#2898/5495 長編
★タイトル (RGJ ) 94/12/15 10:52 (196)
わくらば 四の一 城 成夫
★内容
ふた月あまりが、慌ただしく過ぎていった。
その後、淳は気にかけながら心ならずも、忙しさにかまけて一度もわくらば
へは顔を見せていなかった。そうした彼のところへ、ある日とうとう待ちかね
たように令子から電話がかかってきた。
「会社のかたには、お電話するの初めてなのよ」
こう前置きして、彼女は先週も電話したが淳が出張だったこと、彼の口利き
であれから開発部の人が三組も来てくれたこと、参宮橋の近くに最近マンショ
ンを借りたことなど、かいつまんで説明した。
「それでお店の方はどんな調子?」
「おかげさまで、先月の終わりごろから急にはやり始めたの。時間によっては
お席がなくなってしまうこともあるのよ」
令子のいつもの高音が、いっそう高く弾んで聞こえた。淳に直接「お店に来
て……」ということは一言も言わなかったが、明日は土曜日なのでさっそく彼
はわくらばを訪れることにした。
仕事の関係で、淳がわくらばのドアを叩いたのは、もう十時をかなり過ぎて
からだった。ドアの内側で淳を迎えたのは、まずとよ子だった。
「城戸さんったら意地悪ね。来てくれるって約束しておきながら、あれからふ
た月になるのに、ぜんぜん何の音沙汰もないんだもの」
「ごめんごめん……気にはなってたんだ」
淳はこの前と同じボックスに掛けながら、悪い事でもしたかのようにしきり
に弁解した。
「あれからずっと忙しかったんだよ。今日だって仕事を終えてすぐに駆けつけ
て来たのに、もうこの時間なんだ」
「わたし城戸さんのこと、まだかまだかと思って毎晩待ってたのよ」
「ぼくもそうじゃないかと思って、気にはしてたんだ。それじゃお詫びのしる
しに、何かおいしいものご馳走するよ。何でもいいから言ってごらん」
「ほんと! どうもご馳走さま……それじゃわたしコーラいただくわ」
淳は「あんがい安上がりなんだね」と言おうとして、喉まで出かかった言葉
を危うく押し殺した。
淳の頼んだ中瓶のビールといっしょに、自分用のコーラが出されると、とよ
子はさっそくストローに口をつけながら言った。
「城戸さん、ノーベルへお勤めでしょ」
「うん……どうして知ってるの?」
「あれから学園の事務室で、同窓会名簿を調べたの……たしか高校の十三回の
ご卒業でしょ」
「そんなこと調べてどうするの?」
「だってとても興味あるんだもん……年上の男の人ってすごく魅力的なんだ。
若い人は何となく頼りなくて……」
彼女はテーブルに目を落としたまま、なかば思わせぶりに、なかば独りごと
のように言った。そして何か急に思い出したように顔を上げると、
「ママもたしか、以前ノーベルにお勤めしてたんでしょ」
「うん、よく知ってるね」
「このまえ偶然にママから聞いたの。城戸さんの一階下のフロアにいたんです
って?」
「…………」
「わたしね、メルヘン作ったのよ。聞いてくれる?」
「ほう! ぜひ拝聴したいもんだね。どんなメルヘン?」
「それじゃ最初から始めるわね……むかしむかしある会社に、すごく魅力的な
男性と、若くて美しい女性がお勤めしていました」
「何よ、それ……」
淳はとっさに自分と令子とのを言っていると感づいて、とよ子の言葉を遮ろ
うとした。だが彼女は淳の制止に応じようとせず、
「いいから黙って聞いてて……ふたりは偶然にも、同じ学校の出身でした。そ
れに住まいもごく近くでした。ある日ひよんなことで、二人は顔を合わせるこ
とになりました。そしてそのまま二人は熱い、熱い恋に……」
「よしてくれよ。先輩をからかうものじゃないよ」
「でも図星でしょ」
「いや、とんでもない見当ちがいだ」
「むきになって弁解するところが怪しいわ」
