AWC     父の思い出  (竹木貝石)


        
#2933/5495 長編
★タイトル (GSC     )  95/ 1/23  23:33  (145)
    父の思い出  (竹木貝石)
★内容

     【14】 沈黙
 小学生の頃あんなに楽しみだった春・夏・冬の長い休みが、中学になってからは憂
欝になった。学校や寄宿舎での生活が面白くなったのと逆に、家へ帰っても兄弟たち
は皆、住み込みで働きに行っており、頑固者の父と二人暮らし、近所の幼友達とはす
っかり疎遠になってしまったからである。
 特に夏休みの40日間は気が遠くなるほど退屈で、当時〈なみ4〉と呼ぶボロ ラ
ジオを聞くのがせめてもの慰めだった。ハーモニカや笛はよく吹いたが、ピアノやバ
イオリンを買ってもらって練習するなど考えたこともなく、そんなゆとりのある時代
でもなかった。あの頃バイオリンが1張手元にあったら、今よりはもうすこし上手に
弾けたはずだ。楽器の練習には随分時間がかかるし、若年から始めるほど上達が速い
から、ついそんなことを思ってしまう。
 私は来る日も来る日も退屈を持て余し、ひたすら学校の始まる日を指折り数えて待
ちわびた。人間一生の内に、なしうる仕事の量が決まっていて、あの頃死ぬほど退屈
な毎日をおくっていた分だけ、今目の回るような忙しい思いをしているのかも知れな
い。そしていつかまた、暇を持て余す時が来るのであろうか?
 さて、休み中の家の手伝いといえば、父が畑から取って来る豆や蕗やズイキの筋を
とったり、黍をほぐしたりするくらいで、多少時間のかかる仕事としては、自家製の
味噌を作るために蒸した大豆を石臼で擦り潰すとか、秋の取り入れで稲を束ねるのに
使う短い藁縄をなうくらいである。
 今にして思うと、父は過保護といっていいほど私に対し甘かった。兄たちは遊ぶ暇
のないほど家の手伝いをさせられ、会社が休みの日曜日も、2か月先までの予定が決
まっていたというし、姉の話によれば、御飯炊き一つにしても、父は細かく指図をし、
例えば5、6種類に分けて置いてある薪の並べかたやくべかたの順序を間違えると厳
しく叱られたそうである。それに比べると、末っ子で目の不自由な私にはすこぶる優
しく、冬はやぐらごたつ・夏は蚊帳の中で、私が1日中ゴロゴロ寝ていても、父は文
句を言わず気ままにさせておいてくれた。ただし酒を飲むと俄然クドクドと小言や説
教を並べ、それが私には何よりもうっとおしかった。
 私は父の前でますますしゃべらなくなり、一人父だけでなく、学校の友達や一番下
の兄以外とは全く話をしなくなった。話さないと言うよりは話せないと言ったほうが
当たっており、一種の憂欝症に陥っていたようだ。特に父のそばでは口を開かず、声
を出すのが恥ずかしいという奇妙な心境になり、長い休みの間、ただの1度も自発的
にものを言わなかった。父の問いに対しては、最も短い言葉・なるべく小さな声で答
えることしかできず、父の留守中に人が訪ねて来た時など、大切な要件が伝わらなく
てよく叱られたものである。父は晩酌をチビリ チビリやりながら、私をそばに座ら
せて、長々と小言を言った。
 「なぜおまえはちゃんとものが言えないのだ。もっと大きな声を出せ。」
 私は父に言われれば言われるほど、意固地に口をつぐむのだった。


