AWC ヴォールの紅玉(21)       青木無常


        
#3477/5495 長編
★タイトル (GVJ     )  96/10/ 6  17:51  (200)
ヴォールの紅玉(21)       青木無常
★内容
 ざざ、ざざ、と、何かが下生えをふみこえて移動している音だった。
 夜行性の獣であるのかもしれない。
 だが、シェラにはそうは思えなかった。
 唇をかみしめつつ、首からさげた宝石を握りしめた。
 ほかに武器になりそうなものは何もなかった。
 降りはじめる。
 背後の音はとぎれながらも次第に近づいてくるように思えた。
 次第に息が荒れる。
 鼓動がはやくなる。
 疲労のせいか、不安と恐怖のせいなのか。
 ふいに、眼前に暗黒が広がった。
 ぎくりとして、ふりかえりかけた。
 遅かった。
 足場がふいにとぎれて、シェラの全身が大きく宙におよいでいた。
 驚愕と焦慮に脳内を焼かれながらシェラは反射的に手をのばしていた。
 草をつかむ。
 ぶちぶちといともたやすくちぎれるだけだった。
 悲鳴をあげながら宙に手をふりつづけた。
 崖の端に、かろうじて手がかかった。
 落下がとまる。
 からころと小石が斜面をころがって宙に投げだされる音がした。
 水音はしばらくしてから、はるか下方からひびいてきた。
 耳をすましてみると、どうどうと流れ下る滝の音がかすかに聞こえる。
 いずれにせよ、相当な高さだろう。
 ちらりと下方を見やってすくみあがり、目をとじた。
 這いあがろうと、足場をさがす。
 足は宙を蹴るばかりだった。
 ようやく見つけた足場に力をこめると、ずるりと下方にずり落ちた。
 がらがらと音がして、見つけた足場はいとも簡単に崩壊した。
「たすけて……」
 シェラは弱々しく口にした。
 直後、がっ、と、手首をつかまれた。
 ひ、と小さく喉を鳴らす。
 赤黒い異様な顔が、シェラをながめおろしていた。
 落書きのような造作の崩れた、不気味な顔だった。
 ぶよぶよとしたおぞましい感触が、つかまれた手首から伝わってくる。
 悪寒が、背筋をかけぬけた。
 離して、と、もがこうとして、かろうじてそれだけは思いとどまった。
 この状態で離されては、崖底めがけてまっさかさまは必至だった。
 おぞましさをこらえて固く目をとじる。
 ある意味で、追手がレブラスであることは僥倖であるのかもしれなかった。
 マラクは、ヴァラヒダの意向を無視してシェラをその毒牙にかけようとしていた。
 シャダーイルはいまだに得体がまったく知れない。
 レブラスなら、ほかの二匹の妖魔にくらべるとそのおぞましさもひとしおだが、す
くなくともヴァラヒダの命令にはしたがっていた。
 洞牢にシェラを連行する際にも、食欲その他のいっさいの関心をシェラに対して示
すそぶりさえ見せなかった。
 つれ戻されるだろうが、とりあえずこの場で墜死することや化物に喰われて果てる
ことだけはさけられそうだった。
 力強く、シェラのからだが子どものようにひきあげられた。
 が――いつまで経っても足に地がつかない。
 いぶかしく思って、シェラは目をひらいた。
 レブラスの巨体に吊るしあげられて、地面ははるか下方だった。
 肉塊をこねあわせたような異臭を放つ妖魔の顔が、じっとりとした視線を吊るしあ
げたシェラの顔にあわせていた。
 洞牢で、マラクがうかべていたものと同じ種類のものを、シェラはその視線に感じ
た。
 飢餓である。
「おまえ」
 と、腐汁がごぼごぼと泡立つような異様な声音が口にした。
「おまえ、剣をもっているか」
 背筋を悪寒がはしりぬける。
 老タグリの屋敷で、ダルガに向かって切れ、と要求していた妖魔のおぞましい姿が
思い出された。
 痛い痛い痛いとわめきながらこの肉塊の化物は、歓喜と恍惚をその醜貌にうかべて
