#2789/5495 長編
★タイトル (SKH ) 94/10/ 5 1:20 (158)
>OVER THE END OF THE WORLD (2) クーバチャイ
★内容
あれから何日経っただろう。夜が明けてから気温が上がるまでの数時間を歩き、昼
間はテントの日陰で休息をとって、夕暮れから気温が下がるまで歩いて眠る。こんな
生活を送っていたら誰だって、時間の感覚を失ってしまう。キアラは体内時計のリズ
ムが狂ってしまっていることを素直に認めた。あれから、五日経っている。彼女の腕
時計が教えてくれた。テントから顔をだすと、真っ白な太陽がまだ高いところにあっ
た。三時間ほど眠っていたようだ。隣のコクランとジェイコブスのテントの前にはソ
ーラーパネルが砂の上に広げられ、無線機のかすかな空電が聞こえていた。
「そうだわ」キアラは力なくそうつぶやいて、シュタルクの形見のコンパクトMDプ
レーヤを取りだそうとテントの中に顔を引っ込めた。
シュタルクの死はあっけないものだった。夜明けからラクダの上で揺られていたわ
ずかな時間に、誰にも気づかれず、胸の上にSONYのMDを置いて、静かに事切れ
ていた。ラクダの上からシュタルクを降ろすとき、MDが砂の上に音を立てずに落ち
ていた。
「形見だ」
ピサノがそれを拾い上げて、キアラに手渡した。そして、ピサノは自分の作業に戻り、
つまり、砂の上に横たわったシュタルクの亡骸にファインダーを向け、シャッターを
切った。
動かなくなったシュタルクをみんなで眺めた。泣いていたのは、ラクダに乗ったま
まのザイツだけだった。「畜生、畜生、今度は俺の番じゃねえかよ」ザイツは、鼻汁
をたらしてそう言った。
「埋めてあげなきゃ」キアラが無感情につぶやいた。半開きの口と焦点の定まらない
印象的な目をしたシュタルクを囲んでいる誰からも、つづく言葉がなかった。シャッ
ターを切る音が数回。シュタルクの上に毛布がかけられ、その上に砂をかけて墓標と
した。それから、しばらく歩き、砂の丘をいくつか越えて、墓標が見えなくなって休
息した。
キアラはバックパックの上に置いたサングラスとMDを持ってテントの外に出た。
隣のテントからはあいかわらず、無線機の空電が聞こえている。入り口にかかったシ
ートを少し開いて中を覗いた。マットレスの上に横になっている二人の男がいる。
「パスカル」キアラが小さな声で彼を呼んだ。
「ん?」ぴくりとも動かず声が返ってきた。
「パネルを少し借りたいけど、いいかしら」
「いいよ。充電中だから、終わったらまた繋いでくれよ」
キアラは、ソーラーパネルをバッテリーからはずして自分のテントの前で広げた。
シュタルクがいつもやっていたように、テントの中にコードを引っぱり込んでMDプ
レーヤに充電を始めた。液晶に充電率を示すゲージが延びていく。一杯に延びきった
ところで、また0にもどる。これで一%の充電だ。キアラは両膝を抱えて座り、ゲー
ジの伸び縮みを見守りながら、シュタルクが最期に聞いた音を想像し、彼の焦点の交
わらない落ちくぼんだ二つの目を思い出した。
「ジェイ、」キアラはつぶやいて、立てた両膝の上に額を乗せて泣いた。
ひとしきり泣き、顔をあげ、泥水のようになった涙を拭い、充電を止めてヘッドホ
ーンを耳に差し込んだ。再生スイッチを押す。目を閉じる。静寂。しばらくして、音
が始まった。何かがこすれあう微かな音。周期的に吹く風。
「キアラ、」キアラの両耳でそう言った。キアラは息が詰まった。聞き間違えること
のない、やつれてはいるが、シュタルクの声だった。「愛してる」そして、またしば
らく、風の音と間違えたシュタルクの息づかい。
「・・始まった、たぶん、GPSも、ラジオも、使えなくなっていると思う」
しばらく風が吹く。
