#3131/5495 長編
★タイトル (AZA ) 95/ 8/30 8:12 (200)
まだ死なれては困る 4 永山智也
★内容
2 裏と表
『彼』は呆然としていた。
「……」
彼の目の前、タイルの床には、一人の女性が横たわっている。
「……このままにはしておけない」
次の行動に移るための起爆剤のつもりか、彼は決意を声に出した。
「どこかに運ばないと」
彼は倒れている女の手首を取ってみた。
冷たい。
先ほど、脈がないことは確認している。だから女がすでに息絶えていると分
かっている。それでも、この冷たさには、思わず鳥肌が立った。
彼は場所を変えた。女の足をしばらく見つめてから、思い切ってその両足首
の辺りを握ってみる。
彼の手に伝わってくる冷たさは同じだった。だが、女がストッキングをして
いるせいか、精神的にかなり違う気がする。これなら何とか……。
「とりあえず、このまま引きずって行くしかないか」
ため息が出た。ここでようやく、彼は言葉を口に出さなくなった。
(しかし、どこに隠す? 遺体が少しでも傷まないような、それでいて人が滅
多に近寄らない場所……)
彼は思いめぐらせた。
(邸の外に運び出せるだろうか? 真夜中になるのを待って、車に移して……
できないことはないみたいだが……もしも、誰かに見られては、元も子もない。
だいたい、車で運んでいるとき、万が一、警察の検問に引っかかりでもしたら、
一巻の終わりじゃないか。これはやめた方がいいかもしれない)
彼は他の手法を模索した。
(邸の敷地内に埋めるか。いや、だめだ。発見されたときに言い逃れできない
ことが第一。それにやはり、埋めているところを誰かに見られる危険性がある)
彼は頭を大きく振り、その考えも追い払った。
(このままにしておく訳にはいかなない。いずれ誰かが訪ねてくるのは間違い
ないんだからな。将来、遺体が発見されることは避けがたいが……何かないか)
すっくと立ち上がると、彼は懐中電灯を持ち出してきた。邸の中の探検を始
めるつもりなのだ。
彼は、この大きな邸−−自分の物ではない邸−−の全てを、隅々まで見て回
ったことがなかった。
希望はある、と思い込むことにして、彼は未だに足を踏み入れたことのない
場所から始めた。
横澤佳子は、姉の家の前で、一つ、大きく深呼吸した。
四月から、姉の邸で暮らす人間が、一人増えていた。当然のごとく、その人
物は西山誠一。
(どうせまた、いちゃいちゃしているところを見せつけられるんだ。せいぜい、
頭を冷やしておかないと)
思いながら、彼女は呼び鈴を鳴らした。
「どちらさん?」
西山誠一の声が、スピーカーを通して聞こえてきた。いつもの陽気さがなく、
年寄りめいた渋い響き。
「西山さんですか? 佳子です。お邪魔しに来ました」
微妙なアクセントで明るく言って、佳子は返事を待った。
「ああ。ちょっと待ってて」
やがて、玄関が開いた。元々、鍵はかかっていなかったらしい。
「いらっしゃい、佳子ちゃん。と言っても、僕もまだ、お客さん気分が抜けき
っていないんだけどね」
出迎えてくれた西山の声は、いつもの調子に戻っている。
いつもは姉が出迎えるのに。少しだけおかしく思いつつも、佳子は勝手知っ
たる邸に上がり込んだ。
「邪魔ですか?」
西山の背中について行きながら、佳子はほんの意地悪のつもりで聞いてみた。
無論、姉との仲を示唆している。
「いや」
短い返答があった。気のせいか、相手は、また重たい口調になってしまった。
いつもの冗談めいたやり取りを期待していた佳子は、戸惑いを感じた。継ぎ
足す言葉が見つからない。
「あの……」
「あ、ごめん。実はちょっと寂しくて」
客間に入り、テーブルを挟んで腰を落ち着けたところで、西山はようやく笑
