#2954/5495 長編
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ダルガの心臓(12) 青木無常
★内容
げく、と唾をとばしてインド人は目をむいた。
篭女は、静かに微笑した。
そして、まるで慈母のような手つきで化物インド人のおりたたまれた肩口に手をや
り――がつりとつかんだ。
そのまま、ひねった。
みしめきと、音が不快に響きわたったような気がした。幻聴だ。それほどあざやか
で、痛みに充ちた光景だったのだ。
が、が、がああと魂を吐き出してしまいそうに壮絶な声で、インド人は苦鳴を高ら
かに響きわたらせた。
悩ましげに眉間にしわをよせながら、篭女はなおもためらいなく、まるで機械のよ
うな単調さと正確さで、わしづかんだ褐色の肩口をひねりつづけた。
血まじりのよだれをたらしはじめたインド人の悲鳴は、あ、あ、あ、あ、と真紅に
とぎれはじめた。
同時に、似あわないダークグレーのスーツの肩に、びしりと大量の血がにじんだ。
もがきながらおりたたみ人間は、がぶ、がぶと呼吸困難にあえぐように喉をならし
た。異様な形におり曲げた全身が、痙攣的にびくびくとふるえる。
そして――ジャケットの生地がびりりと裂ける音とともにインド人の肩から先が―
―虫の脚がもがれるようにしてぶちりと、じつにあっけなく、もぎとられていた。
尻の穴が飛びだしてきそうな壮絶な悲鳴が、冷たくよどんだ空気を狂おしく震撼さ
せた。
同時に、おれは見ていた。
インド人が絶叫し、その全身が耐えがたい苦痛にのたうった瞬間――篭女は悩まし
げに眉間にしわをよせて目をきつく閉じ、唇をぎゅっとかみしめたのだ。そして自身、
苦痛に伝染したかのように派手に全身痙攣させて、よろよろと、背後の壁にもたれか
かった。
どさりとインド人を放りだすと篭女は、放心したようにどろりとした視線を虚空に
さまよわせた。
凍りついた背筋に、焦慮と悪寒の熱がどっとおしよせた。
この女、究極のサドだ。
褐色の肉体に、みずからが加えた暴行によって抑えようのない苦痛がかけぬけるの
を見ながら、エクスタシーに達したのだ。
生まれながらの拷問吏だ。しかも、職業的に黙々とそれをこなすタイプではない。
積極的に、貪欲に、のめりこむようにして苦痛をもてあそび、恐怖と絶望のエキスを
味わうことを天上の悦楽と感じる種類の、最悪の拷問者なのだ。
全身をアドレナリンがかけめぐりまくった。
こんな女に見こまれた日にゃ、命がいくつあっても足りやしねえ。
否。
訂正。ひとつしかない命を、そのエキスの最後の一滴までじわじわとしぼりつくさ
れながら、緩慢な死へとむかってじりじりと、苦痛と絶望の階段を昇らせられるハメ
になるのだ。
冗談じゃねえ。逃げにゃ。
やわらかな胸に崩れるように抱えこまれた姿勢で、おれはなんとか四肢に力をいき
わたらせようと意識をこらした。
かろうじて、もがくように手がうごめいた。それだけだ。へたに力をこめた分だけ、
ぬけた腰からずるずると地面にすべり落ち、ぶざまなかっこうで篭女の足もとにへた
ばってしまった。
そんなおれを篭女は、どんよりとした視線で眺めおろしていた。
が、ふいに、笑った。
薄く、淡く、哀れみに満ちみちた表情で。
魅入られたものの、身動きならぬ恐怖と絶望が、おれの胸中をどす黒く染めた。
そんなおれを見おろし、篭女はよろめくようにしゃがみこむと、愛おしげにおれの
首すじにその白い繊手をよせ、やわらかくなであげた。
いましも、その白い華奢な手が万力機械と化しておれの首をしめあげるのではない
かと、恐怖は間欠的におれを攻め立てた。
そんなおれの表情を見てのことだろう、篭女はいっそうとろけるような目つきで、
艶然と笑いながらおれの首すじをなでつづけた。
絶えられねえ。
おれはきつく目を閉じ、そしてもう一度、見ひらいた。
憎悪のあふれ出る赤光放つ双眸を、篭女の肩ごしに見つけた。
気配を感じてふりかえったが、恍惚にわれを忘れていたせいか篭女の動作は一瞬遅
かった。
無事な方の褐色の左手が、ととのった卵型の篭女の後頭部をがばとつかみしめ、そ
のまま勢いよくかたわらの岩壁にたたきつけていた。
ご、と篭女の美しい顔がブレて――たたきつけられた左のこめかみから、つう、と
朱い筋が下方にむけて触手をのばした。
呆然と目を見ひらいた美貌が――つぎの瞬間、勝ち誇った表情をうかべたインド人
