#2932/5495 長編
★タイトル (GSC ) 95/ 1/23 23:31 (192)
父の思い出 (竹木貝石)
★内容
【9】 ぼろは着せても
衣生活も一段と哀れな状態で、私は8人兄弟の末っ子だったから、新しい衣服を身
に着けたことがなかった。いつもチンチクリン(小さくて窮屈で袖口や裾がつりあが
っている様子)の服を着て、ズボンの膝や尻には大穴が明き、メリアスのシャツの袖
口はゾロゾロにほつれていた。父自身よくこう言っていた。
「洗濯などは着物をたらいにほうりこんで、足でグシャグシャ踏んじまえば奇麗に
洗えるし、飯炊きも簡単だが、針仕事ばかりは往生する。」
寄宿舎に預けられた私の所へ、父は月に1度しか面会に来てくれないし、母親は肺
結核で、私が小学校3年生の冬に亡くなったので、私の身の周りに細かい神経が行き
届かなかった。衣服は皆汚れたり破れたりしていて、寝小便とシラミの卵でクシャク
シャになっていた。ズボンはどれも小さ目なので余計にいたみやすいのか、吊りバン
ドのボタンがすぐにちぎれて肩からずりおち、尻や膝には幾重にも布が当ててあって、
それがまた破れているという具合だった。上着もやたらと窮屈で、手を上げると、腰
の所でズボンとの間が5センチも開いたし、脇の下が10センチ以上も綻びていた。
ボタンなど満足に付いていたためしがなく、私が適当に糸で繋ぎ止めておいても、た
ちどころにちぎれてしまう。
今でも思い出すのは、6年生の卒業式の時、例のみすぼらしい服装で、おまけにズ
ボンの股の所が完全に破れて、20センチも口が明き、さるまたがはみ出ているのを
人に見つからないように覆い隠しながら、おそるおそる歩いていたら、先生が見かね
て、1年生の子どもにズボンと服を借りて来てくださった。私は小柄だったので、1
年生の洋服でも充分間に合ったのである。お陰で無事卒業式の総代の役は勤まったが、
寄宿舎の自室に戻ると、迎えに来ていた父が言ったものだ。
「よその子に上着を借りてまで、総代などになる必要はあるまい。」
中学2年生の時、名古屋盲学校で、全国盲学生点字・珠算競技会が開かれた。選手
として出場する私の服装は、11月だというのに上着もなしで、メリアス長袖シャツ
の丸首の所が弛んで大きく拡がっているようなのを平気で着ていた。先生に咎められ、
私はいとも平然と「着る服がありません。」と言ったものだ。先生はあきれたが、ま
さかその姿のまま大会に出す訳にも行かず、上級生から立派な学生服を借りてきてく
れたが、これはまた一段と大柄な男だったので、なんとも妙にだぶついた上着であっ
た。
冬のある日、父が学校へ持って来たのは、私が幼少の頃着た覚えのあるメリアスの
下着で、ももひきとシャツがひと続きになった分厚な物だった。「これを着てみろ。」
と父が言うので、手を通してみればなんと、幼い頃に履いたももひきの足の部分が、
中学生の私の脇腹の所にブラブラしているではないか!いかにもグロテスクに思えた
ので、勇気を奮って父に言った。
「こんな所に足が付いているけど…。」
すると父はそくざに決めつけた。
「その通り、ここに足があるからこそ、保温がきいてあったかいのだ。」
このような具合で、私はその昔、たえず自分の惨めな服装にひけめを感じていた。
「このズボンの尻の破れ目をみんなが見て笑っているに違いない。」そう思うと恥
ずかしく て、立ち居振舞が萎縮した。
子どもの時から質素に馴らされてきた私は、今日なお、衣服が人より粗末である。
「ボロを着ても心は錦。」と言う父の思想がしみついているのであろう。
【10】 兄
私と兄たちとの年齢差は、一番上が13 2番目が12 3番目が9 4番目が2
年違いである。下の二人にはよく遊んでもらったが、上の二人はもう大人で、私が小
学3、4年生頃、軍隊から帰って来て会社に勤めていた。上の兄たちは、アル中ぎみ
の父を批判して、年に1度くらい烈しいいさかいを起こした。次の話はその一つであ
る。
母方の従兄弟の結婚式があり、当時の風習として、夕方花嫁は自分の家を出発して
嫁ぎ先へ行き、そこで挙式を行なうことになっていた。従兄弟(花嫁)の家から嫁ぎ
先の町まで、途中私たちの中手山村を通ってやく5キロの道を、その頃の田舎のこと
で、タクシーや自家用車などないから、徒歩かリヤカーのような乗り物で移動したと
思われるが、式場へついてみると、頭飾りの大きなかんざしが無い。どうやら途中の
道で落としたらしく、大騒ぎになった。
翌朝早く、私の父は上の二人の兄を起こして、そのかんざしを捜しに行かせようと
したが、眠たい盛りの若者が無理矢理叩き起こされ、会社へ出掛ける前の忙しい時間
に、食事も取らず、そんな当てのない捜し物をしに行くのは嫌だった。渋ってなかな
か動かない兄に、父は例の調子で半ば叱りつけるように命令した。
「折角のめでたい日に、多美子も困って泣いているし、こういう時にこそおまえた
ちが行って捜してやるもんだ。あんなに大きいかんざしが無くなるはずはなし、誰も
通らぬ今のうちに、自転車でずーっと道の両脇を眺めて行けば必ずどこかに落ちてい
るはずだ。さあ行ってこい、早く行ってこい。」
二人はしかたなく自転車で往復捜してみたが見つからず、これでは目のこしがあっ
てはいけないというので、自転車を下りてガチャガチャ引っ張りながら、逢妻川・境
川・五か村川の堤防や坂道を上ったり下ったりして、あちらの草むら・こちらの橋の
下…と、さらに1往復捜したがやはり見当たらなかった。
春先の冷たい風に手はかじかみ、腹は減り、会社は遅刻しそうになるしで、いらだ
つ心を抑えつつ家へ戻る道すがら、上の兄が何気なく、道路脇にある集会所代わりの
消防小屋を見ると、なんとあの大きなかんざしが小屋の柱に掛かっているではないか!
