#2862/5495 長編
★タイトル (NFD ) 94/11/19 10:17 (142)
『転校生』 第5章 ・峻・
★内容
五
翌朝になっても、ぼくの歓びと興奮は変わらなかった。
いつも寝起きの悪いぼくが、母親の手をわずらわせずに一人で目を覚まし、朝食の
前にマラソンまでしてしまった。
なにか動き回っていないと、体の芯がほてったように落ちつかない。
公園の池の周囲を一走りして戻ってくると、母親が不審そうにぼくの顔をのぞき込
む。
「どうしたの? 熱でもあるんじゃないの」
ぼくは鼻の穴から煙でも噴き出していたのかもしれない。
「お兄ちゃん、なんかへん。気持ちが悪い」
妹までが薄気味悪そうにぼくをにらむ。
なんとでも言え。
春の花の香りを吸い込みすぎたぼくは、こんなふうに永遠の幸福の中を漂っていた。
昼近くになって電話が鳴り、お友達から電話よ、という母親の声がした。
翔子だ。
昨夜、電話をして翔子の声を聞きたいという衝動を、あまりしつこいと嫌われるか
もしれないと思い直して、ようやく押え込んでいたぼくは、自分の部屋を飛び出し、
階段を駆け下りた。
呆れ顔の母親の手から受話器を奪い取るようにしてかじりつく。
「柴田か」
電話の主は男の声だった。
ぼくは声に滲む落胆の表情を隠せなかった。
「はい、そうだけど」
「江藤だ。おまえに話がある。いますぐ学校に来い」
なんでこんなにいい朝に、一番いやなやつから電話があるんだ。
「なんの用なんだよ。話なら電話でいいだろう」
不機嫌に言った。
「大事な話だ。体育館の前で待っている。三十分以内に必ず来い」
「どういうことなんだ……」
電話は一方的に切られた。
ついに決着をつけるときが来たということなのか。
彼らとはいつかこういうことになるかもしれないと思っていた。
ケンカなんてしたことがない。言い争いを聞いているのもいやだ。
これまでのぼくだったら、決してそんなところに行きはしなかっただろう。
少しも迷わなかった。
すぐ、二階の部屋に戻ってジャンパーを着込んだ。
◇ ◇ ◇
体育館の入口に江藤と久保井が立っている。
やはり二人だ。
その時のぼくには、恐れるものは何もなかった。相手が何人だろうと戦い抜く自信
があった。
二人の真ん前で自転車を下りる。
「話って、なんだ」
二人はぼくの頭から爪先までをながめまわすようにしてから、手招きをした。
「来いよ」
彼らに続いて体育館の中に入った。
ここが決闘の舞台なのか。
本当は土足で入ってはいけないのだけど、などと思いながら、まだ新しい板張りの
床を歩いた。
久保井が、あっちだというように、顎で突き当りの用具倉庫の扉を示す。
跳び箱やマットなどをしまってある、教室ほどの広さの部屋だ。あそこなら騒ぎが
おきても目立たないということだ。
ぼくは、息を吸い込んで扉を押した。鍵は掛かっていないし、すでに電気もついて
いる。準備はできているんだ。
ぼくは先に立って中に入った。
部屋の中央の、ものが置かれていない少しひらけた所まで進んだとき、奇妙な物音
に気付いた。
奥の方に積み上げた跳び箱の後ろあたりから、駆けてきたばかりのような荒い呼吸
と、猫が鳴くような声が聞こえる。
なんだろう。
ぼくは警戒しながら近づき、跳び箱の裏側に回り込んだ。
声の正体を知って、ぼくは立ちすくんだ。
ズボンとパンツを膝までおろしかけた、男の妙に白い尻があった。その陰に、顔は
わからないが、乱れたスカートの裾と、まくり上げられた白いセーターの下にのぞい
た乳房が見える。
ぼくはセックスの経験もないし、その具体的なイメージすらはっきり持っていなか
ったが、いま見ているそれが、『その最中』もしくは『そのやりかけ』であることく
らいはすぐにわかる。
決闘をするつもりで、だれかのその現場に踏み込んでしまったらしい。
気恥ずかしさと、バツの悪さに顔が火を噴いたようになる。
これでは黙って出ていくしかないと思って振り向くと、江藤と久保井がにやにや笑
ってこっちを見ている。
ぼくはもう一度、男女の方を見た。
こちらに首を回して不敵な笑いを浮かべているのは、矢部だ。
自分の目が信じられない。
その後ろで体を丸め、驚愕の瞳を見開いているのは、翔子だ。
どうして、彼女がこんな所に!
