#2571/5495 長編
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幻都放浪(18) 青木無常
★内容
まるで、おびえるようにして。
ご丁寧に、ひ、と蚊の鳴くような声で悲鳴まであげやがる。
失礼な。てめえらみたいな化物におびえられるいわれなんざ、俺にはねえ。
とわけのわからぬ憤慨を抱く俺など無視して、
「喰らう、とは、何を」
<虎>がさらにそう問いかける。が、<邯鄲>は答えぬまま、まるで近づこうと
する俺を遠ざけようとでもするように手を前につきだし、いやいやをしながらよろ
よろと後ずさった。そしてふいに――消えた。
唐突な消え方だった。フィルムのコマの変わり目に、だしぬけに像がなくなった、
途方にくれて俺はふりかえり、敵であるケイオスたちに向けて助けを求めるよう
に問いかけの視線を向ける。
それに対して連中は、糞、腹の立つ、頭から無視を決めこんだ。
「あれの言葉なれば、したがわぬわけにはいかぬだろう」
虎面がケイオスに向けて、そう言った。
「だが、それではわれわれは、先へは進めない」
ケイオスが静かに、そう答えた。
「では、生存の証拠だけをとどけてはどうだ?」
「それで納得するか?」
「ほかに方法はなかろうさ」
ますます混迷の度をます内輪の会話に業を煮やし、ついに俺がわめき出そうとし
た時だった。
けたたましい笑い声が、響きわたったのは。
けたたましいはずだ。笑声の主は<顔>――脈動する変顔の発する声は、いくつ
もの音色が重なった異様な反響をともなっているのだから。
『ケイオス、虎法師、ずいぶんと気弱じゃないか。見ればどこの馬の骨ともしれ
ぬただの小僧。どう見ても特殊な能力のひとつも持たぬ、取り柄ひとつ持たぬふつ
うの人間だ。ちょいと眠らせて<宮殿>へ運び、妹のところに放りこんで閉じこめ
てしまえばいいではないか。なんなら俺がそれをやってもいいぞ。なに邯鄲のごと
き臆病者の言葉なぞ、きく必要などもはやないわ。あれの言うことなど聞いていて
は、何百年経とうと話はいっこう先に進まないわ』
不気味に、そして耳ざわりに反響する複数の声音がけたたましく言い放つ。なん
だか知らねえが、どうにも腹が立ついいぐさだ。
ははは、ちがうか、となおも重音でわめきながら<顔>は、すう、と宙をすべり、
俺の頭上で静止した。
近くで見るとよりいっそう不気味だ。音もなくただ点滅する信号のように、一瞬
ごとにその顔が変化していくのだ。若い男、老人、子ども、女、老婆、中年婦人、
幼女、女、女、少年……際限のないカッティングショットを、眼の前で延々と見せ
つけられるようなものだ。
しかもそれが、これだけは生々しい唾きを飛ばしながら、やたらにやかましくわ
めきたてているのだ。
『どうだ小僧。俺たちについてくるか? 妹にあわせてやるぞ。あの小生意気な
小娘めに、な。痛い目に会いたくなくば、おとなしくついてこい。ん?』
もちろん、麗子に会わせてくれるというその申し出に異論をとなえる筋はない。
が、奴のものいいには、不気味さ以上に腹立たしさをおぼえた。
どう反論しようかと思案している隙に――横手から、タツの野郎が俺の言いたい
ことを代弁してくれた。
行動で。
シャ、と、風のようにすばやく踏みこむや、頭上で明滅する<顔>に向けて銀色
の一刀を閃かせたのだ。
がば、と唐竹割りに<顔>が断ち割られ、大量の血がどさりと地に降りそそいだ。
ぎゃあ、とけたたましく響いた絶叫は――だが、複数の叫び声とはいかなかった。
ふたつに分断された<顔>は四十前後の主婦らしき女のもの。
そして悲鳴もまたそれにふさわしく、甲高く、やたら耳ざわりに響きわたった。
そして切り裂かれた<顔>は、またたく間に明滅の底に消失し、まき散らされた
大量の血だけを名残に、脈動する無数の、他の<顔>の向こうにまぎれて消えてい
った。
その刻々と変転する顔貌に、いちように憎悪だけを残して。
『おのれ、無頼の輩が』
怒りに震える声音は、やはり先と同様に複数の声の重なりあったものだった。
