#2861/5495 長編
★タイトル (NFD ) 94/11/19 10:15 (198)
『転校生』 第4章 ・峻・
★内容
四
三年生がいないので、何となく気の抜けた体育館の中で、終業式が終わった。
生徒たちは一旦教室にもどり、もう二度と使わない自分の机の中から持ち物を片づ
ける。みんな、今日でクラスがばらばらになることの感傷など少しもない様子で、に
ぎやかに笑ったりふざけたり、いつもの放課後と変わりがない。
ぼくは翔子の姿をさがした。彼女の机はすでに整理されていて、かばんもない。先
に帰ってしまったらしい。
もう同じクラスになれないかもしれないのに、とぼくは肩を落とした。
ぼくは何を期待していたんだろう。
ぼくがこれほど心配していることを、伝えようとしたのだろうか。
翔子に辛いことがあるなら、それを聞いて力になろうと思ったのだろうか。
ぼくはただ、春休みの間に、二人で会う約束をしたかっただけなのかもしれない。
その日は朝から雲が低く、なかなか気温が上がらなかった。放課後になるとますま
す雲が厚くなってくる。
傘を持ってこなかった。
高志は今日も柔道部の練習だと言うし、もう教室に残っている理由はない。
急いで自転車置き場に走った。
誰も見えない自転車置き場の仕切り板の陰から、目指す人の声が聞こえた。
「あなたたちには関係ないでしょ」
ぼくは異様な雰囲気を感じ取り、そろそろと声の方に近づいて、仕切り板の裏をの
ぞき込んだ。
前後に立った江藤と久保井に挟まれるように、翔子が立ちすくんでいる。
ぼくは翔子のあんな表情を初めて見た。狼狽と怒りで頬を紅潮させ、正面の江藤を
にらみつけている。
江藤は、翔子のそんな反応を楽しむかのように笑いながら、押し殺した低い声で何
か言った。
「……いいのかよ」
ぼくにはそれだけしか聞こえなかったが、翔子の顔が蒼白に変わった。
ぼくは十歩ほど後戻りして、駆け足を始め、足音を大きくしながら三人の見えると
ころまで飛び出していった。
三人が驚いたような顔で振り向く。
「ああ、こんなところにいたんだね」
ぼくは息を弾ませた。
「浅井さん、英語の中田先生が捜していたよ。視聴覚室の鍵を早く返してくれって」
翔子はぼくの顔を見つめ、急に思い出したように校舎の方へ駆けていった。
ぼくは翔子の姿が校舎の中に消えるのを確かめてから、呆気にとられたような顔付
きの江藤と久保井に、じゃあ、さよなら、と言って、自転車に飛び乗った。
◇ ◇ ◇
ぼくの楽しみは、自転車で街を走ることだった。
小学生の頃、心配性の母親は息子が事故に遭うことをおそれて、自転車をなかなか
買おうとはしなかった。
六年生になるとき青森に転居し、交通の激しい都会ではなく、すぐまわりに田畑や
川辺が広がるおだやかな環境になったとき、ようやくぼくの懇願を受け入れて、自転
車を買い与えてくれた。
ぼくはひとりで、毎日のように新しい自転車に乗って、知らない町や農道や、川岸
の道を走った。家に帰ると地図を出して、自分の冒険の行程を確かめた。地図の上で
見る道筋は、たったこれだけかと思うほど短いものだったが、知らない世界を自分の
足と目で確かめる喜びと興奮は、いつまでもぼくを夢中にさせた。
今年になって、また東京に戻ってきても、もう自転車を取り上げられるようなこと
はなかった。
うちにいてもあまりテレビを見ず、同じ年頃の少年たちが夢中になっている漫画雑
誌を買ったこともないぼくにとって、自転車での散歩がほとんど唯一の気晴らしだっ
た。
その夜、ぼくは夕食がすむと八時過ぎに家を出た。
在校生名簿で住所は確かめてある。
ゆっくりとペダルをこいだ。昼間いまにも降り出しそうだった天気は、結局持ち直
して、わずかだが星さえも見えている。二十分ほど走ってから、街路灯や門柱の明り
