AWC わくらば 三の一         城 成夫


        
#2895/5495 長編
★タイトル (RGJ     )  94/12/15  10:36  (200)
わくらば 三の一         城 成夫
★内容
 二年あまりの年月が、何事もなくすぎていった。
 淳は大学を出てそろそろ十年選手になるのだが、相変わらずまだ独身を続け
ていた。これといって特別な理由があるわけではない。入社そうそうの令子と
のほろにがい体験にしても、別に彼の結婚を妨げているわけではなかった。む
しろ今ではそれは懐かしい昔語りとして、彼の胸の中にときどき泡のように浮
かび上がってくるにすぎなかった。

 ある日、淳がひとりでレポートを書いているところへ、風間が思いがけない
情報を持って駆けこんで来た。
「城戸さん、ホットニュース、ホットニュース!」
「何だい? だしぬけに……びっくりするじゃないか。君にはこの前も担がれ
たからな。その手には乗らんよ」
と、淳は顔だけ風間の方にむけて言った。
 それはつい半月ほど前のことだ。風間に「社長が呼んでいる」と言われて、
何事か! と思って青くなってとんで行ったら、社長というニックネームを持
った隣の三課の課員が淳の席で、たばこを吸いながらにやにやして待っていた
ことがあった。あのときの淳の慌てようは、のちのち迄も課内の語り草になっ
たものだ。あのとき以来、淳は風間の大仰なゼスチュアには警戒するようにし
ている。だが、風間は淳の言葉をさえぎるように言った。
「嫌だな、城戸さん……まじめな話ですよ」
 確かに風間の眼差しはまじめそのものである。
「あまりいいニュースじゃないんですけどね。覚えてるでしょう……総務部に
いたボッシュのこと……」
 ボッシュと聞いて、淳はにわかに心臓が高鳴るのを覚えた。彼は書きかけの
レポートから目を離すと、椅子を回して風間の方にからだを向けた。
「彼女ね、離婚したそうですよ」
「離婚!……」
 淳は一瞬、声をつまらせた。あれからしばらくの間、令子に対する心のわだ
かまりは残っていたものの、二年の歳月はそのすべてをきれいさっぱりと洗い
流していた。
「彼女、結婚生活は一年とちょっとしか続かなかったらしいですね。離婚の理
由ははっきりしないんですけど……」
 令子の顔を思い出しながら、淳は彼女が気の毒でたまらなくなった。一方、
そんなことをホットニュースだなどと平気で言っている風間の気がしれないと
思い、ちょっと不愉快な気分になってきた。
「でも、ホットニュースっていうのはその事じゃないんですよ」
 いち早く淳の気持ちを察してか、風間はすかさず続けた。
「さっき総務部の人から聞いたんですけどね。彼女、去年の暮れから新宿でバ
ーをやってるんだそうです」
「ほう! そりゃほんとにホットニュースだ」
 淳は思わず椅子からからだを乗り出すと、自分でもびっくりするような大き
な声で言った。
 令子のことを覚えている人は何人かいるとみえて、淳の机のまわりに三、四
人の課員が集まってきた。
「あのボッシュがねえ……」
「意外な一面があるんだなぁ」
 彼らは口ぐちに同じような言葉をくり返していた。
 淳とて同じ気持だった。ずいぶん変わったものだと思う。令子のお嬢さま育
ちの一面しか知らない淳には、その同じ令子がバーを始めたなどということは、
全く夢想だにしなかった事だった。たった今まで彼女のことを気の毒だとばか
り思っていたのに、淳は心の底に忽然と、何かうきうきしたものが湧いてくる
のを覚えた。
「どうだい風間君、ちかぢかに二人で彼女のバーへ乗り込んでみないか。彼女
きっと喜んでくれると思うよ」
「いや、私は遠慮した方がいいんじゃないですか。彼女にふられた身ですから
ね。その私がお客づらして、ずうずうしく乗り込んで行ったりしたら、彼女き
っと屈辱に感ずると思いますよ」
「うーん……そんなものかね」
「でも、城戸さん行かれるんだったら、お教えしときましょうか。場所は新宿
三丁目、なんでも明治通りをはさんで、伊勢丹の反対側の裏通りあたりらしい
ですよ。店の名は“わくらば”っていうんだそうです」
 わくらばと聞いて、淳は何年かまえ同窓会の帰りに令子の家の近くでタクシ
ーを降りて、けやきの葉を踏みながら彼女の家まで歩いたときのことを思い出
していた。令子はあのとき淳の言った“わくらば”という言葉を覚えていて、
自分の店の名前につけたのだろうか。彼女は今でもあのときの事を、懐かしい
と思っていてくれるのだろうか……淳は今すぐにでも、令子のバーにとんで行
きたい衝動に駆られるのだった。
 ところで場所と店の名は聞いたものの、風間が一緒に行かないとなると、ど
ういう口実をつけて乗り込んだものだろうか。さきほど淳の回りに集まってき
た課員たちにしても、わざわざ新宿まで出かけて行くほど関心のある人はいな
いようであった。どうしたものかいろいろ思案しながら、また幾週かがすぎて
いった。