それが、カア、と息をタツに向けて吐きだした。
その息が紫色の煙となって、ごう、とタツの顔面に吹きつけた。
「うあ!」
声をあげつつタツは顔をそむけ、地に伏して苦鳴をあげながら転がりまわった。
「タツ!」
「タツ兄ちゃん!」
俺と沙羅とが異口同音に叫びながら同時にかけよる。
苦痛に顔をおおいながらタツはもがきまわるばかりだった。かきむしる指の間か
ら見るぶんには、顔自体にはなんの変化も傷痕も見られない。幻覚かなにかの、作
用か。
「やろ」
叫びつつ、嘲笑するごとくゆらゆらと宙に浮かびながら俺たちを見おろす<顔>
に向けて、俺は矢をかまえた。
その眼前に、黒い巨大な影が割って入る。
白い刀身が、威嚇的に俺の目のまえに突き出された。
「隆二……!」
憎悪をむきだしにして俺は吐き出し、
「隆二……」
途方にくれたような口調で、沙羅が呼びかけた。
真一文字に口をひき結んだ、男くささのあふれた容貌が、岩のような無表情で俺
たちを見おろした。
は、は、は、と、その背後で耳ざわりな笑い声があがる。
<顔>はさもおかしげに上下に激しく揺れながら笑っていた。
人間ども、人間ども、愚かで卑小な、役立たずの滅びぞこないども! そうわめ
き散らしながら<顔>は、狂ったように空中を転げまわりつつ笑いつづけていた。
「泡幻童子、やめろ」
低く、心地よく響く声音が、その狂騒を断ち切った。
いうまでもなく、ケイオスだ。
さすがに笑声は潮がひくように途絶え、<顔>はやや不満げな表情を点滅する無
数の顔面に浮かべて黙りこんだ。
そして<混沌>の王は、静かに俺を見おろした。
かたわらで、<虎法師>がささやく。
「しかし、泡幻童子の言うことももっともだわい。となれば、あの者がとにもか
くにも生きていることを娘に納得させるためには、その幻なりとも<宮廷>に運び、
会話のひとつもさせればよろしいのではないかな?」
「なるほど」
とケイオスは小さくうなずき――そして、つい、と歩を踏みだした。
隆二が馬を退かせるのを追うようにして、俺は、ぎ、と歯をむきだして一歩を踏
みだす。
「相談がまとまったようでよかったがな。そろそろ俺にも説明しちゃあくれねえ
かよ、え?」
そこまで言って、俺は凍りついた。
初めて――いま、俺は初めて、ケイオスという男……いや、存在に、正対したの
だ、と気づいたからだ。
そう。たしかに、いままでも、この<混沌>の主の前に俺は立っていた。矢を射
かけ、言葉さえかわしもした。にもかかわらず、ケイオスはその本質を俺には向け
ていなかったのだ。
そしていま、初めて俺はケイオスを見た。
そして、ケイオスが俺を。
酷烈なるその双の瞳は、宝石のように美しく、そして虚ろだった。
底なしの虚無に見つめられた気分を想像できるだろうか。いや、たぶん不可能だ
ろう。
奴の瞳は、そこには存在していなかった。存在していない、ということが濃密に、
まるで噴き出す噴煙のようにして俺に、吹きつけてきたのだ。
吸われる。
ふいに、なんの脈絡もなくそう思った。
魂の奥底まで、吸われてなくなる、と。
吸われる端から、絶対零度の虚無がじわじわと拡大し、全身を浸食し、そして魂
のかけらの一片までが、凍てつき、渇き、粉々に砕けていくような気がした。
……たぶん、そうしてケイオスが俺のことを見つめていたのは、時間にして数秒
のこと――あるいはもしかしたら、一秒にさえ充たない刹那のできごとだったのか
もしれない。
だが、それでも、あと数百分の一秒でもよけいに、その虚無の視線を受けていれ
ば、俺は発狂するか、それともおそらくは死んでいただろう。
ふ、と、宝玉の視線が俺から逸れ――そしてその瞬間、俺は肺が破れるまで全力
疾走したかのように、今にも死にそうなほどの荒い息をつきながら、がくりと膝を
ついて崩おれたのだ。
「ジン!」
沙羅が叫ぶ声が、どろどろとティンパニのトレモロのように盛大に耳の奥で鳴り
わたる耳鳴りの向こうにかすかに、聞こえたような気がする。
心臓は、限度を知らぬ子どもが力まかせに太鼓を連打するように、異様な速度で、