をたよりに、番地の表示を確かめていった。
路地を二本ほど入ったところで、『浅井』の表札を見つけた。
小さな二階建ての家だ。両側にも同じような家がならんでいるうちの、中ほどの一
軒だった。おとなの背丈ほどのブロック塀に囲まれているが、ほとんど庭らしいもの
はない。玄関の脇に名前の知らない木が植えられ、一階のひさしの上まで枝を伸ばし
ている。
二階の窓に明りが灯っている。
ぼくはそこが翔子の部屋だと勝手に決めた。
自転車を止め、カーテンの向こうに人影が写るのを待った。
五分ほどたたずんで、なにも起こらないまま自転車をこぎだした。
それでも満足だった。
翔子は毎日、あの家に帰って、あの部屋で眠るんだ。
ぼくはそれを確かめて安心した。
今日学校で、翔子の追いつめられたような表情を見たあと、ぼくの胸に重くわだか
まった不安が、すこしずつ消えていく。
これでゆっくり眠れる、とぼくは小さな独り言を言った。
「柴田、何をしていたんだ」
後ろから急に投げかけられた声に、ぼくは飛び上がった。
振り向くと、江藤と久保井が電柱によりかかって、薄笑いを浮かべている。
「ああ、きみたちか。ちょっと腹ごなしに散歩をしていたんだ」
「おまえ、翔子の部屋を覗いていただろう」
ぼくはコソ泥や痴漢の現場を見つかったみたいに、顔がつっぱった。
「そんなこと……」
しどろもどろになる。
「翔子のパンティでも、かっぱらおうとしていたんだな」
二人が下品な声で笑う。
ぼくは屈辱と怒りで震えるほどなのに、何も言えない。
「おまえ、ちょっとくらい成績がよかったからって、いい気になるなよ」
「翔子とべたべたしやがって」
それを聞いて、ぼくはおかしくなった。
なんのかんの言ったって、こいつら焼き餅をやいているだけなんだ。この二人はこ
れまでも、つまらないことでぼくに嫌がらせをしたり、おどしをかけていた。要する
に、こいつらも翔子が好きだけど、相手にされていないということだ。
ぼくは彼女の心を少しはつかんでいるよ。
あの笑顔はぼくだけのものだ。
きみたちが知らない夏休みの秘密も、ぼくは知っているんだ。
ぼくは秘かな優越感を味わっていた。
「なんにも知らないくせによ。おまえ、あいつが去年の夏休みに何をしたか、知って
んのかよ」
久保井が言った。
ぼくは虚を突かれた。
なんでこいつらがそのことを知ってるんだ。
ぼくはひどく不愉快になって、なにも言わずに自転車を走らせた。
「すけべ」
「パンティ泥棒」
嘲笑を背に受け、逃げるようにぼくは走り続けた。
どうしてあいつらが知っているんだ。
高志が話すはずはないし、まして翔子自身があいつらに言うはずもない。
翔子が家出をした夜、おふくろさんが心配して心当たりに電話をしたというから、
その先から話が伝わったんだろう。
いくらそのように納得しても、喉の裏に張り付いたような苦い不快感は消えなかっ
た。
こんなことをするんじゃなかった。
ぼくはその夜の散歩を後悔していた。
◇ ◇ ◇
ぼくはうつうつとした夜を過ごし、翌朝になっても陰気な顔で母親をいぶかしがら
せた。
そんな不機嫌さも、昼過ぎにかかってきた一本の電話が跡形もなく消し去ってしま
った。
「もし暇だったら、一緒に泉公園に行かない」
まったく思いがけないことだった。翔子からのデートの誘いだ。
ぼくは狂喜した。
「うん、いいよ。うちのすぐそばだから、ぼくは何時だってかまわない」
二時に公園の池の前で、と約束した時間がなんとも待ち遠しい。
どう隠そうとしても、頬からこぼれ落ちる締りのない独り笑いを見て、母親と妹が
顔を見合わせている。
約束の時間ぴったりに、翔子は自転車に乗ってきた。
濃紺のジーンズに白いセーターを着た翔子は、あふれる春の日差しの中で輝いて、