花嫁が移動の途中気分を悪くしてリヤカーを下りたことがあり、おそらくその時かん
ざしをはずして置き忘れたのを、誰かが拾って、目につきやすい消防小屋の柱に掛け
ておいてくれたものだろう。
2番目の兄がそのかんざしを父の所へ持って来たのを見て、父は高飛車の大声で言
った。
「それみろ。おとっつぁんの言った通り、ちょっと捜せばすぐ見つかるじゃあない
か。」
途端に兄がカッとなったのも無理はない。
「それみろとは何という言い草だ。御苦労さんのひとことくらい言えないのか。」
兄の説明を聞いて、さすがの父も、この時ばかりは何も言えなかったようだ。
その数年後、温厚な上の兄も、度重なる父の酒飲みに我慢しきれなくなって、ある
晩ついに大喧嘩になった。二つ三つ父を殴った兄は、飯台の上に置いてあった一升瓶
の酒を、いきなり父の頭の上から注ぎかけた。
「こんな物のどこがいいんだ。そんなに欲しけりゃこうしてたっぷり飲ませてや
る。」
酒を頭から浴びながら、それでも父は悠然と構え、結局兄のほうが泣き出してしま
った。
【11】 散髪
父はとにかく怖い存在だった。家族全員が父の威厳に恐れをなし、反論どころか、
普通の応答すら満足にできないほど緊張させられたものだ。それに引換え、母は大変
優しく穏やかな人だった。その母は体が弱く、私が数え年五つの時、結核を患い、以
後ずっと寝たり起きたりの生活が続き、私が小学校3年生の冬に、この世をさった。
父は毎晩のように酔っ払っては、病気の母に小言を並べ、時には打擲することもあ
ったし、子どもたちも父によく叱られた。それらのことが、父と母に対する私たちの
イメージを作ってしまったようだが、別の分析をしてみると、母は一見おとなしそう
に見えて本当は外柔内鋼型の性格、父はいかにも頑迷そうだがその実照れやで気の弱
い性分だったのかも知れない。
父については、散髪の思い出もある。私は子どもの頃、床屋へ行ったことがなく、
いつも父か兄がバリカンで丸刈りにしてくれた。ところが家のバリカンは切れ味が悪
く、髪の毛をチクチク引っ張るので、散髪は大嫌いだった。それでもまだ兄がしてく
れる時はいいが、父だと一言の文句も言えないのみか、父は髪の毛をなるべく短く刈
ろうとして、バリカンを強く頭に押し付けるから非常に痛い。じっとその痛みをこら
えて、やっとのことで髪を刈りおえたと思うと、今度は頭の垢おとしである。バリカ
ンの角や割り竹のような物で、私の頭をガリガリ ガリガリこそげまわすので、これ
がまた痛いの痛くないのと言って、あれはほとんど拷問だった。私は顔を顰めて痛み
をこらえ、ただ早く終るのを待つしかなかった。
中学生になってからも、寄宿舎へ父が面会に来たついでに頭を刈ってくれていたが、
相変わらずバリカンはくいつくし、垢とりはもっと痛かった。そんなある日、父はバ
リカンを動かしながら私に聞いた。
「おっかちゃんが死んだのは、おんし(おまえ)がいくつの時だったかなあ。」
「ここのつだった。」と私が答えると、父は呟くように
「そんな小さい時だったのか。」後は聞こえないくらいの小声で、
「可哀相に…。」と言うのである。父がそういう話を、しみじみとした口調で語っ
たのを、私は後にも先にも聞いた覚えがない。散髪が済むと父はいつもより多目に小
遣い銭をくれて、家へ帰って行ったが、しばらくして戻って来て、「これをわたすの
を忘れていた。」と言い、大きな板チョコをくれたのには驚いた。あの日は父がこと
の他優しかった。
【12】 手術
中学2年生の秋、突然私は右眼の調子を悪くした。もともと光覚盲ではあったが、
目の不快な症状など全然なかったのに、その数日やたらに眩しくて、時々勉強や遊び
を中断しなければならず、それがだんだんひどくなって、1日学校を休んで寄宿舎で
寝ていた。保健係りの先生に洗眼してもらったり、洗面器に水を汲んで来て自分で目
を冷やしたりしていたが、悪くなる一方で、その夜は猛烈な痛みに一晩中眠れなかっ
た。終いには目が痛いのか頭が痛いのか区別がつかず、私は身を振るわせて呻き続け
た。
翌日とうとう、名古屋大学病院の分院へ運ばれ、急性緑内障で直ちに眼球摘出と決
まった。麻酔用の目薬をさしてもらって、すこし痛みが治まった頃、電報で呼ばれて