 秋に入って同じ開発二課の古参社員のひとりが定年で辞めることになり、そ
の歓送会が新宿の割烹でおこなわれた。
 歓送会にはほかの部課の課員も五、六人が加わり、全部で二十人を越す人数
だった。宴会をおえて、近くの酒倉でやった二次会まで淳は四、五人の課員と
いっしょだったが、そのあと新宿のメイン通りに出たとき、彼ひとりだけ信号
を渡りそこねて、ほかの人たちとはぐれてしまった。無理に彼らを追いかける
のも面倒になって、淳はそのあと、足のおもむくままにもと来た方へ引きかえ
した。
 そのあと、どこをどう歩いたのかよくは覚えていない。気がついてみると、
彼は伊勢丹の明治通りをはさんだ裏通りのあたりを、一人でふらふらと歩いて
いた。
 車がやっと交差できるくらいの狭い道路が何本もあって、その両側には間口
が三、四メートルの小さなバーが何軒ものきを連ねている。この界隈に知って
いる店もないので、彼は家に帰るつもりでもと来た方へ足を向けた。時間はも
う十時をかなり過ぎているようだった。
 そのとき、一軒の小さなバーのドアの前でふと彼は足をとめた。その店には
イルミネーションも何もなく、ただダークブラウンの木製のドアに“わくらば”
と横書きの四つの文字が浮き出ているだけなのである。その黒い楷書の文字も、
ドアの横についているガス灯をかたどったブラケットの薄暗い光に、ぼんやり
と照らし出されているだけだった。けばけばしいイルミネーションの林の中で、
この店だけがひとり孤独を守るかのように、ひっそりとただずんでいる……そ
んな感じだった。
 淳はもう一度ドアに目をやった。わくらば……どこかで聞いたような名前で
ある。微かな記憶が彼の目をしばしの間、そこに浮き出た四つの文字の上に留
めさせた。だが酔いの回った頭脳には、それがいつか風間から聞いた令子のバ
ーの名前であることも、また何年か前に彼女とかわした会話の中の言葉である
ことも、とっさに浮かんではこなかった。だから淳がわくらばのドアのノブに
思わず手をかけたのは、あるいはこの店の楚々としたただずまいに惹かれての
ことかもしれなかった。
 ドアをあけると左手がカウンターになっていて、奥のやや広いところにボッ
クスが二つ並んでいた。ボックスは一つがふさがっており、あとはカウンター
に客が二人いるだけだった。ドアを閉めてもう一度店内をふり向くと、ホステ
スたちの痛いような視線を淳は全身に感じた。
 その時だった。カウンターの中にいた女性のひとりが、急いでテーブルの端
を回ると、突然淳の目の前に立ちはだかった。
「あっ、伊予田さん!」
 淳はびっくりして、一瞬その場に棒立ちになった。
「驚いたわァ。城戸さんったらいきなり入っていらっしゃるんですもの」
 聞きおぼえのある、澄んだ高音が淳の耳を突いた。
「いらしてくださるんでしたら、前もってお電話でもしてくださればいいのに
……」
「いや、ごめんなさい。知らないで偶然ドアをあけたんです。そしたら急に伊
予田さんが出て来たんでびっくりしました。本当にごめんなさい」
 淳は何か悪いことでもしたかのような、うしろめたい気持になって一生懸命
に弁解した。
「意外でしたでしょ。わたくしがこんな所で、こんなことをして働いてるなん
って……」
 令子は自嘲気味にそう言うと、口のまわりに無理に笑顔を作った。
「伊予田さんが、新宿でバーを始めたっていうことは聞いてましたよ。一度ぜ
ひ行こうと思っていました。でもまさか、知らずに入ったバーがそうだなんっ
て、夢にも思わなかった」
「でも、せっかくお入りになったんだから、今夜はゆっくりしてらしてもいい
んでしょ」
 そう言われて、淳は何かほっとして救われた気持になった。
「勿論ですよ。伊予田さんさえ許してくれれば……」
「許すだなんって……でも、それじゃ中へお入りになって……」
 淳は客とも友だちともつかずに、入り口に突っ立ったままでいる自分に気づ
くと、令子の言葉に従って一、二歩店の中の方に歩きかけた。
「カウンターにお掛けになる? それとも空いてますからボックスの方になさ
る?」
「そうですね。それじゃボックスにしてください」
 淳は奥の方のあいた席を見ながら言った。
「それじゃ涼子さん、お願いね」
 彼女はカウンターの中にいるホステスに客の対応を頼むと、先に立って淳を
奥の方に案内した。奥は入口で見たよりもずっと広く、L字型に曲がった部屋
の先に、またボックスが二つ並んでいた。部屋の突き当たりには、象牙色の堅
型ピアノが据えられていた。
「ピアノのあるバーなんて、珍しいですね」
と淳は途中で立ちどまって言った。
「ええ、わたくしが使っていたのを家から運んできたの。家でのんきにピアノ
なんか弾いている場合じゃありませんもの」
「…………」
「音大の学生が、アルバイトで弾きに来てくれるのよ」
「伊予田さんは自分では弾かないんですか?」
「わたくしなんって、お客さまにお聴かせするほど上手じゃありませんもの…
…ときどきお店をあける前にひとりで弾くだけ……」
 そう言いながら、彼女はピアノのすぐ前の席を淳のためにとった。