みを取り戻した。
「寂しい?」
おかしくなって、思わず、佳子は吹き出した。婚姻届こそ出していないもの
の、新婚同然の旦那の方が、寂しいとは全くもって似つかわしくない。
「変ですよ。……それで、姉は?」
「ん、今はいないんだ」
「え?」
一瞬、早くも喧嘩したかという考えが、佳子の脳裏をよぎった。しかし、そ
れはすぐに打ち消される。何故なら、喧嘩したとしても出て行くのは、目の前
にいる旦那さんの方なのだ。
「何かあったんですか?」
佳子の心配顔を見て、反対に心配してくれたのだろう。西山は顔の前で大き
く手を振った。
「そんな顔しなくていいよ。別に大したことがあった訳じゃあ、ないんだ」
他人を安心させる表情というものを心得ているらしい相手は、さすがに役者
だった。
「君の姉さん、独身の間にやりたいことをしたいって、ちょっと旅行にね」
「旅行……」
「そう。僕はその間、一人寂しくお留守番という訳さ」
西洋の俳優のように、大げさに肩をすくめる西山。
佳子は、気になって質問を重ねた。
「旅行って、どこに行ったんですか?」
「正確には分からないんだなあ、これが。ぶらぶら、色々な土地を回りたいと
行っていたからねえ」
「まさかとは思いますけど、外国じゃないんでしょう?」
「はは、それはないよ。そこまで浪費はできない」
笑う西山。佳子も、とりあえずは落ち着けた。
「西山さんが一緒に行かなかったのは、やっぱり、次の公演の準備なんかでお
忙しいからですか?」
劇団「灯火」は、次回、四月の下旬から五月の頭にかけて公演を行うと、佳
子は聞いていた。
「そういうこと」
「姉は、いつまで旅行を?」
「さあ、気まぐれだからね、彼女。あ、こんなことは言わなくても、君の方が
よく知っているか」
ちょっとふざけたような口調の西山。
「そりゃあそういう性格ですけど……。せめて、大まかな予定ぐらい」
「帰って来る予定は曖昧なんだ。ただ、公演が終わってから、僕も合流するつ
もりでいるけどね」
それを聞いて、佳子は変に思った。これでは姉は、公演があるときも旅行中
となってしまう。
「じゃあ、姉は西山さんの今度の公演は見ないんですか」
「そうらしい。どうやら、正式な結婚前に、僕が演技しているのは見たくない
ようだよ。いらぬ心配をしてしまうって」
「はあ」
つまり、年下の男が本当に自分のことを好きでいてくれるのか、姉はちょっ
とだけ不安なのだろう。佳子はそう考えることにして、この件にけりを着けた。
「合流するっていうことは、その時点での姉の居場所は、お二人の間で決めて
いるんですね?」
「あ? ああ、もちろんだよ。何だったら、君も来るかい?」
覗き込むようにしてくる西山。
佳子は慌てて首を横に振った。
「いえ、その頃には大学の方が忙しくなっていると思いますから」
「あ、そうだったね。残念だ」
「それよりも、どこで合流する予定なんですか。念のために聞かせてください」
手帳を取り出しながら、佳子は相手を促した。
「うん、長野の方に行くつもりで」
言いながら、西山の方も確認するためだろう、手帳を取り出してきた。
それを見せてもらって、丁寧に写しを取る佳子。
「もしも変更がある場合、紀子から連絡があることになっている。そのときは、
また改めて、佳子ちゃんに伝えるよ」
音を立てて手帳を閉じながら、西山は言い添えた。
「お願いします。あと、姉から他のことで連絡なり手紙なりがあったときも、
お願いしたいんですが」
「もちろん、いいとも。だけど、そんな深刻ぶることないと思うよ。聞いたん
だけど、一回目の結婚前にも、こんなことがあったそうじゃない」
「まあ、そうですけれど」
佳子は仕方なしに肯定した。
(でも……)
反論の言葉を飲み込みながらも、佳子は心の中で続ける。
