#2891/5495 長編
★タイトル (RGJ ) 94/12/15 10:16 (109)
わくらば 一 城 成夫
★内容
淳は食事をしているすぐ斜め前に若い女性の声を聞いたとき、どういうわけか
今までにない異常な好奇心にかられた。
「あら! そこがいいわ。窓のそばで落ち着けるじゃない。それに誰にも見られ
ないし……」
最初の声はまさに近代女性を彷彿とさせる、歯ぎれのよい、弾むようなソプラ
ノである。
「そうね、そこにしようか。レイコ、あなた先に入ってよ」
そう答えた連れの女性は、アルトというよりはむしろ男声のバスに近い、太い
ボーイッシュな声だった。会話の様子から察すると、どうやら二人は淳が食事を
している同じテーブルの、真向かいの席に掛けようとしているらしい。その席は
つい今しがたまでやはり二人の若い女子社員が並んで食事をしていたのだが、今
は空席になっていた。
城戸淳は今日来客があった関係で、昼食のチャイムから三十分ほどおくれて、
この九階の社員食堂にやって来たのである。いつもはチャイムが鳴るとすぐに駆
け込むので、食事の席をさがすのにひと苦労するのだが、さすがにこの時間帯と
もなると食事をしている社員の数も減って、あちこちに空席が目立ちはじめてい
た。それで淳は、厨房の真むかいにある窓側の席で、大きなテーブルを独占する
かのように、食器をいっぱいに広げてひとりで食事をとっていた。
淳の席からは、大きな透明の窓ガラスをとおして、上大崎から白金台にかけて
の高級住宅地の、やや色褪せた赤やグレイの屋根が、大きなけやきやくすのきの
深緑のあいだに点々と見えていた。灼熱の暑さを思わせる雲ひとつない紺碧の空
は、遠くに目を移すにつれて次第にくすんだ色になり、地上の景色に吸いこまれ
る辺りはほとんど土色に近かった。
「ねえ今日はすいてるから、あなた一番はしにする?」
「そうね……」
もうひとりが気のなさそうな低い声で相づちを打つと、ふたりはセルフサービ
スの食器をのせたお盆を持って、椅子にはさまれた、人がやっと一人通れるくら
いの狭いすき間を、からだをやや斜めにして進んできた。そしてその姿が淳の視
野のはしの方にぼんやりと映し出されたとき、彼はひと目見たいという誘惑にか
られるままに、食事をしているそのままの姿勢で、上目づかいに彼女たちの上に
目を馳せた。
そのとき淳の目に映ったのは、かかとの細い白のヒールをはき、細かいひだの
入ったブルーのストライプのスカートにベージュ色のユニフォームの上衣をつけ
た、若い女子社員の姿だった。かっこうのいいスタイルが、しばしのあいだその
姿態の上に彼の視線をとどめさせた。そして更にその視線を、ふっくらとした胸
のあたりから首の辺へ、さらに顔へと移していったとき、思わず彼はハッと息を
呑んだ。そして彼の目は、長い髪で頬のあたりがなかば隠されているその横顔に
完全にくぎ付けになった。
忘れもしない、それはまだほんの四、五日前のことだ。一階から乗った五、六
人の社員がみんな途中の階でおりてしまい、せまいエレベーターは淳と、操作盤
のまえに立っている若い女子社員の二人きりになってしまった。
「何階までですか?」
女子社員が淳の方にちょっと視線をむけて、ぽつんとひとこと言った。
「七階お願いします」
淳の声に彼女は操作盤の方にむき直ると、黙って七階のボタンを押した。
こんな女性がいたのか……と思いながら、淳はあらためて操作盤のまえの女性
に目をやった。二十一か二になるだろうか……大きな目と、外国の映画女優のよ
うに先のつんと反った鼻とが印象的だった。軽く内側にカールした髪の毛は、自
