#2899/5495 長編
★タイトル (RGJ ) 94/12/15 10:57 (180)
わくらば 四の二 城 成夫
★内容
「それじゃ、遅くなるから帰ろうか」
淳はこう言って立ち上がると令子に帰り支度をさせ、自分はグラスを洗って
それらしい位置にもどした。
二人で外へ出た。充血した頬に、ひんやりとした外気が快かった。令子のハ
ンドバッグから出した鍵を、鍵穴に差し込んで一回転させると、淳はノブを二、
三回左右にまわして鍵のかかっているのを確かめた。
「大丈夫よ。城戸さんって呑気そうに見えて、あんがい用心深いのね」
令子が、鍵を持ったままの淳の右のかいなに両手でぶる下がるような格好で、
彼の顔を見上げて言った。
「ぼくも少し酔ってるから、鍵がかかったという感触がないんだ」
そう言って令子のからだを支えながら、淳は鍵を左手に持ちかえて彼女に返
した。
明治通りへ出ると、まだ終電にはかなりの時間があるとみえて、タクシーは
すぐにつかまった。淳は令子を押し込むようにしてタクシーに乗せ、自分もそ
の横に掛けた。
「参宮橋の神宮ドウェリングお願いします」
令子が言うのと、車のアクセルが踏まれるのと、ほとんど同時だった。急な
加速に、二人のからだが後ろに転げそうになった。
「神宮ドウェリングって知らないんですがね。近くへ来たら教えてくださいよ」
中年の運転手が、しわがれただみ声で言った。
甲州街道に出るまでは分かっていたが、その後どこをどう走ったのか、深夜
の道路は淳にもよく分からなかった。だが運転手に指示するまでもなく、令子
のマンションはすぐに見つかった。彼女の言ったとおり、新宿からほんの四、
五分の距離だった。周りにあまり高い建物がないので、タイル張りのそのマン
ションは、闇の虚空を突くようにそそり立っていた。
料金を払ってタクシーを降りると、淳は令子につづいてマンションの小さな
エレベーターに乗った。
「何階までですか?」
令子は操作盤のまえに立つと、突然いたずらっぽい目つきで淳の顔を見なが
ら訊いた。
「えっ?……」
一瞬、淳は彼女の質問の意味が分からなかった。だがすぐ彼の脳裏に、三年
まえのエレベーターの中での情景が浮かんだ。
「七階お願いします」
と淳は反射的に答えていた。
「残念でした。今夜は七階じゃないの」
令子の言葉に、淳は思わず彼女と顔を見合わせた。一瞬、三年前のあの頃の
思い出が、彼の脳裏を駆けめぐった。
十二階でエレベーターを下りると、ふたりで狭い廊下を跫音を忍ばせて歩い
た。両側に並んだドアの中からは物音一つ聞こえず、どの家ももうとっくに寝
静まっているらしい。右側の三つ目のドアの前で立ち止まると、彼女は淳の方
を向いて囁くように言った。
「うち、ここなの……」
令子はハンドバッグから鍵を取り出す、とちょっと腰をかがめて鍵を回しド
アを開けた。そしてそのドアを廊下側に大きく開いたまま、彼女は淳の方を振
り向こうともせず、そのまま一人で室内に入っていった。開かれたドアが緩衝
器の復元力でゆっくりと閉まり始めたが、それが閉まり切らぬうちに淳は令子
につづいて室内に足を踏み入れた。
玄関を入ってすぐ右側のくくりつけの下駄箱の上に、白と黄色の小さな花を
つけた菊が、螺旋形のプラスチックの棒で支えるようにして活けてあった。正
面のこげ茶色の簾の向こう側が、ダイニングキッチンになっているらしい。ま
だ建てたばかりの真新しいマンションなので、漆喰の壁は指で押すとへこみそ
うな感触だった。
「こちらがリビングルームなの」
そう言いながら、令子は先に立って彼をその部屋に案内した。淡いベージュ
というよりは殆ど白に近いふっくらとしたカーペットが、やや長方形をした八
畳くらいの広さの部屋いっぱいに敷きつめられている。壁にはホワイト系のク
ロスの壁紙が全面に張られていた。バルコニーのガラス戸に吊られているカー
テンも、カーペットと同系のやや濃めのベージュである。窓際に茶系統のか革
張りの三点セットが置かれ、壁際には真新しいダークブラウンのサイドボード
が据えられていた。
「ここがわたくしのお城よ」
令子が淳の方を振り向きながら、両手をいっぱいに広げて言った。
「ほら、外を見てごらんなさい」
そう言いながら、彼女はバルコニーのカーテンを窓いっぱいに開けた。
令子が自慢するだけあって、まことにすばらしい夜景だった。もともと高台
の上に十二階という高さだから、まるで東京が一望に見渡せるかのようである。
すぐ正面の神宮の杜と思しき辺りは真っ黒く、遠く左手には新宿の、そして右
手には渋谷の繁華街のネオンが、明かりの消えたビルの谷間に見えかくれして
いた。正面はるか遠く銀座と思しき辺りは、街の照明に映えてか空がひときわ
明るくなっていた。
「すばらしいお城だ。まるでおとぎの国へでも来たみたいだ」
淳は大きなため息をつくと、飽きもせずにいつまでも夜景を眺めていた。
しばらくして、キッチンの方から令子の声が聞こえてきた。
「ねえ、何か召しあがる? おなかがすいたでしょ」
「うん、悪いけどお茶漬けできないかな……」
「お安いご用よ。今朝のご飯が残ってますから……」