「ぼく帰るよ」
淳の声は、自分でもびっくりするほど大きかった。
カウンターの中で客の相手をしていた令子が、淳の声にすぐとんで来てとよ
子の隣に掛けた。
「ママ、何とか言ってくれよ。とよ子さんにとんでもない誤解されてるんだ。
ぼくとママが熱い、熱い恋をしたんだってさ!」
「いゃあねぇ、とよ子さんったら……城戸さんとはお友だち以上の何でもない
わよ」
「…………」
「わたくしだって、そんなこと言われたら怒るわよ」
「…………」
「いくら親しくなっても、言っていいことと悪いことがあるのよ」
「…………」
「ごめんなさい。城戸さん……近ごろの若い子ったら、すぐ不躾なことを言う
んですから……」
令子が、淳ととよ子の顔をかわるがわるに見ながら言った。
「ごめんなさい。だめね、わたしって……お客さまのお相手ができなくて……」
とよ子は、今までとは別人のようにしょげ返っていた。
「いいさ、分かればいいんだ。それじゃ気を取り直して、三人でいっしょに飲
み直そうか」
淳は前に置いてあった三つのグラスに、なみなみとビールを注いだ。
小一時間があっという間に過ぎてしまった。十一時になると、とよ子がまた
申し訳なさそうに一人だけ先に帰っていった。
淳のボックスは、令子と二人きりになってしまった。閉店に間もない店内は、
客がひとり減りふたり減りして、だんだんと寂しくなっていった。
「お客さまの帰り具合で、だいたい何時ごろか分かるの」
隣のボックスにいた客を見送ったあと、令子がまた淳のところに戻って来て
ポツンと言った。淳はふと昼間の電話で、彼女がマンションを借りたと言って
いたのを思い出して訊いてみた。
「令子さんのマンションって、どの辺なの?」
「小田急の参宮橋からすぐのところよ。ここからだとタクシーでほんの五分く
らい……ぜひ一度いらして……」
「今夜は?」
「せっかちなかたね。だめよ今夜は……」
令子は軽く受け流したかにみえたが、話題を変えようとはしなかった。
「朝……といっても、わたくしの起きるのは遅いんですけれど、神宮の杜の上
にもやが淡くかかって見えるのよ。ときどきその上で舞っている鳩の群れが、
一羽一羽はっきりと見えるの。それに左手には新宿の超高層のビル群が、もや
の上にまるで蜃気楼のようにそそり立ってるの」
「素晴らしいとこらしいな。ぜひ行ってみたいね」
「それに夜景がすばらしく綺麗なのよ。新宿や渋谷のネオンがビルの上に見え
るの。それに十二階で目を遮るものって何もないから、遠く銀座のネオンまで
見えるのよ」
「やっぱり、今夜行ってみたいな」
「せっかちなかたね。今夜はだめって言ったでしょ」
と、彼女はだめを繰り返した。
「お部屋は1LDKだから狭いわよ。でも一人っきりで、家具もまだあまり入
れてないからガランとした感じ……」
「東京の一等地に、ひとりで1LDKはぜいたくだよ」
「でも、マンションの中でうちが一番せまいのよ。家賃だっていちばん安い方
よ」
「安いったって……今の東京の住宅事情を考えたらもったいないな」
「家族のほかには、まだ誰も来たことないの。城戸さんがいらしたら最初のお
客さま………」
「ぜひ、最初のお客さまになりたいものだね」
「わたくし、今夜は少し飲み過ぎたみたいね、こんなことを自分からひとりで
ぺらぺら喋るなんって……」
たしかに、令子はだいぶ酔っているようだった。目のまわりがほんのりと紅
に染まっているばかりでなく、心なし喋り方にもそれが感じられた。
気がつくと、店内には淳のほかに客は一人も残っていなかった。ホステスの
ひとりが、帰り支度をして令子のそばへ来た。
「ママ、お先に失礼します」
彼女はちょっと流し目で淳の方を見ながら言った。