     【15】 反抗
 父は私が按摩の免許試験を受けたいと言った時には頑固に反対していたが、いざ合
格してみれば、将来が心配で、「みっちり腕を琢かにゃならん。」と言って、盛んに
按摩の練習を奨励した。毎晩自分の肩を揉ませ、近所のおばさん連や瓦職人たちを連
れて来て按摩の練習をさせた。
 私は今でこそ、按摩マッサージの効能やありがたみの分かる年代になったが、当時
中学生の身では到底そこまでの道理は理解できない。今と違って、クーラーはおろか
扇風機すらない夏の真っ盛りに、汗をダラダラ流しながら、じいさん・ばあさんの肩
につかまって延々1時間半も揉み続けるなど、嫌で嫌でたまらなかった。今日と異な
り昔は、『めくら即ちあんまさん』というイメージが濃く、職業に対するプライドよ
りも劣等感のほうが強くて、どうにもなじめなかったし、もともと私は、じっと座っ
たまま手先だけ動かすような作業が嫌いな性分である。気の進まない私を父が近所の
家へ連れて行き、年寄りの肩を揉ませているそばに、同年輩の子どもらがいる時には、
本当に我が身が惨めでなさけなく、消えて無くなりたい心境だった。
 あれは私が中学3年生の夏休みも終に近い夕方のことだった。私は父と一緒に近所
のAさん宅へ風呂を借りに行った。今は懐かしい木の風呂桶の中にお釜が突き出てい
て、下から薪で炊く式の確か〈鉄砲風呂〉と呼ぶ風呂だった。私の家にも〈ごえもん
風呂〉があって、兄が家にいた頃は毎晩沸かしたが、父と二人暮らしになってからは
もっぱらもらい湯に行っていた。
 さて風呂から上がると、勝手口にはAさん宅の女の子たちが何人かいて、中に私と
同年のN子ちゃんも混じって夕餉の支度などしていた。父が「おばさんの肩を揉ませ
てもらってから帰れ。」と言うのでしかたなく、板の間に上がって1時間ほど按摩を
し、ヤレヤレやっと帰ろうとすると、ほろ酔い機嫌の父が「きちんとお礼を言ってか
ら帰らにゃいかん。」と、私をわざわざみんなのほうへ向き直らせた。私はやむをえ
ず、蚊の鳴くような声で「ありがとう。」と言うと、父は「そんな声で聞こえるもの
か。」と言って、2回も3回も言い直させ、頭の下げかたまで指示した。日頃意固地
な私にとって、これは大変な恥ずかしさであり、プライドを傷つけられること一通り
ではなかった。4回目にやり直しさせられた時には、さすがに我慢しきれず、私はク
ルリと背を向けるや、さっさと家へ帰って来てしまった。父もおそらく苦笑するしか
なかったであろう。
 虫の音ふりしきる庭をあちらこちらさ迷いながら、私は自分の身の不甲斐なさ・な
さけなさを悲しみ、父の心無さを憎んだ。父に頭が上がらないのは、自分が養っても
らっているからだと考えていた私は、もし経済的に独立さえしていたら、こうまで父
を恐れ、父に遠慮することはないはずだと思った。
 「俺はなぜ目が見えなくなったんだ?親爺が酒ばかり飲んでいて、ろくろく子ども
の面倒をみなかったからではないのか。それなのに親爺の酒癖は直らず、子どもに辛
い思いばかりさせている。いったいそれが親のやることか!自分の欠点を棚に上げて
俺ばかりを攻めたてる。畜生!目さえ見えたらこんな惨めな思いをしなくて済むもの
を…。」
 私はくやし涙にむせんだ。
 「アア、おっかちゃん!おっかちゃんが恋しい。…だが今に見ていろ。きっと親爺
なんか見返してやる。いつか必ず思い直させてやるぞ。」
 私はその日以来、自分が一人立ちする為、治療院へ働きに行くことを本気で考える
ようになった。


