#2945/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 95/ 2/ 6 0:16 (183)
ダルガの心臓(3) 青木無常
★内容
とりあえずどこでもいいからとっとと出してくれ、と告げて以来、困惑面をはりつ
けていた年老いた個人タクシーの運ちゃんも、わざとらしくちらつかせたおれの札入
れの中身の分厚さを見て納得することに決めたらしい。
「とりあえず青梅街道出ましたけど。これからどっちに向かいます?」
と朴訥そうにそう問うた。
おれは沈黙する。もとよりどこ、とあてがあって出発したわけじゃないが、この期
におよんでなお行き先が決まっていないというのもちと度が過ぎている。
「今ごろの季節は、出かけるとしたらどこらあたりがいいかねえ?」
さして期待もせずに運ちゃんに問いかけると、バックミラーごしに顎のあたりをな
でながら年老いた運ちゃんは、
「そうですねえ。今ごろの季節はどうか知らんけど、あたしゃむしょうに富士山あた
りが好きでねえ。ようく拝みにいったりするんですよ。べつに理由があるってわけじ
ゃ、ないんですがねえ」
ときた。無責任な問いかけにふさわしい無責任な返答ぶりが気にいったので、おれ
「よし、じゃ、富士山にやってくれや。できりゃ二、三日、観光タクシーたのむ」
無造作に告げた。ええ本気ですかい、と目をむく運ちゃんにだいたいの料金見当を
つけさせ、それに見あったチップの額を告げると運ちゃん、あとは文句ひとつ口にせ
ず、いそいそと高速に車をむけた。
「ねえねえタッちゃん、富士山に温泉あるかなあ。肌のつやつやしそうなとこ」
化粧をなおしながら脳天気な口調でリクエストする小春にはあいかわらずの生返事
をかえすばかりでおれはバックシートに背中を沈めて目を閉じた。
不規則に流れやる光の列をまぶたの向こうに感じながらしばらくの間、そうして目
を閉じたまま、眠るでもなくただ空白に身をゆだねていると、ふと運ちゃんが口を開
「お客さん、だれかに追われてる……てことは、まさかありませんよ、ね」
おれは片目をひらき、面倒そうな口調をとりつくろって逆に訊きかえした。
「なんでえ。尾行する車でもあるってのかい?」
「借金とりだ」
タイミングよく言葉を放つ小春に、おれは苦々しく視線をむける。運ちゃんは気に
したふうもなく、
「ええ。白のミニカなんですがね。運転手がなんか、イラン人だかバングラ人だか知
らないが、そこらあたりの人間らしくって。どうもさっきからずっとついてくるだけ
じゃなくて、なんだかこっちの尻にくいついてきそうな形相と運転ぶりなんで、どう
内心の動揺をムリヤリおし隠しておれはふむんと鼻をならし、
「タイミング見はからって、ちょいとそのへんのドライブインにでも入って様子を見
云って、背後をふりかえりたい衝動を必死にこらえてふたたび目を閉じた。
おかしな動きでもあれば、また知らせてくれるだろうし、なによりも――あの逆エ
ビヨガ男の赤い目が、フロントグラスごしにニタリと笑いかけてくる光景を想像して、
おぞけをふるっていたのだ。
そのまま数刻、背中にはりつくような視線を感じながらおれは眠ったふりをしつづ
け、さいげんなく運ちゃん相手にバカ話をしかける小春の声で気をまぎらしつづけた。
最初のドライブインでいったん、車をとめる。白いミニカはたしかにおれたちにつ
づいて律儀に進入してきた。さすがに目につくほど近くに停車しようとはしなかった
が、運転席にはたしかに、褐色の顔の中から目ばかり白く光らせて、二人のインド人
がおれたちの様子をうかがっている。よかった。見たところ、どうやらあの化物ヨガ
男ではなさそうだ。
こういう場合のおれの行動原理は、一見大胆だが実は臆病さから発するものだ。す
なわち――恐怖は想像しているときがいちばん怖い、ってことだ。
そこでおれはニタニタ笑いをうかべつつ、手をふりながらミニカにむかって足を踏
みだした。
内部のインド人二人組は一瞬、ぎょっとしたように目をむいた後、あわてて車外に
まろび出、トイレに向かって一目散に走りはじめた。
ふん、とおれは鼻をならし、おきざりにされたミニカに歩みよる。ドアの鍵でもし
め忘れてないかと点検してみたが、どうやら思ったほど間抜けでもなさそうだ。あち