「すまない、」
しばらく風。
「言い出せなかった」
風が吹き始める。ずっと風。弱くなり、そして、止んだ。こすれる微かな音。
キアラは、涙を拭きながら微笑んだ。何が始まったの、ジェイ? あなたはいつも
私を楽しませてくれたけど、これは、ホントに最期の体を張った命がけのジョークな
のかしら? 残念だけど、私は笑えないわ。でも、あなたが残した謎も、神経質な笑
いのタネも、この旅が終われば、すべてはっきりして、私は納得しながら高笑いでき
るかもね。そのためにも、生きて帰れってことね。いいわ、どんなことをしても生き
残って、ローマに帰った時に大笑いしてやるわ。ジェイ、愛してるわ、とても。
東の空が白み始める前に、全員で食事をとった。四日前から水の配給量は徐々に減
らされ、それを補うためにラクダのぬるくて生臭い血がステンレスのマグカップに注
がれていた。最初は誰もが無理に飲み下していたが、今では朝のフレッシュジュース
として食卓に欠かせない一品に数えられている。今朝からは、食事中の水の配給は完
全にストップし、それは一日の発汗を補うための、1クウォート水筒に回された。
「悪い知らせがある」スワードが食事の手を止めて車座に座った真ん中に置かれたラ
ンプの明かりを見つめて言った。「食料も残りがいよいよ怪しくなってきた。この調
子じゃ、もって十日だ」絶望的で沈鬱な表情を浮かべた。
「もう一つあるわ」キアラが言った。「今朝ラクダが一頭倒れたの。貧血だと思うわ」
そう言って、ザッヘルのほうを見た。
「そうさ、突然ぶったおれて。危うく下敷きになるところだった」
「死んじまったのか?」コクランが言った。
「注射針が刺さったままだったから、とりあえず今朝のみんなの分は抜いてきたわ」
キアラが応えた。
「死んじまったのかって、聞いてんだよ」
「倒れたっていったでしょ、死んだのよ」
「クソッ!」コクランはそう言ってラクダの気配のする闇の方に顔を向けた。
「あなたって最低ね。一人の人間よりあんな薄汚いラクダが大切だなんて」
沈黙がおりた。手に持ったカップを下に置く者、口の中に残ったコンビーフを静かに
飲み下す者、くぐもった咳払い。
「そんなつもりで言ったわけじゃないさ。奴だってどっちが大切かはわかりきってる。
不意打ちを食らえば誰だって驚くだろ? 死にかけてたジェイが死ぬのと、今朝まで
元気だったラクダが死ぬのとじゃあ、」ジェイコブスは、言葉を切って少し考えた。
「やっぱり、ジェイの方が驚いた」そう言って苦笑した。辺りに少なからぬ愛想笑い。
みんな笑いたがっている。とくにこんな状況の中では、笑う事が大切だ。
「ごめん。うまく考えがまとまらないんだ。え〜と、」
「下手な詮索はよせ」輪の外側を向いていたコクランが内側に顔を向けてた。
「はっきり言ってやる、おれにとってはシュタルクよりもラクダの方が大事だ」辺り
が一気に気色ばんだ。「シュタルクは今どうしてる? 奴はひからびて、砂の上だ。
しかし、ラクダは俺達を生かす為に生きてる。奴が死んじまった事を今更どうこう言
ってもしょうがないだろ。ラクダが一頭死ぬたびに、俺達の寿命が縮まっていくと思
えよ」
コクランがそう言い終わると、辺りの気色ばんだ気配はそれぞれの内側に引きこもり、
沈黙することを強要された。
アルミのパイプで組んだ簡単な担架にザイツを乗せて、ラクダの背中にうまく固定
するのは大仕事だ。ついこの間までは、自分で歩いて、ラクダの背中に登るのを手伝
う事ですんでいたのに、今では歩くこともままならなくなっている。シュタルクに近
づいていく。
「グルグル回ってる」暗闇の中でザイツがキアラの耳元でつぶやいた。
「もうすぐ連絡が着くからそれまで頑張って」目を閉じて眠っているとばかり思って