いつも学校の制服姿しか見たことのないぼくの目に、まぶしいほど新鮮に映った。
日曜日なのに公園はすいていた。ぼくたちは池のボートに乗った。
「柴田くん、前の学校で好きな女の子なんかいたの?」
翔子は、ボートの中で急にそんなことをきいてくる。
「いないよ」
きみほど好きになった人なんて、いるはずがない。
後の半分は口には出さない。
「勉強ばっかりしてきたのね」
「そんなことないけど」
ぼくは馬鹿にされたような気がして、少しむくれたようだ。
「ごめん。柴田くんがただのガリ勉じゃないことくらい、わかってるわ。ねえ、そっ
ちにいっていい?」
翔子は、ぼくの返事も聞かないうちに、あぶなっかしく席を立ってぼくの左に座り
なおす。
もちろん、ぼくが反対するはずはない。
柔らかなセーターの腕がぼくの肘に触れる。
ぼくたちは子供のようにはしゃぎながら、二人で並んでオールを漕いだ。
最初はふらふらと迷走していたボートが、自由に操縦できるようになってくる。ぼ
くは、翔子と二人で一つのことをやり遂げていく喜びに浸っていた。
「あっちへ行ってみようよ」
翔子が太鼓橋を指さす。
池の東側はだんだん狭まって、最後は小川となって外に流れ出す。その少し手前に、
小さな橋が架かっている。
ぼくたちは息をそろえて、そのそばまで漕ぎ進んだ。
橋の下は、半円型の低いトンネルになっている。その下にボートは静かに入ってい
った。
少し腰を浮かせれば指先が届きそうなほど低い天井には、いっぱい落書きがしてあ
る。傘の下の恋人たちの名前。いつもなら馬鹿馬鹿しいとしか思わないのに、俊一と
翔子というのは似合うかな、など考えている自分に気付いて、ひどく恥ずかしくなっ
た。
「なにを考えているの」
橋の裏側をながめているぼくの顔を、両側から挟むように翔子の手が触れた。驚い
て振り向くぼくの唇に、温かい唇が押しつけられてくる。
ボートが揺れ、ぼくは翔子の体を支えようと手を伸ばす。ぼくの右手にセーターに
くるまれた柔らかな膨らみがさわった。こんなことをしてはいけないのかもしれない
と思いながら、ぼくはその手を離すことができなかった。
手のひらでおし包むように押さえると、翔子の小鳥のように速い鼓動が伝わってく
る。
じっとそのままで、ぼくは時間の立つのを忘れた。
それはほんの十秒くらいのことだったのかもしれない。
翔子は唇を離し、胸の上のぼくの手をつかんでそっとどけた。
「もう行きましょう」
彼女は明るい声で言った。
「うん」
ぼくの声はすっかりうわずっている。
ぼくたちはなにも話さずにオールを動かし、桟橋に横付けしてボートを下りた。
自転車を置いた場所まで来ると、翔子が寂しそうな顔でぼくを振り返った。
「わたしこれから、行かなくちゃいけないところがあるの。ごめんね」
なぜ?
もう、別れなくてはいけないの?
そうか。
きっとあんなことをしたのは、翔子にとっても突発的で思いがけないことだったん
だ。それで今になって、急に恥ずかしくなってしまったんだろう。
「また、会いたい」
ぼくは期待を込めて言う。
「また、会おうね」
翔子の目は少し潤んだように光っている。
「うん」
ぼくは笑顔でうなづく。
ぼくたちのことは、いま始まったばかりだ。これから毎日だって会える。
翔子の後ろ姿を見送ったあと、弾けるような喜びがこみ上げてきた。
ぼくはあの子にキスをした。
胸に触れることも許された。
きっと公園の中を、にやにや笑いながら飛び跳ねていたと思う。
デートの誘いがあったとき、ぼくはなぜ翔子があんなに辛そうにしていたのかを尋
ねようと思っていた。
しかし今、そんなことをすっかり忘れて、最高に幸福だった。
うかれ気分のぼくは、翔子の苦しみにまったく気付いていなかった。