先刻までの酔いがようやく醒めてきたらしく、彼女はお湯を沸かしたり、湯
漬けにしたご飯のお湯を二、三度こぼしたりして、二人分のお茶漬けを作り始
めた。
「できたわ。さぁ召しあがれ」
しばらくして、ダイニングから令子の声が聞こえてきた。
赤い帽子のようなシェードのついたペンダントの下で、ふたり差し向かいで
かわいい茶碗のお茶漬けをすすった。黒い光沢をもった海苔の芳ばしい香りが、
狭い部屋の中にただよった。
「うん、うまい! 飲んだ後はこれが一番うまいんだ」
「ほんとね。お茶漬けがこんなにおいしいなんって、わたくしぜんぜん知らな
かったわ」
令子がスプーンですくった熱いお茶漬けを、フーフーと息で冷ましながら、
楽しげな表情を顔いっぱいに表して言った。
サイドボードの上に置かれたデジダル時計が、ちょうど一時を示していた。
「おやすみになる?」
お茶を飲んだあと令子が言った。
「これ、城戸さんにはちょっとちいさいかもしれないけれど……」
彼女は女ものの寝間着を箪笥から出してくると、淳を隣りの寝室に案内した。
四畳半くらいの広さの洋室で、床にはリビングよりやや濃めの、あずき色のカ
ーペットが敷きつめられていた。ドアの向こう側には、純白の毛布カバーを掛
けた木製のシングルベッドが一台、壁を頭にして据えられていた。
「どうぞごゆっくり……わたくしはリビングでやすみますから……」
令子はそう言ってベッドの上に寝間着を置くと、そのまま部屋から出て行こ
うとした。
その時だった。淳はすかさず令子の手を取ると、ぐっと力いっぱい彼女のか
らだを引き寄せた。彼女は淳の方に向き直ると、からだを彼のするに任せたま
ま黙って目を閉じた。彼は令子を抱いたまま、ベッドの上に折り重なって倒れ
た。令子の上に体を重ねたまま、淳ははげしく彼女に接吻した。
令子の閉じられた瞼の下の長いまつ毛が、淳の目のまえ二、三センチのとこ
ろに迫った。そして彼女の柔らかい舌は淳の口に吸い寄せられて、彼の舌とも
つれ合いながら、ぬたくるように口の中を動き回った。
「お願い……明かりを暗くして……」
令子がくちびるを離すと、耳もとであえぐように言った。淳はいったんベッ
ドを離れると、天井のダウンライトを消して、かたわらの小さなスタンドを点
けた。
「もう一つ鎖を引っぱると暗くなるの」
淳はその通りにして、再びベッドに戻った。
薄暗いスタンドの光の下で、令子の肩の両側に肘をついて自分の上半身を支
えながら、淳はあらためて彼女の顔を見た。令子の顔をこんなにすぐそばで、
こんなにまじまじと見つめるのは、淳には初めてのことだった。
「好きだったのよ」
顔の下で令子の息が熱かった。
「このまえ深夜喫茶ではデートをお断わりしたけど、ほんとうはとても嬉しか
ったの」
彼女はあえぎあえぎ言った。
洋服の上から見ていたときはスリムだと思っていたが、ブラウスのボタンを
ちぎるようにして外すと、令子の肉体は思っていたよりふくよかだった。その
ふくよかな彼女の肉体を、淳はまた力いっぱい抱きしめた。裸とはだかの皮膚
がぴったり触れ合って、彼女の血のたぎりが皮膚を通して伝わって来るのがは
っきりと分かった。
「はじめて……会社のエレベーターの中で……お逢いしたときから……ずっと
好きだったの」
令子が上ずったハスキーな声になって、とぎれとぎれに言った。
「ぼくだって……」
淳はいっそう強く令子を抱きしめた……。
朝、淳は目をさました。鴇色の厚手のカーテンの隙間から洩れてくる晩秋の
淡い光に、彼は昨夜はめ忘れたままの腕時計をかざして見た。ちょうど七時だ
った。毎朝の習慣で、まえの晩何時に寝ても、七時になるときっと目を覚まし
てしまうのだ。隣りの令子は彼の方に背を向けて、かすかな寝息をしながらぐ
っすりと眠っている。彼は令子を起こさないように、一人でそっとベッドから
抜け出した。
淳はリビングへ行き、カーテンを窓一枚分だけ開けてみた。斜め前方から差
し込んでくる晩秋の淡い陽光が、ベージュ色のカーペットに細長い光の影を形
作っていた。今日も晴れのようだ。淳は更に広くカーテンを開けると、大きな
透明の窓ガラスを通して外の景色を見渡した。
すぐ目のまえの、神宮の杜のちょうど真上のあたりに、あわい朝もやが雲の
ように横に長くたなびいている。その朝もやのはしの方に、新宿の超高層のビ
ルの群れが、昨夜の令子の言葉のとおり、遠い蜃気楼のように浮かび上がって
いた。
小田急線の電車の音が聞こえてきた。淳はふと今日が土曜日であることを思
い出した。昨夜眠ったのは、もう三時に近かったろうか。よほど疲れたのか、
令子の寝室からは物音ひとつ聞こえてこない。いや、昨夜のようなことがなか
ったとしても、彼女はまだ寝ている時間なのだろう。いつも何時ころ起きるの
だろうか。何時でもいい、起きるのを待っていよう。そして彼女が起きてきた
ら、二人でこれから今日一日の予定でも話し合おう……淳は窓際の椅子に静か
に腰を下ろした。
どこから飛んで来たのか、十羽あまりの鳩の群れが、神宮の杜の上をさっき
からしきりに舞っていた。それは昨夜の令子の言葉のとおり、一羽一羽はっき
りと見えるのだった。
(完)