父がやって来た。
「なんならわしの目の球をくり抜いて、息子のと入れ換える訳にゃあいかないもの
でしょうか?」
父が院長先生にそう頼んでくれた時には、私も「もしかしたら」と希望を繋いだが、
今の医学では到底無理だった。それにしても父のあの言葉は、まさに親の愛情そのも
のであり、私はすっかり感激した。父はそんなにまで息子のことを案じていてくれた
のである。
眼球摘出手術の痛さは想像を絶するもので、脳に近いということもあって、麻酔の
注射を弱目にした為に、もの凄い苦痛で、目の球を握り潰されるような、ひっこ抜か
れるような激痛だった。詳しい様子は省略するが、ここに院長先生が手術の後で言っ
た一言だけ記しておく。
「君のは偉大な目の球だったよ!これじゃあ随分痛かっただろう。」
入院1週間、順調に回復し、その間父が付き添ってくれて有り難かったけれども、
気詰まりやら退屈やらで、毎日が長くてたまらなかった。父も暇を持て余し、三日目
からは夕方になると外へ飲みに行くようになった。隣のベッドには上品な感じの年輩
の夫婦と男の子が入院していたが、父が酔っ払って来ては私に厳しい小言を言うので、
気の毒がって、こっそりお菓子や果物をくれたりした。私は父の酒には馴れていたか
ら平気だったが、よその人たちの手前恥ずかしくて、せめて病院でだけは酒をやめて
欲しいと思ったが、とても父には言えなかった。
私に眼球を提供しようと言う父親であったが、好物の酒だけはやめられなかったの
である。
【13】 戸籍抄本
按摩マッサージ・鍼・灸に関する法律が改正されて、営業免許であったものが身分
免許に変わった。資格を取るのに従来は、学校を卒業するか、もしくは検定試験に合
格するかのどちらかでよかったのが、今後はその両方をパスしなければ免許証がもら
えない制度になった。昭和22〜23年のその頃、経過措置として特例の臨時検定試
験が公示され、全国各地でその為の講習会が開かれた。盲学校在学生や各治療院で働
いていた人たちは、こぞってこの特例試験を受けることになり、講習会にも大勢が集
まった。
私はまだ小学校5年生だったが、按摩・鍼・灸の資格を獲るのがこの先難しくなる
だろうというので、特例試験を受けさせてもらうことにした。学校側でも、在学者全
員に検定試験を受けさせる方向でカリキュラムを組み、小学生でも1、2時間目だけ
国語や算数の授業をし、後は総て医学関係の勉強と按摩実技を教えた。そればかりで
なく寄宿舎でも、朝は食後から登校まで・夜は授業後から消灯までの時間、中等部の
年長生が、解剖学・生理学・病理学の他、按摩の理論や実技の特訓まで念入りにやっ
てくれた。
半年くらいも勉強しただろうか?私たちはどこかの知らない試験会場へ連れていか
れて、一通りの試験を受け、それより何日か後に合格証書を受け取ったが、特例措置
の試験だったので、不合格者はさほど多くなかったようだ。私の年齢では按摩師の免
許だけしか取らせてもらえなかったが、上級の生徒たちは鍼師・灸師の免許も併せて
取得し、中にはそのまま学校をやめて行った者もいる。
受験そのものについては、このようにさしたる苦労はなかったが、受験手続きの上
で大変困ったのを覚えている。というのは、手続きに必要な書類の内、戸籍抄本がい
つまでたっても揃わないのである。2度3度と、家へ宛て催促の手紙を書いたが一向
に送って来ず、最後は担当の先生にお願いして、一番早く届くはずのポストへ4度目
の手紙を投函してもらって、たしか書類締め切りの前日か当日かにやっと間に合った
記憶がある。後で聞いた話には、なんでも父が私を受験させるのに反対で、「あんな
年端もいかない者に、按摩の免許など取らせる必要はない。」と言って全く抄本を送
る気がなく、それを見かねた2番目の姉が、父に内緒でこっそり役所へ行って抄本を
取り寄せ、学校へ送ってくれたのだそうだ。
そうしてみると、人の運命とは不思議なものである。あの時私が按摩の資格を取っ
ていなかったら、その後の人生は全く違っていた。高校時代にアルバイトをすること
もなかったし、今の妻と結婚する機会もなかったのである。その意味で、2番目の姉
が私の人生を変えたことになる。