いた。
 シェラはよわよわしく首を左右にふってみせた。
 レブラスの顔に失望がうかぶ。
「では、おまえのその歯で噛め」
 すぐに化物はそういった。
 理解できず、シェラは一瞬目をむいていた。
「おれの肉を噛め」
 もう一度、妖魔はくりかえした。
 おぞましさに、シェラは喉の奥で悲鳴をもらしながら固く目をとじた。
 必死になって首を左右にふりつづけた。
「噛めんのか」
 心外だとでもいいたげな大仰な口調でレブラスはいった。
 ひどい失望が、その人間離れした容貌にありありとうかんでいた。
 シェラは涙をにじませながら、
「いや……」
 と口にした。
「噛めんのか」
 もう一度化物は口にし、異様な腐臭をともなった落胆の吐息をついた。
 そしていった。
「なら、おまえもおれの中に入れ」
 ぎょっとして、シェラは目をむいた。
 意味がわからず化物の顔を凝視する。
 化物はくりかえした。
「おれの中に入れ。ひとつになろう」
 いいながら、泥のかたまりのような異様にむくむくとした手を、己が胸にかけた。
 そしていきなり――自分で自分の胸の肉を、ばりばりと引き裂きはじめた。
 シェラが悲鳴をあげた。
 悲鳴をあげながら激しくもがきまわった。
「おれの中に入れ。ひとつになろう」
 肉塊の化物がうれしそうな口調でくりかえしながら、みずから刻みこんだ傷口をが
ばがばと左右にくじり広げはじめる。
 息がとぎれるまでシェラは叫び、とぎれた息を肺いっぱい補充してさらに叫んだ。
「ひとつになろう。気持ちがいいぞ」
 化物の顔がずずずと迫った。
 ぺたりと、頬がおしつけられる。
 ぞわぞわと、異様な感触がそこから伝えられた。
 無数の芋虫がぶよぶよとうごめいているような感触だった。
 シェラはさらに悲鳴をあげた。
 身をもがかせた。
 何の効力もなかった。
 ぐふう、と、笑い声らしき異様な声音が接触した部分からシェラの頭蓋を反響させ
た。
「おまえとおれはひとつになる」
 感極まったように恍惚とした口調で、レブラスはいった。
「苦痛も快楽も、倍になる。気持ちがいいぞ」
 シェラは叫んだ。
 恐怖に叫びつづけた。
 全身を抱きしめられた。
 接触した部位から、ぞろぞろと何か異様なものが盛り上がってくる。
 肉だった。
 赤黒い粘液をしたたらせた腐肉のようなものが、ぞわぞわと増殖してシェラの小柄
なからだをのみこもうとしているのだった。
 喉が裂けるほど絶叫しながら狂おしく身もだえたが、化物の膂力の前にはまったく
無力でしかなかった。
 絶望が脳内を沸騰させた。
 恐怖と悪寒だけが全身をかけめぐる。
 これがわたしの死なのか、と思った。
 それとも――死ではなく、永遠の苦痛のはじまりなのか、と。
 が――
 ふいに、シェラはどさりと投げ出されていた。
 あまりにも突然の解放に事態を理解できず、シェラは呆然と周囲を見まわした。
 何かがいた。
 何か、異様なものが。
 ティグル・イリンの宝玉の光に照らされて、何か無数の、小さな、動物のようなも
のがシェラと、そしてレブラスをとりかこんでいるのだった。
 闇にまぎれて声ひとつ立てず囲むそれらの影に、シェラは視線をこらした。
 銀の、鈍色の光沢が月光に映えていた。
 無数に。
 樹間にわきだしたかのように、その異様なものはひっそりと闇の底にたたずんでい
る。
 金属の太い棒を螺旋状に渦まかせたような奇怪な胴体。
 その胴体から、まるで戯画か何かのように生え出ている、子どものそれのように華
奢でつくりものめいた四肢。
 それが直立する姿は、まさに玩具のようであった。
 見たこともないようなしろものであった。
 その異様な異生物が、無数にシェラたちをとりかこんでいるのである。
 恐怖にすくみあがりながらシェラは、レブラスの醜貌に視線を戻した。