しかも不規則にどくどくと脈打ち、こめかみは今にも音を立ててブチ破れ、ポンプ
のように血を噴き出すかと思われた。
総じて、生きていられたのが不思議なほどの惨状が、俺をいっせいに襲撃してい
たのだ。
そしてそれでも――それでも、あのケイオスの凝視を受けていた一瞬にくらべれ
ば、天国のように安楽な気分だったかもしれない。
ようようのことで、背にだれかの手が当てられていると気づいた。
たぶん沙羅だろう。もちろん、確認する気力ひとつわかない。
だから、涙と痛みに赤くかすむ視界をむりやりこじあけて、ケイオスの姿をさが
したのも、恐怖の対象をせめて視野におさめておかなければという極めて切迫した
衝動によるものだった。
かすむ視野の中で、その恐怖の対象は虎法師を相手に何ごとかをささやきかけて
いた。
もはや抗うどころか罵声のひとつも投げかける気力もない。俺は目を伏せかけ――
信じられぬ異変を、目撃した。
視界の端にポウ、と青白い炎が浮かんだか、と思う間もなく、その燐光は一気に
具象化した。
青い獣毛の、犬の姿に。
美紀だ、と俺の喉が声を発する間もなく、クチイヌは一直線に群衆をかきわけて
疾走し、飛びかかった。
ケイオスに向けて。
一瞬、俺はその一種美しいとさえ言える野獣の面貌を見たような気がする。
あの、噴きだすような憎悪や呪咀は、そこにはなかった。
かわりにそこに浮かんでいたのは、焦慮ではなかったか。
目測をあやまったか、クチイヌの襲撃の軌道はケイオスの喉笛をそれ、その右胸
あたりに向かっていた。
対してケイオスは――一歩も動かぬままただ立ちつくし、迫りくる牙を凝視して
いた。
目を見ひらいて。
ふたつの違和感が、いちどきにどっと俺を襲った。あのクチイヌは――美紀は、
なぜ俺を狙わずにケイオスに襲いかかったのか。そしてもうひとつ。ケイオスの、
あの氷の美貌に浮かんだ表情は、いったい、何なのか?
が、そんな俺の疑問とともに、襲撃者は吹き飛ばされた。
泡幻童子に。
たたずむケイオスの前に、ふわりと<顔>が舞い降りた。
明滅する顔貌のひとつひとつが、嗜虐的な歓喜に輝いているように見えた。
そして、さらに奇怪な顔が。
フラッシュのように刻々と脈動する無数の顔の中に、まるでサブリミナル広告の
ようにあるひとつの共通した顔が、挿入されていたのだ。
すなわち、夜目にも真白い髑髏が。
むき出しの白い歯が、笑うように噛みあわされていた。カカ、カカ、と打ちあう
硬質の響きが、俺の耳もとにまで響いてくるように。
そして、その髑髏をも含んだ無数の顔がいっせいに、まるで周囲の闇をのみこん
でいっそう濃密に凝縮したかのような闇黒の口を開き、そこから黒い霧を吐き出す
のを見た。
ぎゃん、と狂おしい悲鳴をあげて青い獣は宙で身をひるがえし、ぼとりと地に落
ちた。そのまま狂ったように身をよじらせて跳ねまわったあげく、背後の漆黒の海
へと波しぶきを立てて落ちた。
落ちてなおしばらくの間、苦痛にかもがきまわるように波しぶきが盛大にあがっ
ていたが、やがてそれも潮がひくようにして絶えた。
耳ざわりな哄笑をまき散らしながら泡幻童子は空中を転げまわる。
そしてケイオスは、無言で虎法師にうなずきかけた。
暗闇の内部で、それだけは鮮やかに光を放つ白いマントが、ばさりと風を鳴らし
てひるがえったような気がした。
そして、消えた。
闇に溶けるようにして。
俺は目を見ひらき、手の甲でこすった。
安堵と不安と、そして疑問とが、同時に、胸中に押し寄せていた。
そしてそれらすべてを、いきなりよみがえった苦痛が瞬時にしておし流した。
あ、あ、あ、と喉を鳴らし、唾液をだらだらとまき散らしながら俺は突いた膝を
おり、踵に尻をあずけた。がくりと顎を落とし、地面に額をつけて、あえぎつづけ
た。
ぶるぶると全身が景気よく震えていた。寒いんじゃない。純粋に、恐怖のためだ
った。
嘲笑を聴覚がとらえる。
何百人もの混声のエコー。<顔>――泡幻童子だろう。
どうでもよかった。なんの敵愾心も、もはや俺の心の中には残っていなかった。
ぐす、と前方で土を踏む音がした。
地震みたいに震えながら俺は顔をあげた。