AWC 印刷屋の女 二     城 成夫


        
#2853/5495 長編
★タイトル (RGJ     )  94/11/14  12:16  (155)
印刷屋の女 二     城 成夫
★内容
 翌日おそい朝食をすますと、ぼくはさっそく印刷屋へ電話をかけた。電話
口に出たのは、この前の事務員らしい若い女の声であった。
「おたく一色刷りの年賀状、五十枚印刷するといくらになるの?」
 ぼくは念のため、まず最初にこのように切り出した。ぼくにだけ印刷代を
吹っかけてきたのだとすれば、二千円から二千五百円という返事が返ってく
るはずであった。そうすれば、すぐにその金額まで値切ることができる。妻
が「すごい」と言っていた例の女に、詫びを入れさせることだってできる。
だが事務員の答えは、ぼくの予想とは違うものであった。
「百枚までは五千円です」
「ずいぶん高いんだね。東京じゃたったの二千円だったけどねGG」
「ちょっとお待ちください」
 こう言ったまま、電話はいったん途切れた。
 しばらくして今度はべつの女の、男っぽい、太い声が聞こえてきた。
「昨日も、奥さんから電話があったんですけどねGG」
「あゝKKそれでな、あんたから電話しろって言われたんで掛けたんだよ」
 ぼくはわざと横柄な口調で言った。舐められてたまるかKKといった気負
いもあった。
「よそで二千円で印刷するとこ、あるんだがなKK」
「よそはよそ、うちはうちです。うちでは本文の横にいろいろ書き込めるよ
うにと、住所と名前を別の面に印刷するサービスまでやってるんですよ」
「そんなもの頼んでやしないよ」
「KKKK」
「あんた昨日、うちの女房に『そんなこと言うんなら外の印刷屋に頼んだら
いいだろう』って言ったそうだな」
「ヲヲヲヲ」
「いいこと教えてくれたなヲヲ恩に着るよ」
 ぼくは少しやくざっぽく、凄みをきかせて言った。
「それじゃ、さっそくあんたの薦めに従って、ほかの印刷屋に頼むことにす
るよ」
 このように言えば、相手は「それは困ります」と言うはずであった。印刷
済みの年賀はがきを客が引きとらないなどと言いだしたら、業者は困るのが
当然である。一人分の印刷代がぱぁになったら、四人分、五人分の利益が吹
っとんでしまうに違いない。だから恐らく相手は四千円、三千円と金額を下
げてくるだろう。そうしたら一気に二千円まで値切ってやろう「「これがぼ
くの腹であった。
 だが次の瞬間、ぼくが耳にしたのは全く意外な言葉だった。
「どうぞヲヲお好きなようにヲヲ」
 女は何のためらいもなく、さらりと言ってのけたのである。実のところ、
ぼくは女がこんなふうに出てこようとは夢想だにしていなかった。だが、も
う後へは引けない。ぼくは出るにまかせて言った。
「あの葉書、こっちはもう要らんからなヲヲ風邪をひいたら鼻紙にでも使う
んだな」
「それはヲヲ」
 相手が言い終える前に、ぼくはガチャッと受話器を置いた。たぶん「それ
はどうも、ありがとうございます」とでも言おうとしたのだろう。やった!
と、ぼくは跳び上がった。言い終えるまえにガチャッと電話を切られた女の
悔しそうな顔が、一瞬ぼくの眼前に浮かんだ。
 「肉を斬らして骨を斬る」太平洋戦争の末期に、よく陸軍の軍人たちがお
題目のように唱えていたこんな前時代的な言葉が、このとき不思議にぼくの
脳裏をかすめた。印刷代を値切ることには失敗したけれど、損得勘定でいえ
ばこちらは葉書代として二千余円の損、相手は印刷代として五千円の機会損
失である。それに新しく葉書を買い直してほかの印刷屋に依頼したとしても、
新規に買う葉書代と印刷代の合計は、女の言っていた印刷代より安い四千円
くらいですむはずだ。相手の印刷屋にこちらより多い損失を強いた上に、こ
のあとの出費も請求された五千円より少なくてすむのだ。言ってみれば、肉
を斬らして骨を斬ったのだ。一本とった上に、損得勘定で言っても完全にこ
ちらの勝ちだ。
「あなたが、印刷代を確かめもしないで頼むからよ」
 妻はしきりにぼやいていたが、ぼくは一人ですっかりいい気分に浸ってい
た。