こちガチャガチャやっているうちに不審げに見やる視線が何組かならびはじめたので
肩をすくめて背中をむけ、トイレにむかった。
不思議なことに、連中の姿は見あたらなかった。女子トイレに侵入かけたんなら一
騒ぎ起こって当然だろうし、どこへ消えやがったのか。などと思いつつ用をたして車
に戻り、脳天気娘がなかなか戻ってこないのをじりじりしながら待つこと十数分、ふ
たたび時速百二十キロの移動を再開する。
インド人のミニカは、今度は追ってはこなかった。すくなくとも、目につく範囲内
半睡半覚の状態で「お客さん、あれあれ、富士山ですよう」と律儀に何度も呼びか
けてくる運ちゃんに生返事をしながらの、三時間ほどの旅程を経て、夜空に黒々とう
かびあがる巨大な円錐を前におれたちは車からおりた。場所はよくわからんが、忍野
とかいう温泉郷らしい。おそろしいことに、一面まっ白な雪におおいつくされている。
白く凍る息を吐きながら背中を丸めるおれたちを、先導するようにして運ちゃんは
近くの宿の玄関をくぐり、出てきた女将らしき中年女性と親しげに話しはじめる。ど
うやら顔見知りのようだ。ここまでの道中、富士山に関するうんちくをさんざん傾け
まくった運ちゃんの富士山好きはどうやら本物だ。
その上運ちゃんはありがたいことに、ドライブインで休憩を入れていた時に電話で、
空室の有無の確認と宿泊予約を入れておいてくれたらしく、飛びこみにもかかわらず
すぐに部屋に案内された上、料理まで用意されていた。いたれりつくせり、というや
つだ。
べつの部屋におちついたらしい運ちゃんに、後で礼をいわなきゃな、と話しながら
料理に舌つづみをうち、ビールの追加を山ほど頼んで小一時間ほど経過したころには、
おれも小春もへべれけになっていた。
ひっくうーい、タッちゃん勃ってるう、タッちゃん勃ってるう、とシャレのつもり
かしつこいくらい何度も口にしてはひとの陽根わしづかみにしたまま笑いころげる小
春にいいかげんうんざりして、温泉風呂に入ることにした。幸いなことに、混浴では
男湯についてきかねない小春を強引にひきはがしてひとっ風呂あび、淫乱娘の姿が
見あたらないのを確認した上で風呂を出ると、部屋には戻らず中庭に出た。
缶ビールのプルタブひねってぐいとあけ、黒々と夜空にうかびあがる富士山の勇姿
を眺めあげながらぷはーと息をついた。白く凍るほどの冷気が、ほてった体に心地い
い。
「これでいい女の二、三人でもはべらせてりゃあな」
と身勝手な独白をもらしたとたん、
「ずいぶんぜいたくね、峠達彦」
凛とした声音が、はりつめた凍気をふるわせた。
驚きに目を見はり、同時に鼻の下をのばしていた。
「気になってたんだ。無事だったかよ」
白々しいセリフを受けてありがとう、と皮肉いっぱいの口調で尚美は微笑み、つ、
と、手をさしだした。
云ってさし出しかけたおれの手をふわりと払い、尚美は云った。
「ダルガの心臓よ。もってるんでしょ?」
おれは眉根をよせ、肩をすくめてみせた。
「それだ。いったいなんのことやら、おれにゃさっぱりわからねえんだ。あのインド
人どももどうやらおれを追ってきてるみたいだし」
瞬時、尚美が眉間にしわをよせる。
それにしても、見れば見るほどいい女だ。凍てついた冷たい光の下、腕ぐみをした
まま眉根をよせて疑わしげな視線をよこすそのしぐさまでが、おれをそそってやまな
い。革のミニスカートにぴっちりつつまれた、はりきったヒップ。ブーツまですんな
りとのびた黒のストッキング。丈の短いむくむくのコートに、組んだ腕の下からはみ
出すような胸の隆起ときたもんだ。
「ぐずぐずしていられないみたいね」やや肉の厚めの唇が表情ゆたかにうごめくのが、
まるでおれを誘っているかのようだ。「直径は二センチもないと思うわ。金属製の、
エジプトなんかのスカラベによく似た彫刻みたいな代物よ。もってるはずよね。イン
ド帰りの、ピンクサロンのボーイからのおみやげよ」
「それだ」瞬時にしておれは不機嫌になっていた。「ちくしょう、林田のヤツ、百円
もしないガラクタを十五万相当の宝物だと、くそ、思い出すたび腹がたつ。あの野郎、
くそ。しかも勝手にあの世いきだ。お返しもできねえ」
「十五万?」
「あいや、なんでもねえ」
あわてておれは顔の前で盛大に手をうちふり、尚美の小柄な肢体ににじりよった。