いたザイツの声に、キアラはこたえていた。応えながら、固定するロープを強く結ん
だ。ザイツは、顎を小さく引いて応えていた。
「もう手を離していいわ」
シュタルクを支えていたピサノとスワードが担架から離れ、砂の上に置いてあったバ
ックパックをそれぞれ取って、ラクダから離れ、みんなのところへ行った。キアラも
ザイツの枕元に水筒を置いて、みんなのところへ。
二時間半歩いて朝の一番寒い時間がやってきた。黄色くよどんだ朝の霞の中で吐く
息が白くなり、バックパックの横に吊るしたステンレスのマグカップの表面には霜が
降りている。砂もいくらか水気を含んで重く足にまとわりつく。どうしてこんな事を
しているのだろうと、キアラは、ふと考えた。何年も前から、もしかした生まれたと
きから、ずっとこんな事をしていたような気がする。ナトリウムが不足して思考がま
とまらなくなってきているのかしら。
キアラは足を止めて、背中のバックパックのポケットから塩化ナトリウムの錠剤を
一つ取り出して、口に含むと水筒の水と一緒に飲み込んだ。横をザッヘルに連れられ
た空っぽのポリタンクをいっぱい吊るしたラクダが通り過ぎていく。ラクダが来た方
を振り返ると自分たちが歩いてきた跡がうねった砂の海の波頭をいくつも越えて見え
なくなるまでつづいている。
「グルグル回ってる」キアラがつぶやいた。自分たちがこの砂漠に刻んできた足跡も
一晩たてばきれいに吹き消される。朝になって初めからやり直し。確かに、グルグル
回っている。そう、自分の場所を失ってから。
「キアラ!」先に進んでいたジェイコブスが呼んだ。白い息を吐きながらキアラは歩
き始めた。
オアシスの目印が見つからない事にコクランはもちろん、全員が苛立っていた。最
大の危機は飲み水がついに底をついた事だ。未だかつて、ラクダがこんなに潤い、水
をたっぷりと詰め込んだ革袋に思えたことはなかった。そんな状況の中でたった一つ
良いことがあったとすれば、ザイツの状態が上向き始めたことだ。神の奇跡、または、
嫌がらせとしか言いようがない。
ジェイコブスは双眼鏡から目を離して、熱く焼けた砂の上に片膝を着き、絶望的に
うなだれた首を左右に振った。毎日毎日、一時間とあけずに無線も何度も呼んだ。G
PSも試した。眠らずに受信を待ち続けた日もあった。ラクダはあと、四頭になって
いた。
「だめか、」ジェイコブスの横に立っているコクランがつぶやいた。「だめか、」も
う一度言った。焼けた熱い空気が襟首から流れ込み、皮膚から水気を奪い温度を下げ
る。
「どうして!」コクランが叫んだ。「俺は国に帰って、偉大な手記を書いて、世界中
を講演旅行して、社交界にデビューして、モナコのぴちぴちプリンセスと結婚して、
フェラーリを転がして、余生を楽しむつもりだったのに!」そこまで一気に叫んだ。
こんな状況の中で冗談を言えるほど人間が出来てる奴じゃないから、本気なんだろと
ジェイコブスは考えた。「同情するよ」
二人を呼ぶ声に、ジェイコブスは振り返った。ピサノがテントの方から歩いて来て
いた。
「どうなった?」
「見つからないんだ」ジェイコブスが応えると、ピサノはうなずき、自分の足下から
永遠の広がりをみせる砂の海と、青い空が出会うその境界線まで視線を移した。「一
つ教えといてやるよ。双眼鏡で見つかるような距離にあったとしてもオレ達にはそこ
まで歩いていく体力はない。せいぜい、そうだな、あそこの岩盤が露出しているとこ
ろぐらいまでだな」
「岩盤?」ジェイコブスがうわずった声を上げてピサノが指さす方向に双眼鏡を向け
た。陽炎にゆらいぐ薄い茶色の岩肌が、確かに砂の海の中で孤島のように浮き上がっ
ていた。
「ハッハ!、やったよピサノ。コクラン、お前の夢はまだ終わっちゃいないぜ。見つ
けたんだよ、目印をさ!」