然のものか、それとも自分で染めたのか、心なし茶色っぽく見えた。
次の六階で停まると、彼女はすぐにドアが閉まるように“閉”のボタンを押し
てエレベーターを降りようとした。
「あっ……どうも……」
淳の声に、彼女は軽く会釈しておりていった。
ほんの二、三十秒のあいだの出来事だったが、このとき彼女の映像は淳の眼底
に強く焼きついてしまった。そして今、食事をしている淳のすぐ目のまえに立っ
ているレイコという女性は、まさしくあのときエレベーターの中で逢った女子社
員その女(ひと)だったのである。
淳の視線に気づいてか気づかずにか、彼女はそのまま進んできて彼の真向かい
の席に掛けた。つづいてその隣りに連れの女性がかける。幅が一メートルにも足
りない向かいの席に掛けられると、淳はまともに彼女を見つめるわけにもゆかず、
まるで彼女に無関心ででもあるかのように、黙って下を向いたまま食事をつづけ
るより仕方がなかった。
「あなたお茶わん持ってきてくださる? わたくしお茶を入れてくるわ」
彼女の声は相かわらず、鈴を鳴らすような透きとおったソプラノである。その
余韻がまだ淳の耳の底から消えるか消えないかのうちに、彼女は近くの湯沸かし
器からお茶を汲んでくると、ふたたびテーブルの向こう側に立った。彼女は二つ
並んだ自分たちの茶わんにお茶をさそうとしたが、すぐ前の席で食事をしている
淳の茶わんがからなのを、目ざとく見つけたようだった。
「どうぞ……」
次の瞬間、彼女はそう言って左手で軽く蓋を抑えながら、やかんを淳のまえに
さし出した。
「あっ! どうもありがとう」
とたんに言葉だけ出はしたものの、淳は完全にあわててしまった。一瞬、彼は
自分のまえに伏せておかれている象牙色のプラスチックの茶わんが目に入らず、
きょろきょろしてやっとそれを探し当てると、ロボットのようなぎごちない仕草
で彼女のまえに差し出した。虚を突かれてあわてた動作が自分でもちょっと滑稽
に思えて、彼は思わず顔を赤らめた。同じ会社とはいえ、他の部課の女性から食
堂でお茶を入れてもらうのは初めてのことである。それもいつかエレベーターで
逢ったあのときの女性から……あわてるのも無理はない! 淳は何とか平静をよ
そおおうと、懸命になって自分に言い聞かせた。
食事をしながら、ふたりは同じ職場の上司や同僚のうわさ話に興じているらし
く、誰さんとか彼さんとかいった人の名前が、ときどき淳の耳に入ってきた。そ
のうちに、このあいだ入社のときに淳を面接した人事の課長の名前が、ちょっと
彼の耳にはいった。
「失礼ですけれど……」
淳は思いきって、ふたりの顔を交互に見ながら声をかけた。
「あなたがた、総務部のかたですか?」
レイコという女性が、びっくりしたように大きな目を淳に向けて答えた。
「わたくしたち、総務部の人事課にいるんです」
「そうですか……ぼくは開発部です。総務部のひとつ上のフロアですよ」
「あら……ほんと……」
彼女は隣りの女性と顔を見合わせて言った。
そのあと二人は今まで続けていたお喋りにもどると、相変わらず同僚のうわさ
話に興じている様子だった。だが、それはほとんどが淳の知らない人たちだった
し、ふたりの会話は内緒話のように小さな声だったので、セルフサービスの食器
置き場の騒音や、食堂の正面にすえられた大型テレビの音、それに食事中の社員
たちのそこはかとないざわめきなどに掻き消されて、あまりよくは聞き取れなか
った。
間もなく、淳は食事をすませてしまったので一人で先に席を立った。別れぎわ
に「お先に……」と声をかけたとき、レイコがこちらを見て微かに笑みを浮かべ
た顔が、いつまでも淳の脳裏から消えなかった。
(二の一へ)