#2892/5495 長編
★タイトル (RGJ ) 94/12/15 10:21 (143)
わくらば 二の一 城 成夫
★内容
城戸淳がノーベルに入社したのは、ほんのひと月ほど前のことである。
ノーベルは、昭和四十年代にはいって急速に成長した電気部品メーカーで、
その急速な成長ぶりとユニークな製品とで、全国的にかなり早くからその名を
知られ
た企業だった。事実、淳がまだ学生時代、ノーベルがまだほんの町工場
にすぎなかったころから、彼もどういうわけかその名をよく覚えていた。淳の
入社した昭和四十三年という年は、ちょうどノーベルの創立十五周年に当たっ
ており、また白鳥が羽根を広げたような、九階建ての瀟洒な本社ビルが完成し
た年でもあった。そして急増する生産に追いつけず、外部からかなり多くの技
術要員を募集していた。それで淳もこの募集に応募して、ノーベルに入社した
わけだった。
入社するとすぐ、淳は開発部二課という職場に配属になった。そこは彼にと
って願ってもない職場だったが、初めのうちは仕事の勝手がわからず、一日中
ぼんやりと専門書を読んでいるような日が多かった。
そんなある日の昼休み、淳が新聞を読んでいると、同じ二課の課員のひとり
が軽く会釈しながら、すぐ横にある空いた椅子にかけて大きな声で話しかけて
きた。
「城戸さん、成恵学園のご出身だそうですね」
「ええ、高校は成恵ですけど……」
淳はちょっとけげんそうな顔をして答えた。だが相手はそんな淳におかまい
なく、
「昨日、残業のときに課長から聞いたんですよ。それで家に帰ってから同窓会
名簿を
調べてみたんです。じつは私も成恵の出身なんですよ」
淳はあらためて相手の顔を見た。物理や数学の強そうな長頭形の頭に黒縁の
めがねという、いかにも学者らしい、やや神経質そうな顔だちである。だが話
しぶりはその外貌とはうらはらに雄弁で、いかにも磊落な感じだった。
「そうですか。それは何より心強いですね。よろしくお願いしますよ」
と、淳はあらためて軽く頭をさげた。
「こちらこそよろしく……私は城戸さんの二年後輩なんです。名前は風間とい
います。学校は成恵から西京大学の物理です」
「そうですか。ぼくは北東大学の電気……二年後輩っていうと、たぶん成恵在
学中に会っているはずですね」
彼の知的な風貌と雄弁さに押されぎみだった淳も、後輩と聞いてぐんと気が
楽になった。だがそれにしても、西京大学の物理の出身というからにはかなり
の秀才なのだろう。
「西京大の物理とはまた、すごいじゃないですか!」
淳は思わず、不見識な言葉を口にしてしまった。
「いや、東京から行ったんですから……まあ言ってみれば都落ちですよ」
と風間はちょっと照れたように、顔を赤らめて答えた。
「それで、ノーベルへは大学から直接はいられたんですか?」
「ええ、大学に求人が来た時、ノーベルはまだほんの中小企業にすぎなかった
んですが、わりに好きな仕事をやらせてくれると聞いたものですから……」
そのような社風は、入社したばかりの淳も何となく感じとっていた。
「それで……うちには外に、成恵学園の出身者は何人くらいいるんですか?」
「開発部には我々と、あとは部長秘書の三人だけです。でもほかの部にはかな
りいますよ。全部で二十人以上いるんじゃないですか。お偉方では営業本部長
の中井常務ね。あの人も成恵の出身ですよ。もっとも旧制高校の第一回の卒業
ですから、我々にはるかに遠い先輩ですけどね」
彼はちょっとおどけたように、肩をすくめて言った。
入社して半月ばかりは、まるで西も東も分からない淳だったが、そうした時
期もすぎて少しずつ仕事の要領が分かりかけてくると、とたんに彼のところに
も、ごっそり仕事が持ち込まれて急に忙しくなった。
開発という仕事は、基礎研究と違ってせいぜい一、二年先にターゲットを絞
り、具体的な製品について、多くの場合何人かのプロジェクトチームを作って、
調査・実験・試作・設計など、かなり広範な業務を進めていくのである。そし
てノーベルのやり方は、調査や実験によってある程度の見通しがつくと、いき
なり製品発表の期日を決めてしまって、逆に仕事のスケジュールをそれに会わ
せるのが常だった。したがって製品発表の期日が決められると、プロジェクト
ティームのメンバーは残業につぐ残業の毎日で、ときには徹夜や休日出勤とも
なりかねないというのが実状だった。
そんなある日、淳が残業の時間に実験につかう簡単な図面をかいていると、
風間が一枚のコピーを持ってきた。
「城戸さん、ノーベル成恵会の新しい名簿ができましたよ」
彼は隣りの空いた椅子に掛けながら、そのコピーを淳の机の上において言っ