「心臓だかなんだかしらねえけどよ、どうも覚えがねえんだよな。今晩ひとばん、ゆ
っくり考えりゃ思い出すかもしれねえが」
云いつつ、肩に手をまわした。
唇の端をうすく微笑ませて、尚美は上目づかいにおれを見あげた。
いけるぞ、こりゃ。
「どうだい?」
形のいい顎の下に指をはわせながら、耳もとにささやいた。
うふ、と白い息が夜気にむけてためらうように流れた。
顎を上むかせ、唇をよせた。抵抗はない。
やったぜ。
と心中快哉をあげたとたん、おれの顎にむけて強烈な打撃がつきあがった。
盛大に雪をけたてて尻もちをつく。
呆然と眺めあげるおれを、猫のような瞳が傲然とにらみ降ろし、指つきつけた。
「いい気にならないことね、峠達彦。おとなしくわたした方が身のためよ。さもなき
ゃ息の根とめられながら後悔することになる。あの時あの娘のいうとおりにしておけ
ばよかったってね。問題は――だれに息の根をとめられるかってとこ。あたしにとめ
云って、艶然と微笑んだ。
背筋がぞっとした。尚美の毅然とした態度が――あまりにもりりしく、美しかった
からだ。
萎えかけていたモノが、ふたたびむくりと首をもたげた。
「は、大したものだ」
みずから口にした感嘆を、どう勘違いしたのか尚美は勝ち誇った態度でぐい、と手
その手をつかみ、小ささとやわらかさを存分に楽しみつつぐいとひいた。
不意打ちに、反応するひまもなく尚美はおれによりかかっていた。
われにかえるより先に、力いっぱい抱きしめた。
もがきながら口にするセリフ自体に、先までの力強さが欠落している。
「バカいってないで」
「本気だぜ」と、せいぜい本気に聞こえるようにかぶせた。「抱きたい。おれのもの
もがいていた身体から、ふいに力がぬけた。
落とした、と胸の奥で笑いながらおれは、追い打ちをかけた。
「いいだろ」
「ダメよ」
あまりにそっけない返事に、一瞬、おれの方が呆気にとられていた。
「あん?」
と間抜けヅラ丸だしで大口あけるおれからするりとぬけだしざま、パンと小気味い
い音とともにおれの頬をしたたかに打ちすえた。そして、淡く輝くような微笑をうか
べながら云った。
「色男ぶりも、悪くはないけれど。あいにく、あたしたちにはそんなヒマはないの」
呆然とくりかえすおれに、尚美はにっこりと笑ってうなずいた。
首だけ後ろむかせて、凍てついた闇の奥にむけて呼びかけた。
くそ、と思わずおれはうめいていた。
白銀の街灯の下にしゃしゃり出てきやがったのは、あの角刈りの優男とつぶれ顔の
巨漢だ。
「てめえらみてえなヤツは、さぶかアドンにでも出てりゃいいんだ」
偏見と毒を思いきりこめて吐き捨てたセリフに、角刈りはまるで応じるように薄く
微笑んで見せ、巨漢の方はといえばにこりともせず、への字に歪めた下唇をわずかに
つきだしてみせる。
「残念だけど、峠達彦」勝ち誇ったような口調で、尚美が口を開いた。「また今度、
口説いてくれる?」
にっこり笑って、右手をつき出す。
くそ、と喉の奥でうめいて歯をきしらせ――つぎの瞬間、おれは呆然と目を見ひら
いていた。
おれの表情の変化を見てとり、尚美の顔からも微笑が消えた。景清だの鏑丸だのの
野郎二人組も、半身はおれにむけたままの姿勢で、すばやく後方をふりむいている。
そしてひとしなみに、息をのんだ。
くそ。川のせせらぎの音が、やけに耳につきやがる。
山間の、雪と静寂につつまれた深い夜の下、呆然とおれたちが見あげる前でそれは、
音もなく宙にただよっていた。
月よりもなお明るく、青白い輝き。
「水曜スペシャルか……?」
なつかしい番組の名前を呆然と口にしたのは、その光景があまりにも現実ばなれし
ていて、かつ、バカバカしいものだったからだ。
降るような満点の星空の下、空気まで凍りつきそうな夜をおしわけるようにして、
音もなく降下してくる蒼白の楕円を目にすれば、たいていは自分の正気か目を疑うは
ずだ。
空飛ぶ円盤、未確認飛行物体、あるいはUFO……好奇心と恐怖心をあおる俗悪な
音楽をバックに、巨頭の矮人が不気味な実験器具をふりかざしている光景がおれの脳
裏にうかびあがった。ちくしょう、冗談じゃねえ。
「イヒカの……」
角刈りの方――こっちが景清だろう――が、眉をぎゅっとよせつつ、つぶやくよう
に口にした。