 だが一つだけ、ぼくにはどうしても腑におちない点があった。それは二倍
半もの料金をとっていながら、この印刷屋がちゃんと経営を続けてきたとい
う事実である。昨夜、妻が言っていたことが本当だとすると、この業者は三
年以上にわたって、この法外ともいえる料金で年賀はがきの印刷を続けてて
きたことになる。近くに同業者がいないとはいえ、どうしてこんな目茶苦茶
な経営が成り立つのだろうか。
 いろいろと考えた末にぼくが何となく気になったのは、このまえ印刷屋を
訪れたときの女事務員とのやりとりのについてであった。今までに依頼した
業者は印刷見本を出してくるとき、特にこちらから要求しなくても、必ずい
っしょに料金表をしめすか、さもなければ口頭で料金を伝えてくれたもので
ある。だが彼女の場合いっさいそのような事はしなかった。だから客の多く
はぼくと同じように、料金のことなどたいして気にもしないで印刷を頼んで
しまうだろう。なにしろこの界隈にほかに印刷屋はない。いわば独占企業な
のだからKKK。
 もしもこのとき客が料金を聞いてみたとしても、前年の年賀状の印刷代が
いくらかだったなどと覚えている人は少ないだろう。だからあの印刷屋へ頼
みにきた客は、料金を示さないことにさしたる疑義も差し挟まず、つい店を
信用して年賀はがきを渡してしまうのだ。
 そもそも五千円おいう印刷代は、どのようにしてはじき出されたのだろう
か。ぼくのような筆無精者はべつとして、今どき年賀状を印刷するくらいの
人はたぶん最少でも百枚は刷るだろう。ところで百枚の年賀はがきを業者に
渡すということは、その代金である四千余円を前金として払うのと同じこと
なのである。つまり客は四千円の前金を払って、刷り上がってから五千円の
印刷代を請求されて初めてびっくりするという訳だ。もっともこれは、後か
ら世間相場を知ってのことなのだがKK。
 もしもこの時点で、ぼくのように客が刷り上がった年賀状の引きとりを拒
否したとすると、どういう計算になるであろうか。客の損は四千余円、印刷
屋の機会損失は五千円で、一見したところ印刷屋の方損失が大きいかに見え
る。しかし、この時点で客があらためて百枚の年賀はがきを買い直してほか
の印刷屋に依頼するとなると、新規に買う葉書の代金の四千余円と印刷代が
安くても二千円で、少なくとも六千円は新しくかかるのである。だから客は
不本意ながらも五千円の印刷代を払って、年賀状を引き取らざるを得なくな
るというわけだ。
 だいたい二千円で印刷する業者がいるのだから、印刷にかかる実費はそれ
以下のはずである。したがってあの業者は、年賀状の印刷一件について三千
円以上、つまり印刷に要した費用の実に一・五倍を上回る暴利をむさぼって
いたことになる。だからこそぼくが「ほかの印刷屋に頼むからKK」と言っ
たときも、「どうぞお好きなようにKK」などと平然と言ってのけられたの
だ。なるほど、別に違法行為というわけでもないし、こういう商売も立派に
成立するわけだ。完全に盲点をついた商法といえよう。ぼくは女のこのした
たかな手口にただ舌を巻くばかりだった。

 ところで僕がもっと社交家で筆まめで、四百枚、五百枚というような大量
の年賀状を依頼していたら、どのような結果になっていたであろうか。年金
生活の今のぼくに、何万円にものぼる葉書の代金は、そう簡単には捨てがた
い金額である。女の「どうぞお好きなようにKK」と言う言葉に、たぶん僕
はかなり慌てて答えたであろう。
「それじゃこのあいだ渡した葉書は返してもらうからね」
 当然のこと女は言うであろう。
「冗談じゃありませんよ。葉書はとっくに印刷ずみですよ。葉書が欲しいん
だったら、早いとこ代金を持って取りに来るんですねッ」
 そしてぼくは妻にせつかれて、敗北感を噛みしめながら、すごすごと年賀
葉書を取りに行ったことだろう。

 騒ぎから、ひと月あまりが過ぎた。暮れもぎりぎりに押し迫って、ぼくは
さっきから、ひとり書斎に閉じこもって年賀状の宛名を書いている。あれか
ら間もなく小諸の印刷屋に依頼して十日ほどまえに刷り上がったのだが、生
来の筆無精で、何でもぎりぎりにならないと書こうという気が起こらないの
だ。
 窓から見えるから松の林は、もう疾うに枝々の葉を落としてしまった。か
ら松の樹々の梢のあいだから見える初冬の空は、抜けるように碧い。その紺
碧の空から、風に運ばれてくるのか、雪がときおりひらひらと花びらのよう
に舞ってくる。
 このところ、晴れていても日中の気温はかなり低いのだろう。四、五日ま
えに降った雪が二十センチばかり積もって、いっこうに融ける気配はない。
雪はこのまま年をこして、根雪になってしまうのだろうか。どこからとも吹
いてくる微かな風に、から松の枝に降りつもった雪が、音もなく吹雪のよう
に舞い落ちてくる。
 積雪が、音を吸収してしまうのだろうか。あたりはここ数日、シーンと無
気味なくらい静まりかえったままだ。二百メートルばかり離れたところを通
っているバイパスの車の音も、雪が積もってからというもの全く聞こえてこ
ない。
 まわりの別荘にも、ここひと月ばかり全く人の気配はない。自動車通りか
らだいぶ入っている上に、途中にちょっとした坂道があるので、大雪が降っ
たりすると忽ち通行が困難になる。一日一回の郵便や新聞の配達も、ややも
すると途絶えがちだ。まさに“文化果つるところ”の感が深い。
 中廊下に通ずるドアがあいて、妻がお茶を持って入ってきた。
「あなた、この年賀状、一枚いくらについてるのか分かってるの?」
 妻は、ぼくの書いている年賀状の宛名を、横からのぞきこむようにして言
った。
「あゝ、分かってるよ。百二十円だろう」
 ぼくは葉書の上にボールペンを走らせながら、おうむ返しに答えた。

 妻はいまだに、最初の印刷屋に渡した五十枚の年賀はがきにこだわってい
るらしい。
                              (完)












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