「ところで城戸さん、わたくしがバーをやってるってこと、どなたからお聞き
になったの? 会社のかたには内緒にしてたんですけど……」
 席に着くや否や、令子は待っていたかのように切り出した。風間から聞いた
ことをそのまま話したものかどうか……一瞬淳は迷っていた。彼女は風間を袖
にしたということで、彼に恨まれていると思っているかもしれない……。
「飲みものを頼んでから、ゆっくりお話しましょう」
 淳はいったん令子の質問をかわすと、ウイスキーのストレートとおつまみを
少しだけ注文した。

 ソファーの背もたれに寄り掛かりながら、淳はあらためて目の前に掛けてい
る令子を見た。薄暗いダウンライトの光は、彼女の顔のすみずみまで十分に照
らし出してはいなかったが、それにしても彼女は少しも変わっていないように
見えた。結婚していろいろと苦労はあったと思うのだが、職業がらアイシャド
ゥが少し濃くなったくらいのもので、そのほかは三年まえに同窓会の席でいっ
しょに食事をした時そのままだった。一瞬淳はあのときの令子が、今こうして
目の前に掛けているのではないかという錯覚にとらわれるのだった。黒の生地
に金色の細いストライプの入ったシックなブレザーが、薄暗い店内に見事にと
けこんでいた。
 グラスに入ってウイスキーが出された。それをちょっと口に持っていくと、
スコッチの何ともいえぬ芳香が辺りにただよった。
「やはりスコッチはストレートの方がいいですよね。水割りにすると、ウイス
キーの旨さが分からなくなってしまうもの……」
 淳はいかにもウイスキーの通らしく言った。
「そうね。お客さまはたいてい水割りになさるけれど、お水で割ると何の銘柄
か分からなくなってしまうかも知れないわね」
「舌にのせて、とろけるような感じがいいんですよ」
 淳はグラスを手にしながら言った。

「ところで城戸さん、さっきのお話どなたからお聞きになったの?」
 淳がグラスをテーブルに置くと、それを待っていたように令子がまた言った。
「伊予田さん、開発部の風間ってご存じでしょう。やはり成恵出身の……」
「ええ、とても人好きのするかたでしょ」
 淳は、彼女が風間の名前を軽く受け流してくれたので、内心ほっと胸をなで
おろした。
「伊予田さんがバーを始めたって話ね、実は彼から聞いたんですよ。その時わ
くらばってお店の名前まで一応は聞いていたんだけど、さっきドアの前に立っ
た時はどうしても思い出せなくて……」
「それで、風間さんはどこからお聞きになったのかしら?」
「たしか、総務部の人に聞いたとか言ってましたよ」
「それで分かったわ。このあいだ総務部の人が二人で、城戸さんと同じように
ぜんぜん知らずに入ってきたの。きっとそこから洩れたのね」
「どうして会社の人に知らせないんです。伊予田さんだったら、ちょっと電話
しただけでとんで来る人、ぼくの回りだけで何人もいると思うんだけどな……
もし、よかったらぼく……」
「いやなの!」
と、令子は強い調子で淳の言葉をさえぎった。







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