 驚愕した。
 へたりと、腰をついていた。
 全身をぶるぶるとふるわせながら、いやいやをするように首を左右にふっている。
「来るな」
 泥を煮たような異様な声音にも、あきらかにおびえがあふれかえっていた。
 尻で、異生物を避けるようにふらふらとあちこちにいざろうとしている。
 どちらの方向にも、異生物はいた。
 ――ただ一方向をのぞいては。
 妖魔はいやいやをしながらその一方向にむけてずず、ずず、といざり退き――
 異生物よりは落ちるほうがましだ、とでもいわんばかりにまるでためらいなく、闇
にしずむ崖下めがけて一直線に飛びこんでいた。
 巨大な肉塊がゆっくりと落下していった。
 悲鳴ひとつあげなかった。
 シェラはその一部始終を、呆然とした面もちでながめやっていた。
 あのおそるべきヴァラヒダの魔を、これほどまでに恐怖させるもの。
 シェラは、闇に消えたレブラスから視線を離して異生物へと向けた。
 身長はシェラの腰ほどしかない。
 子犬ほどの大きさ、といったところだろう。
 四肢もよわよわしく、それほどの力を秘めているようには見えなかった。
 数は脅威にちがいないが、レブラスのような巨魔がおそれるべき、というほどでも
ない。
 得体の知れない金属光沢を放つ螺旋状の胴体はたしかに異様だったが、見ているだ
けではそれにどんな力があるのかないのか、さだかではなかった。
「あの……」
 とまどい、不安と恐怖に心臓をわしづかみにされながら、シェラは口にした。
「どちらさまでしょうか……?」
 わけのわからない間の抜けた質問にも、異生物は惚けたように立ちつくしたまま、
返事をするどころか身じろぎひとつしなかった。
 とまどい、どうすればいいのか判じかねてシェラはもう一度「あの……」と、異生
物のひとつに呼びかけようとした。
 そのとき――
 闇の奥から笑い声がひびいてきた。
 ころころとやわらかいものがころがるように心地よいひびきの、男声の笑い声だ。
 どう反応すべきかますますわからなくなって、シェラは両手を胸の前で組みながら
笑い声のする方角に視線を向けて待った。
 がさがさと枯れ葉の集積をふみしめながら、丸々とした小柄な人影が樹間からあら
われた。
 闇に判然とはしないが、初老の人物であるようだった。
 好々爺然とした柔和な笑顔を満面にうかべながら、ちょこちょことした足どりで近
づいてくる。
 足が極端に短かった。
 樽のような短躯に異様なほど短い手足がちょこちょこと動くさまは、周囲をとりか
こむ異様な生物と同様、どこか奇妙な、玩具めいた違和感をかもしだしていた。
「おもしろい。まったくおもしろい」
 と、その男が快活に笑いながら言葉を発した。
「まったくおもしろいお嬢ちゃんがいるものだ。生きていることは楽しいよ。おまえ
さま“青の洞窟”から逃げてきたのだね?」
 笑いながら、その奇妙な丸い老人はそう問うた。
 とまどいながらうなずくシェラに、そうかそうかと何度もうなずきかえしてみせる。
「それでは、そこで何を見て、何を知ったのかをくわしく話してもらえないかい?」
「いいですよ……」
 と、とまどいながらもシェラはうなずいてみせた。
 そうか、と、肉づきのいい丸顔の人物はにこやかに笑いながらいった。
「よかったよかった。この山にふみこむやからはよほどひねくれた者ぞろいなのか、
すなおに問いに答えてくれる者がなかなかなかったからな。ありがたいよ、お嬢ちゃ
ん。忠実で有能な、わが息子たちをあんたのような可憐な娘にたからせるような真似
は、したくはないからなあ」
 にこやかに笑いながら口にする老人のセリフに、どことなく不気味なものを感じて




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