙がにじんでいた。
 シェラーハ、おまえに守り神を与えてやろう。
 瞼の裏、遠い記憶の中で一の兄がやさしく微笑みながらそう告げた。
 その瞳にひそむ邪悪な歓喜に、記憶の中のおさないシェラが恐怖に身をふるわせる。
「兄さま……やめて……こわい……」
 昔日のままたどたどしい口調でシェラは泣きながら口にした。
 だいじょうぶだ、と記憶の中の兄がいう。
 狂気の笑いを満面にうかべながら。
「どうしてこんなことをするの……」
 涙を流しつづけながら、力なくつぶやいた。
 そうしてながいあいだシェラは、斜面にたおれこんだまま低いおえつで肩をふるわ
せつづけていた。
 ふと気がつくと、四囲を埋めつくしていたはずの虫の鳴声がすっかりなりをひそめ
ていた。
 森が、しんと静まりかえっている。
 異様な静けさだった。
 おえつになおも肩をふるわせながらシェラは涙をぬぐい、上体をおこして周囲をな
がめわたした。
 月あかりにてらされておぼろにうかぶ闇の中にどんな異変の兆候も見出すことはで
きなかった。
 シェラは首を左右にふりながらごしごしと目頭をぬぐい、立ちあがった。
 上方をふりかえる。
 気配を感じたような気がしたのだ。
 目をこらした。
 何も見えない。
 だが――音が聞こえた。




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