こいつ、翔子を無理やり犯そうとしている。
ぼくの大切な人を汚そうとしてしているんだ。
いままで一度も抱いたことのないほどの怒りが噴き上がった。
ぶっ殺してやるっ!
ぼくは生まれて初めて逆上した。
視界の隅に、壁ぎわに並べられた旗竿が映った。
運動会で競走の入賞者たちがその前に並ぶ、数字の小旗がついた二メートルほどの
竹竿だ。ぼくは数歩横に跳んで、そのうちの一本をつかんだ。
なぜその時、ぼくが二等賞の旗を選んだのかはよくわからない。
赤地に白抜きで『2』と入った旗のついた竿を握りしめて、頭の上に振りかぶろう
とした。
しかし、竿の下にはスタンドがはまっていた。鉄製の大きな円盤のまん中に三十セ
ンチくらいのパイプが溶接してあって、そこに竿が差し込まれている。砂利でも詰ま
っているのか、それがどうしても抜けない。
興奮しきっているぼくは、別の旗竿を取ることを思い付かなかった。
重いスタンドごと、竿を肩にかつぐようにして、かたきの方へよろよろと一歩を踏
み出し、わけのわからない叫び声を上げながら、渾身の力でしなった竹竿を振り降ろ
そうとした。
そのとき、何かのはずみで竿の尻尾からスタンドが抜け落ちた。
ぼくはバランスを失って前によろめき、マットの縁につまづいて、顔を跳び箱の角
にまともに打ちつけた。
唇の角が切れ、鼻血が噴き出してくる。
くらくらする頭を振りながら立ち上がり、今度は素手で相手に打ちかかろうとした。
そのとき、翔子が叫んだ。
「出ていってっ!」
ぼくはその言葉が、後ろの江藤と久保井に投げつけられた非難だと思った。
「なにを見ているのよっ! はやく出ていきなさいよっ!」
しかし、彼女の目は明らかにぼくをにらんでいる。激しい怒気を含んだ叫びが、ぼ
く自身に向けられたものだと知ったとき、ぼくは茫然として体が凍り付いたように動
かなくなった。
なにがなんだか、わからない。
「おまえ、目障りだから帰れってよ」
矢部が笑いながら追い払いような手振りをする。
「どじ」
「間抜け」
江藤と久保井が嘲笑を浴びせかけてくる。
ぼくは用具倉庫を飛び出した。
泣きながらペダルをこぎ続けていた。
こんな屈辱を受けたことがなかった。
こんなひどい仕打ちを受けたことがなかった。
国道をどこまでも走った。
赤信号も無視して交差点を突き切り、急ブレーキをかけたトラックの運転手に罵声
を浴びせられても、止まらなかった。
ぼろぼろの心を引きずるようにして家に戻ったときは、十時を過ぎていた。
何も言わずに自分の部屋に上がろうとするぼくを、母親が見とがめて怒鳴りつける。
「俊一、何時だと思っているの。夕ご飯になっても戻らないし、心配かけるんじゃな
いわよ」
ぼくは母親の非難を無視して、階段を駆け上がる。
「浅井さんからさっき電話があったのよ。何時になってもいいから、帰ったら電話を
してほしいって言っていたわよ」
誰とも口を聞きたくないし、誰の顔も見たくない。
自分の部屋に飛び込むと、パジャマに着替えることもせずに、ベッドに潜り込んだ。
いったいなんなんだ。
さっぱりわからない。
昨日はむこうからデートに誘っておいて、今日は矢部と……。
翔子が気楽にあんなことをする女だとは、思いもよらなかった。
江藤たちはそのことをぼくに見せつけて、絶望したぼくの顔を見て面白がっている
にちがいないんだ。
電話をしてくれだって?
どんな気でいるんだ。
屈辱、嫉妬、憎悪。
あらゆる黒々とした感情が、ぼくの頭の中で渦巻いていた。