にじろりと視線をむけ、にんまりと笑った。
それからなにが起こったのかは、残念ながらおれの動態視力では追いきれなかった。
とにかく気がついたら、無惨に片腕をひきちぎられたインド人のおりたたまれた体
躯が、広場の中央むけてふっとばされていたのだ。
見のがしていた残り三人の状況が、そのむこうに垣間みえた。
尚美はバッタ型人間と距離をおいて対峙し、景清は、今たたきのめしたばかりらし
い敵の姿を、岩上から冷たく眺めおろす態勢だ。鏑丸はといえば、これが意外なこと
に劣勢で、背中側からとりついた褐色の顔に喉くびかみつかれ、ひきはがそうと手を
あげた姿勢だった。
みな一様に、凍りついたようにして、魂をぬかれでもしたかのように呆然とした目
つきで、とつぜん投げだされた片腕のないインド人に視線を投げかけていた。
六対の視線が、苦痛にのたうつインド人と篭女とのあいだを、信じられぬものをで
も眺めやるようにして行き来する。
とりわけ、仲間を圧倒的かつ無惨に痛めつけられた三人のベンガル人は、目の前の
光景にまさに度肝をぬかれたらしい。
口々に仲間の名前を叫びつつかけより――というよりはバッタのようにひょーんと
飛び集まり――憎悪と、そして困惑がないまぜとなった視線で篭女と――そして地に
伏したおれとに、交互に視線を走らせた。
いかにも華奢で楚々とした篭女が、まさかこの惨劇を演出した張本人だとは、感覚
的に納得しがたかったからなのだろう。
ちがーう、おれじゃなーい、と心中悲鳴をあげつつ、おれは手と尻だけでいざった。
そして気づいた。
が、かろうじて上半身には力が入るようになっていた。
驚愕が催眠術を吹き飛ばすきっかけにでもなったのかもしれない。
篭女がおれに背中をむけているのを改めて確認した上で、おれはさらにずず、と身
体を後退させた。
とたん――ぎろりと、篭女がふりむいた。
美貌はそのまま、むき出した双の眼と裂けるようにして頬にきざまれた笑いとがお
れの全身からふたたび力をぬきとっていた。
化物だ。
妖怪ヨガ男、仏像人間、空飛ぶ円盤とたてつづけに人間離れした存在に遭遇しまく
ってきたが、そのなかでもこの女はまるで格上の、真性の化物だった。
いまや満面に笑みをたたえながら篭女は、ゆったりとした足どりでおれにむかって
歩を踏みだした。
反射的にふところにすべりこませた手は、目的のものをさぐりあてる前に恐怖に凍
りついていた。
悲鳴が、喉までこみあがってきた。
かろうじて醜態をさらさずにすんだ。
かわりに、目をむいた。
腕ぶちぎられた仲間を中心に、ひとつところに集まってなりゆきを眺めていたイン
ド人どもがだしぬけに、行動に出たからだった。
すなわち、ちょうどすぐかたわらにくたくたと崩れ落ちていた小春の豊満な肉体を
無造作に抱きあげるや、四人同時に跳躍していたのだ。
元祖化物の面目躍如とでもいうように一気に五メートルほどをも飛びあがり、切り
立った岩上に器用にとりつくや、すぐさま二度目の跳躍にとりかかる。この時点で腕
ぶち切られた野郎がやや遅れたのは、まったくしかたのないことだったろう。
景清がすばやく後を追って飛びあがった。
やはり人間離れしたスピードと跳躍力だったが、インド人どもにははるかにおよば
ず彼我のあいだはまたたくまに離れていった。
そのまま、どろどろと流れるように頭上にたれこめたはるかな泥の空にむけて、五
人の姿がわだかまる薄闇の中に消えた。
そのすきにおれは、ようやくのことでジャケットのポケットにおさめた目的のもの
をつかみしめていた。
その間、尚美、篭女、鏑丸、それぞれ呆然とした目つきで頭上を眺めやっていたが、
やがてどちらからともなくふたたび対峙しにらみあった。
「どうする、篭女? 二対一だけど」最初に口をひらいたのは、尚美だった。「正直、
あんたとは直接やりあいたくはなかったんだけどね」
応えて篭女は、うれしげな声をあげて笑った。
「あたしとしては、尚美ちゃん。あなたとは二人きりでやりあいたいところね。そう
いうわけで、つぎの機会を楽しみに、ドゥルガスにならうことにするわ。じゃあ」
かろやかに宣言するや、くるりとふりかえって満面に笑みをたたえたまま、おれに
むかって突進してきた。
「――たまるかよ!」
叫びが口をついて出たのは、決心の発露ではなくおしよせる怯懦をムリヤリおしの
けるためだった。
同時に、手にした金属の固まりを篭女にむけて投げつけた。