た。
「ほう、名簿なんか作ったの……そりゃごくろうさんだな!」
淳はちよっと感心したように答えた。
「名簿なんか作るようになったのは、去年からなんですよ。去年はいってきた
後輩に世話好きなのがいましてね。こういう事になると、なんでも一人でやっ
ちゃうんです。助かりますよ」
「そうなの……それにしてもけっこう大勢いるんだな……」
淳は、一瞬そのコピーに視線を走らせながら言った。
「ぼくの名前ものってるのかな?」
「勿論のってますよ。城戸さんはノーベルだはまだ新しいけれど、成恵を卒業
されたのはかなり早い方ですからね……」
「…………」
「もし、城戸さんの名前を落としたりしたら私の責任ですよ。何って言ったっ
て先輩ってのは絶対ですからね……」
と、風間はしきりに先輩を強調した。
成恵学園はひとくちに学園といっても、幼稚園から短大・大学までのコース
がすべて揃っており、昔は旧制高校もあって、その中のどのコースに在学して
も同窓会員ということになっている。したがってノーベル成恵会という名のこ
の社内同窓会は、学歴も、職歴も、専門も、およそさまざまな人たちが名前を
連ねているのだった。
総勢で二十二人のそういう多彩な会員の中で、淳の名前は名簿の上から五番
目にのっていた。そして風間の名は、その二行下に並んでいた。
「技術屋にはわりにアラカルト組が多いんですけれど……」
と風間がつけ加えた。
「最近入社した事務屋は、ほとんどフルコースらしいですね」
アラカルトとは、高校なり大学なり一部のコースを成恵学園で学んだ人のこ
とを、そしてフルコースとは、幼稚園から短大・大学までをずっとこの学園で
通してきた人のことをいうのである。淳の在学していた頃から、生徒のあいだ
でそのように呼ばれていたので、とくに説明しなくても通じるのだった。
八月も末になって、淳はそのノーベル成恵会から一通の案内状を受けとった。
久しぶりに同窓会を開きたいというもので、日時は九月の第一金曜日のよる七
時から、場所は銀座の中華料理店とのことであった。入社したばかりの淳にと
って、三千円という会費はちょっと痛かったが、初めてのことでもあるので彼
は出席することにした。
その日、五時半の終業のチャイムが鳴ると、淳はめずらしく早めに仕事を切
り上げてひとりで会社を辞した。
有楽町で山手線の電車をおりて晴海通りへ出ると、ちょうどオフィスを退社
して帰るらしいサラリーマンやOLの群れにぶつかった。数寄屋橋から銀座四
丁目にかけては、まるで魚が急流をさかのぼるようで、ほんの二百メートルば
かりを歩くのに五分以上もかかる始末だった。日没の時間も夏にくらべるとめ
っきり早くなって、たそがれの銀座通りには早々と街路灯がともり、両側のビ
ルの側面や屋上には、赤や青のネオンがしきりに点滅をくり返していた。
“冠園”という名のめざす中華料理店は、そのにぎやかな銀座通りを道一本
うらに入ったところの四つ角に当たる、れんが色のタイルを張った六階建ての
ビルの二階にあった。このところ、めったに銀座などに出たことのない淳だっ
たが、案内状に書かれた地図をたよりに歩いて行くとすぐに分かった。
エレベーターの隣りにある、エメラルドのリノリウムを張った狭い階段を二
階にあがり、その正面の総ガラスのドアを開けると、中にいたボーイが「いら
っしゃいませ」と言って丁寧に頭を下げた。
「ノーベルの者だけど……」
淳はそう言って、ボーイに案内されるままに奥の方へ歩いていった。
その時だった。鉢植えの観葉用の大きなゴムの樹の陰で、立ち話しをしてい
た若い女性のひとりが、突然びっくりしたように淳の方を見た。レイコだ……
と、とたんに淳は直感した。
「あっ! あなたも成恵だったんですか?」
全く予期しないとっさの出来事だったので、何の抵抗もなく驚きの声が淳の
口からとび出した。
「あら! あなたも成恵?……」
彼女の方も同時に大きな目をさらに大きく見開き、顔いっぱいに驚きの色を
表して言った。
そのとき、淳に背をむけてレイコと立ち話しをしていたもうひとりの女性が、
彼の方をふり向いて言った。
「あら! レイコ、城戸さんを存じ上げてたの?」
それは淳の所属している、開発部の部長秘書だった。
「城戸さんって入社なさってまだ日も浅いのに、一体どこでお知り合いになっ
たの? ふたりとも隅におけないわね」
彼女は淳とレイコの顔を、代わる代わるに見ながら言った。
「そんなのじゃないのよ」
心なしレイコの頬は紅潮しているようだった。
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