AWC 印刷屋の女 一      城 成夫


        
#2852/5495 長編
★タイトル (RGJ     )  94/11/14  12:10  (130)
印刷屋の女 一      城 成夫
★内容
 その店は新道を一本裏手にはいった、ロータリーからほぼ二百メートルば
かりのところにあった。“東信印刷”と、いかにも印刷屋らしい明朝体で書
かれた白地に黒の看板が、いやでも目に入るような位置に立っている。店の
前で車をとめて外へ出ると、十一月とはいえ海抜千メートルの高原の朝の空
気は肌を刺すように痛かった。
 型ガラスのドアをあけて中にはいると、地味なグレイの事務服を着て長い
髪をうしろに垂らした若い女性が、カウンターの向こう側に立った。
「おたく、年賀状の印刷やってますか?」
 ぼくは左手をズボンのポケットに入れたまま、無造作に訊いた。
「はいK」
「これ、五十枚あるんだけど印刷してください」
 そう言いながら、ぼくは今しがた軽井沢駅前の郵便局で買ったばかりの、
ポリエチレンの袋に入った年賀はがきを差し出した。
 カウンターの正面で、社長らしい金縁のめがねをかけた小太りの中年の女
が、さっきから大きな声でずっと電話をかけ続けている。そのすぐ横の、あ
け放しになったスチールのドアの向こう側が印刷場になっていて、手差しの
オフセット印刷機や活版印刷機が、限られたスペースにところ狭しと並べら
れている。不連続な機械の騒音に、事務員はドアがあけ放しなのに気づいた
らしく、ちょっと後ろをふり向いたが、別に閉めようともせずまたすぐぼく
の方に顔を向け直した。
「本文はどれになさいますか?」
 そう言いながら、彼女はカウンターの隅に置かれている年賀状の印刷見本
をぼくに示した。B4サイズの厚手の紙に、一色刷りの文例が十例ほど横に
並んでいた。
「これにして下さい」
 ぼくはその中で、いちばん簡単な“謹賀新年”とだけ印刷されている文例
を指さしながら言った。
「ご住所とお名前は、おもてに印刷なさいますか? それとも裏にGG」
 変なことを訊くなGGとぼくは思った。年賀状なるものを交換するように
なってかれこれ四十年、その間に何千枚という賀状をもらったが、本文と住
所氏名をべつの面に印刷したものをぼくは受けとった記憶がない。別の面に
したら、印刷の手間が二倍になることくらいは素人のぼくにだって分かる。
「本文と同じ面でいいですよ。べつの面にしたら印刷の手間が大変じゃない
の!」
 ぼくはちょっと眉間に皺をよせて、いぶかしげな表情をあらわにして答え
た。
 彼女の出してきた用紙に、ぼくは住所と氏名、それに電話番号を書きこん
で訊いた。
「何日くらいで出来ますか?」
「今、ちょっと混んでますのでKKたぶん十日くらいでできると思うんです
がKK刷り上がりましたらお電話します」
 ぼくは彼女に印刷代を確かめようともせず、そのまま外へ出た。印刷代が
高いの安いのと言ってみたところで、せいぜい千円かそこらの違いであろう。
この界隈には外に印刷屋はない。たかだか千円やそこらの違いのために、わ
ざわざ中軽や追分まで、往復十キロから十数キロも車を飛ばすなんてばかげ
ている「「こんな計算がぼくにはあった。
 ぼくはそのまま、近くのスーパーで妻に頼まれた買い物をしたあと、まっ
すぐ家に帰った。

 ぼくがここ軽井沢に住むようになったのは、つい半年ほど前からのことで
ある。若いころから一度住んでみたいと思ってはいたのだが、別荘を持つよ
うな身分でもないので、十年ほど前に買った土地をそのまま放っておき、三
十年余りのサラリーマン生活を終えるのを待って、やっとこの春そこに家を
建てて住みついたわけだった。
 日本を代表するリゾート地だけあって、住んでみるとそこでの生活は、冬
のあいだちょっと寒いのを我慢しさえすれば、まことに快適そのものである。
四季折々にそれぞれの顔があって、この地に別荘を持つ多くの都会の人たち
のように、避暑のために夏の何日かを過ごすだけではちょっと勿体ない気が
する。むしろ外の季節の方が、大都市の雑踏がそのまま引っ越してきたよう
なあの喧噪もなくゆっくりと落ち着けるように思う。
 だがしかし何にもまして僕が感じ入ったのは、純朴で、親切で、正直で、
働き者で、そして何ともおおらかなこの土地の人たちの事であった。万を越
す買い物をしたというのに、こちらから連絡しないでいたら何カ月もの間、
何の請求もなしに放っておかれるという事もあった。生き馬の目を抜く「「
とまで言うのはいささかオーバーな気もするが、せちがらい東京のど真ん中
に十年以上も住んでいた僕に、この地での体験は何かと驚くことが多かった。
この土地に、がめつい奴などというのは一人もいないのではないかェェいっ
時こんなことさえ僕は思ったものだった。
 だが来軽七か月目にして、年賀状の印刷をめぐるある奇妙な体験をするこ
とによって、ぼくのこの甘い幻想は無惨にも打ち砕かれることになったので
ある。