パン、と――特大の風船が破裂したような音があがった。
炸裂した閃光は、ブラウスのあいだからのぞく胸の谷間を中心にスパークを散らし
て篭女を吹き飛ばし――
だんと地に背をたたきつけた篭女が――信じられないことに――喉張り裂けんばか
りに絶叫を放ったのだ。
反動で眼前に落下したおれの唯一の武器――鈍色に輝くガス切れのジッポを、おれ
はあわててひろいあげ、もう一度投擲の姿勢をとった。
長い絶叫を叫びあげながら、篭女はがばと起き直ったところだった。
憎悪にみちた視線でおれを見やり――胸もとに刻まれたライター型の焦げ跡から煙
がたっているのを見て、さらなる血色の叫びをあげた。
くるか、と身がまえた。
幸いなことに、下半身にも力が戻っていた。脚をひらき、猫足だちの姿勢をとった。
怖じ気づいたわけでもあるまいが――篭女は臨戦態勢のおれを見ておたけびを中断
し、あいかわらず憎悪にあふれた視線に、いぶかしげなものを混入させた。
眉間によせたしわとむき出した歯――美貌のかけらをも粉砕した、力に満ちあふれ
た野獣の貌からふいに、険ががぬけ落ちた。
そして、艶然と笑ってみせた。――憎悪だけを、その視線に狂おしくとどめて。
「悪い子ね、達彦ちゃんは。いずれあとでおしおきしてあげるわ」ぞろりと、朱い舌
で唇の周囲をなめまわした。「たっぷりと、ね」
ねっとりとした視線をおれの全身にそそぎ、ちらりと尚美をふりかえって笑ってみ
せてから、篭女は優雅な足どりで後退した。
妖女の姿が岩かげに消えうせてしまってもなおしばらくのあいだ、尚美も鏑丸も攻
撃のかまえをとったまま動かなかった。
動けなかった、という方が正解かもしれない。
「化物だな」
やがてぽつりと、鏑丸がつぶやいた。
「まったくだわ」
あきらかに安堵のため息とわかる息をつきながら、尚美が力なく同意した。
ほどもなく、景清が帰還した。とうぜんのごとく手ぶらだった。
「めんどうなことになったわね、峠達彦」さほど同情する口調でもなく、尚美が云っ
た。「彼女、さらわれてしまったわ。どうする?」
「彼女じゃねえよ」仏頂面をはりつけておれは答えた。「どうするもくそもあるか。
地上に戻る。案内してくれや」
「いいわよ。でもその前に“心臓”を」
いって、手をさし出した。
「もってねえよ」おれは挑戦的に尚美をにらみつけながら、ふてくされた口調で云っ
た。「地上に落としてきちまったんだ。たぶん、風穴の近くに、よ」
しばし尚美はうたがわしげにおれの顔を見おろしていたが、やがて小さくひとつ、
息をついてうなずいた。
「いいわ。案内してあげる。そこであらためて取引といきましょうか。もしほんとう
に落としたっていうんなら、いっしょにさがしてもらうわよ」
「よろしいですとも」肩をすくめながらため息まじりに云い、「ところで喉がかわい
た。水をもってんだろう? わけてくれよ」
鏑丸の膨大な腰まわりにぶら下げられたいくつもの水筒にもの欲しげな視線をくれ
てやりながら手をさしだした。
無言で鏑丸は、水筒のひとつをとり外すとおれにむけて放ってよこした。
蓋をとり、ぐいと上むけた。
すぐに「なんだこりゃ」と思わずつぶやきながらおろした。
甘い果実の味がしたからだ。
もう一度口をつけ、ごくごくと音をたててむさぼり飲んだ。
「桃の果汁よ」夢中になって飲むおれを眺めやりつつ、尚美が答えた。「桃の実は、
中国では不老長生の仙薬とされているわ。もっともあたしたちがそれを持ってこの地
下世界におりてきたのは、健康法の実践のためじゃないけれどね」
「じゃ、なんでだ?」
ひと息つきがてら問い、さらに水筒をかたむける。
苦笑しつつ尚美は、
「イヒカ避けのためよ」と云った。「あの四本腕の地底人。あいつらはこの桃の果汁
に極端に弱いの。滝つぼに落ちたとき、あいつらの一人が溶けて崩れたのをみたでし
ょ? 鏑丸が水筒一本ぶんだけ、流しておいたんだそうよ。あなたがやつらにつかま
らずにすんだのは、そのおかげ。感謝することね」
「たかだか水筒一本ぶんであの効果か。すげえや」
すなおに感嘆しておれは云った。受けて尚美は云う。
「日本神話でも、黄泉から逃げるイザナギが追撃してくる妖怪たちにむけて、三つの
ものを投げつけて逃走を成功させる。その三つのもののひとつが桃とされているわね」
そしておれたちは、地上めざして登坂を開始した。
歩きながら、尚美がイヒカと呼んでいるあの仏像人間どもについて話しはじめた。