「あら、もうそんな時間だったの! わたくし、お喋りしててぜんぜん気づか
なかったわ」
「あとはドアの戸締まりだけですから……」
「どうもありがとう。気をつけてね。わたくしも後からすぐ帰るわ」
令子はソファーに掛けたまま、ホステスの方に顔を向けて言った。
ホステスが帰るといつしか音楽もやんでいて、店内は無気味なほど静まり返
ってしまった。淳は何となく、落ち着かない気分に駆られて言った。
「すっかり長居しちゃったな。ぼくもそろそろ帰らなきゃ……」
「城戸さん、お願い! もう少しいらして……」
「でも、もう閉店なんじゃない?」
「お店の方はいいのよ。錠を下ろしておきますから……」
「いま、後からすぐ帰るって言ったじゃない?」
「ああ言っておかないと、女ってうるさいのよ」
彼女はそう言っていったん立ち上がると、内側からドアの錠を下ろして戻っ
てきた。
「城戸さん、もっとお飲みになる? 閉店後だから、あとはサービスよ」
「そう……悪いな。それじゃ今度はロックにしてくれる?」
「珍しいのね。オンザロックなんって初めてよ」
彼女はまたカウンターの方に立って、氷の入ったジャーを持ってくると、淳
の隣の空いている席に目をやった。
「ねえ、そちらへ掛けてもいいかしら……」
「いいよ、誰ももういないもの」
彼女は淳の横に自分のグラスを並べて置くと、いったんソファの端に軽く腰
かけ、さらにそのあと腰を浮かせてぴったりと彼に寄り添った。ホステスたち
の視線がなくなったせいか、彼女は急に大胆になったようだった。淳はこのま
え深夜喫茶でアベックシートに並んで掛けたときよりも、ぐっと身近に彼女を
感じた。
「ねえ、何かお話して……音楽が止んでしまうと、黙っているのがすごく不安
なの」
「大丈夫だよ」
淳は令子の腰に右手をまわして抱き寄せた。彼女の息づかいが荒かった。
「令子さん、今夜はかなり飲んだみたいだな」
「ええ……わたくし、こんなお仕事しててもすごく弱いのよ。シングル二、三
杯でもうだめなの。心臓がドキドキしてしまって……」
彼女は、飲みかけたグラスに目を落としたまま言った。
「これからどうする? 二人でまた、どこか出かけようか」
「わたくし、今夜はもうだめ。このまま真っすぐ帰るわ」
「そう……残念だな。それじゃぼくも帰るよ」
淳はすなおに引き下がった。このまえ令子に断られたので、いざとなると彼
はひどく消極的になっていた。
だが、帰ると言いながら令子はいっこうに腰を上げる気配がなかった。
さっきから何度か、令子は自分のグラスに手を伸ばした。
「こんなお仕事していても、酔って帰るなんって初めてなのよ」
「…………」
「今夜は城戸さんとご一緒だから、わたくし安心して酔っちゃった……」
彼女は淳の顔を見つめながらそう言うと、またグラスを手に取ろうとした。
「今夜はもうやめといた方がいいよ」
淳は彼女のグラスを、テーブルの端にどかしながら言った。
「令子さん、一人じゃ帰れそうもないな……」
そう言ったあと、一瞬淳は次の言葉をためらっていた。自分はこれから令子
をどうしようというのか? 彼女の酔ったのにつけこんでどうかしようなんて、
自分はそんな卑劣な人間なのか? だがもう一人の自分が、しきりに心の奥底
で囁き続けていた。いや、これは彼女が自分からチャンスを作ってくれている
のだ。このまま何もしないで帰るなんって、それこそ野暮というものじゃない
のか……そう無理に自分に言い聞かせて納得させると、次の瞬間さっきから考
えながら言いそびれていた言葉を、彼はごく自然に口にしていた。
「心配だから今夜はぼく、令子さんを送って行くよ」
令子は淳の顔を見ながら、黙ってうなずいた。
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