 次の週に入って三日ばかり、ぼくは東京に滞在することになった。大学の
同窓会にかこつけての上京だったが、ほぼひと月ぶりの事なので、いざ上京
してみると同窓会のほかにも、病院通いやら、銀行まわりやら、買い物やら、
サラリーマン時代の悪友との付き合いやらで、結局のところ東京のマンショ
ンに三日も留まることになってしまったのだった。
 三日目の最終の特急で、ぼくは軽井沢の自宅に帰った。
 食堂で軽い夜食をとりながらテレビを見ていると、突然妻が言いだした。
「今日、東信印刷から電話があったわよ。年賀状が刷り上がりましたから、
取りに来てくださいってGG」
「そう、わりに早かったんだね」
「それが凄かったのよ」
 妻は憤懣やるかたないといった口調で訴えるように言った。妻の話からす
ると、電話のやりとりはこんな調子だったらしい。

 朝の十時ごろ印刷屋から電話がかかってきた。「料金はGG?」と訊くと
五千円だと言う。
「今、主人が留守にしてますので、帰りましたら取りにうかがいます」
 妻はこう言って、いったん電話を切った。だが後になって五千円という印
刷代は何となく高いような気がした。家計簿を調べてみると、はたして昨年
東京の印刷屋に払ったのは、おなじ一色刷り五十枚でただの二千円である。
念のため電話帳で調べて、近くの印刷屋を二カ所ほど当たってみたが、何れ
も「二千円から二千五百円でしょう」という返事だった。妻はさっそく、く
だんの印刷屋に電話をかけた。
「五千円っていうのは、ちょっと高すぎるんじゃないですか? 去年は東京
の印刷屋さんで二千円で刷ってもらったんですよ」
「うちでは、三年前からずっと五千円でやってるんです」
 先刻とは別の女の声だった。
「変ね! ほかの印刷屋さんに電話で訊いても、二千円から二千五百円でし
ょうって言う返事だったわ」
「そんなこと言うんなら、ほかの印刷屋に頼んだらどうなんですかッ」
「それは主人と相談しないとKK」
「だいたいお宅のご主人は、印刷を頼むときに幾らだか訊かなかったんです
かッ? ご主人が帰ったらすぐに電話させてくださいッ!」
 電話はそのままガチャッと切れた。

「凄いけんまくだったのよ。まるで、こっちが何か悪いことでもしておこれ
てるみたい。わたし一日中、気持ちがむしゃくしゃしてKK」
 妻は何度も「すごいKK」をくり返した。
「おもしろいじゃないか!」
 ぼくはテーブルの上に頬杖をついたまま、何くわぬ顔で言った。

 妻の話を聞いた瞬間、ぼくは印刷をたのむ際に料金を確認しなかったので、
刷り上がった時点で吹っかけてきたのだ「「と直感していた。二倍半もの料
金を吹っかけられて、黙ってそのまま払うという手はない。こんな法外な料
金を払わされて、あとでもし人にでも知れたらそれこそ物笑いの種だ。それ
に第一、こういう手合いは世の中のためにも、とっちめてやらねばならない。
だが何にも増してぼくがこちんと来たのは、客に向かって「帰ったらすぐに
電話させてください」などと言う、女の失敬千万な言葉だった。よし、おも
しろい! 一本とってやろう。そしてあの高慢ちきな女の鼻をへし折ってや
ろうヲヲ。
 こういう相手に出くわしたとき、一本とってやろうなどと考えて妙に張り
切ってしまうのが、ぼくのいつもの悪い癖だった。そのため逆に相手に一本
とられてしまう「「という苦い経験も一度ならずあったのだがヲヲ。

                            (二へ続く)







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