(あのときは、少し事情が違ったわ。お姉ちゃん、仕事に就くからそれまでの
自由の身じゃなくなるということで、一人旅を楽しんだはずだけど)
何となく釈然としないままではあるが、佳子は視線を西山誠一に戻した。
「ついでに聞いておこうっと。交通手段は何なんでしょう?」
「基本的に線路」
妙な答をよこす西山。
「鉄道ってことですね?」
「そう。で、必要とあれば、船とかバスとかレンタカーとか」
「季節はいいですよね。雪で遅れる心配は、まずないでしょうから」
「そうだね」
そんな当たり障りのない会話を最後に、佳子はお暇することにした。
玄関で靴を履いているとき、佳子はふっと、違和感を覚えた。だが、それが
何なのかは、ぼんやりとしたままで、はっきりとした形をなさない。
「駅まで、送ってあげられたらいいんだけど、あいにく時間がないんだ」
「あ、いいです、いいです。心遣いだけありがたく」
「そう……。じゃあ、またね」
手を振っている西山に、手を振り返して邸を後にした佳子。彼女はしばらく、
考え込んでいた。さっき玄関で感じたのは何だったのか、と。
(うーん……気になるなあ。どこかに目が行ったのをきっかけに、何か閃きか
けたはずなんだけど)
自然と歩く速度も遅くなる。いい加減、立ち止まりそうになったとき、佳子
は目を見開いた。
(あっ! 靴だ……)
結局、考えをまとめるために、立ち止まった佳子。第三者が見ていたら、大
丈夫かと心配してくれるかもしれない。
(お姉ちゃんの靴が並んでいるのが見えて……。お姉ちゃんが旅行用に履き慣
れている、いつものがそこにあったのよ。だから、おかしく感じたんだ)
ほっと一息つく。しかし、これで全てが解決した訳ではない。
(でも、どうしてかしら。西山さんと出会ってからこっち、お姉ちゃんの行動、
変化してきてるし)
また思考に入る。
(今までの旅行は、車を使うことが多かったよね、そう言えば。だったら、今
度は車を使わないんだから、何かファッション系の靴にしたのかしら)
そういう考えが浮かんだ佳子は、少しだけ逡巡したものの、最終的にはその
まま受け入れる気持ちになった。
(考えたってしょうがない、うん。お姉ちゃんも再婚後は、一応は家庭に収ま
るつもりなんだろうし、旅行して当然よね。その旅行にどんな格好をしていこ
うが、お姉ちゃんの自由。そう、新しい靴を買って、それがお気に入りなのか
も。何よりも、結婚間近の二人はずーっと一緒にいるもんだと考える、私が子
供なんだ)
姉の紀子からも、西山からも連絡がないまま、一週間ほどが経過していた。
けれども、佳子は別にがっかりしてはいなかった。大学三回生としての生活が
忙しかったせいもあるのだが。
三日後には、「灯火」の公演が始まる。今度はミステリー劇だと聞いて、そ
の手の小説が好きな佳子は、興味を持っていた。折角だし、ゴールデンウィー
クの一日を潰して行ってみようと考えている。
と、カレンダーを見つめながら、ぼんやりと思いめぐらせていた佳子のとこ
ろへ、来客があった。
「はい?」
インターフォンに出る佳子。彼女は大学に入ったときから、女性専用のマン
ションに部屋を借りている。ここでは住人への来客があったときは、男女問わ
ず管理人を通じて、インターフォンで声の確認をさせるシステムになっている。
いつもの、管理人のおじさんの人のよさそうな声が届いた。
「浜田さんて男の人が来ていますよ。代わります」
「あ、お願いします」
「佳子ちゃんか?」
声質が一変した。もちろん、人が代わったからだが、佳子はあまり好きじゃ
ない声である。
「本当に叔父さん? 珍しい、どうかしたんですか?」
「うん、ちょっと話があってな……。紀子に聞こうと思ったら−−知ってるだ
ろう? 不在だった」
−−続く