     【16】 晩年
 2学期になって、私は同級生と二人で、授業が終ると毎日のように、アルバイト先
を捜しに出掛けた。予め電話で問い合わせておいて、白い杖1本を頼りに、名古屋市
内をあちこち歩き回った。しかしこちらの条件が悪いので、そうおいそれとは使って
くれない。なにしろ15歳の中学生で全盲、按摩の免許証だけは持っていても腕は未
熟だし、第1接客の作法を知らない。それが昼は盲学校に通い、夜働いて小遣い銭を
稼ぎたいというのである。私たちは噂に聞く治療院とか、ちょっとした手蔓を頼りに、
毎晩遅くまで訪ねて回ったが、いつも体よくことわられた。
 かれこれ30軒も回っただろうか?半ばあきらめかけていた矢先、ある年長の友達
の紹介で、北区大曽根町にあるF治療院を訪ね、ようやくそこで勤めることが決まっ
た。
 後で知ったことだが、ここの主人は有名な偏屈人で、北区のFと言えば、頑固とし
ごきで知られた治療院だったのである。が、ともかく私は、高校1年の春からF治療
院に住み込みで働きながら、そこから盲学校へ通う身となった。他人の釜の飯は辛い!
ここで過ごした青年期の6か年間については、また項を改めて詳しく述べなければな
らないが、そういう事情で、春・夏・冬の休みにも家へは帰らず、父や兄・姉たちと
もますます疎遠になって、名古屋が私の生活の総て、第2の故郷となった。
 1度こういうことがあった。久しぶりに父が酔っ払ってF鍼院へ訪ねて来て、「ち
ょっと千円ばかり貸してくれや。」と言ったので、格別気にも止めず財布から千円札
を出して渡した。1か月ほどして、一番上の姉から電話がかかり、今からすぐ父と二
人でそちらへ行くと言うのである。何か重大な要件が有りそうな雰囲気だったので心
配して待っていると、やがて二人がやって来て言うには、「先日おまえに借りた千円
を返しに来た。」とのこと、親子の間で金を貸すも貸さぬもないと思っていたし、第
一千円貸したことなど忘れていたのでびっくりした。その時しらふの父はなぜか元気
がなかった。
 何年か後になって、別の姉から聞いた話しによれば、あの時、父が上の姉の嫁ぎ先
へ行って、私に千円借りたままになっていると言ったらしく、それを聞いた男勝りの
姉は、烈火のごとく怒って、父を罵倒したとのことだった。
 「自分は酒ばかり飲んでいる癖に、目の不自由な子どもをよそで働かせ、その金を
まきあげて、また酒を飲むとは何事だ。そんなろくでなし親とは思わない。今すぐ名
古屋へ行って謝り、金を返して来い。なんなら私が付いて行ってやる。」
 父は一言もなくしょんぼりと、姉に伴われて、私の所へ来たのであった。しかしこ
の話は、何となく父の老いを感じさせる。往年の父であれば、姉などに負けてはいな
かったはずだ。
 「なにを偉そうなことを言うか。俺の子どもに金を出させてどこが悪い。こういう
時こそ、『おとっつぁん、有難うございました』と恩返しをするものだ。」
 そんな強がりを言っているほうが父らしい気がする。
F鍼院に勤めて4年半、父は酒のために、さしも頑健な体をすっかり壊し、心臓病で
動悸や息切れをうったえるようになった。
 卒業の前年、私は数人の生徒や引率の先生と一緒に、全国盲学生点字・珠算競技会
に参加するため熊本へ行った。旅行中、安芸の宮島で記念に御飯しゃもじを買い、そ
れに自作の俳句と病気見舞いの手紙を書いて、故郷の父宛に郵送した。
 「我が手より、餌をとる鹿や、安芸の島。これからは寒くなります。お体を大事に
してください。…保行。」
 要件のないかぎり、ただの1度も手紙など出したことのなかった私である。元来
〈虫の知らせ〉というような迷信を私は信じていないが、偶然にも正しくその頃、父
は狭心症により、一人寂しくこの世を去って行った。年60歳。母の死後ちょうど
10年だった。


     あとがき
 毎年お盆には、跡取りの兄の家に兄弟・姉妹が集まって、墓参りをする。その日は
1日、仏壇の前で御馳走を食べながら、昔話に花を咲かせるが、その多くは父にまつ
わる物語である。兄や姉たちにはまた、私のとは違った父の思い出があり、終始大笑
いが続く。
 今年は、私の書いたこの随筆を、みんなに読んで聞かせてみよう。

                                       [1991年(平成3年)7月30日
                                竹木貝石]




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