#2555/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 94/ 4/ 3 10:11 (197)
幻都放浪(2) 青木無常
★内容
俺は思いきり憎々しげにそう言いつつ、胸の上で手を組んでアブーカジェリフを
横目でにらむ。
ふっくらとした褐色の顔が瞬時、呆然と、両の眼と口を全開にした。ついで、そ
の風船顔をみるみる満面朱に染めはじめる。湯気が立ちそうな勢いだ。
「こ、こ、こ、こ、この異教徒が! 妖霊めが! 知らない? 知らないだと?
よ、よ、よ、よくもまあヌケヌケと。知らない? 知らないだと? おのれ……お
のれ……おのれ!」
あまりの怒りの激しさに、こりゃちょっとヤバいかなと心中ひそかに肩をすくめ
る。なにしろ相手は空中浮遊もできる魔法使いだ。どう考えても敵にまわさないほ
うが得策だろう。だいいち、まがりなりにも危ないところを救ってもらった義理も、
ないわけじゃない。
ゃない。
だが今さら、引っ込みもつかなかった。俺はふたたび胸をはりつつ、
「知らねえなあ。だれかに食われちまったんじゃねえの?」
憎まれ口をきく。
当然のごとくアブーカジェリフは目と歯をむきだしにし、握った拳をぶるぶると
震わせ、全身から怒りのオーラをめらめらとを噴きださせていた。声にならないう
めきを喉の奥からぐぐぐぐとしぼり出し、灼熱の視線を俺にすえる。
わめき出すか、それとも直接的に暴力に出るか、と俺が身がまえた時――
ふ、と、怒り心頭に発していたはずのアブーカジェリフの全身から、力が抜けた。
顔面に抑えきれない怒気をとどめてはいるものの、ひきつった笑いで頬の端をぴ
くぴくと震わせつつ、寛大に両手を広げて、幾度もうなずきかけて見せる。
気でも狂ったのか、となおも構えを崩さない俺にアブーカジェリフは、
「よい。よいのだ。おまえにも嘘をつく事情はあろう。しかたのないことだ。わ
しだってそれほどもののわからん男でもない。要はわが家宝の、魔法のやどったヒ
ンジャルさえ戻ればよいだけのこと。どうだ、ジンよ、おまえが正直にわしの短剣
を返してくれさえすれば、わしに可能なかぎりの礼をしよう。どうだ? ん?」
どうやら糾弾はやめて懐柔に、作戦を切りかえたらしい。だがこの態度の豹変は
俺の疑念を助長し、なおかつさらに意地悪な気分にさせただけだった。なにしろこ
の野郎は、ひとを盗人あつかいしやがったのだ。
「さーて。なんのことだかさっぱりわからねえな。あんた何か勘違いしてんじゃ
ねえの?」
ぐ、とイルアーナの魔法使いは露骨に怒りを飲みこみ、なんとか俺の機嫌をとり
むすぼうと脂ぎった微笑を浮かべる。
「聞きわけてくれ少年よ。遠い異国からの賓客を、哀れとは思わんか? 望みま
て、よ」
寸時、肥満気味の魔法使いの顔に怒りと――そして悲哀が横ぎった。何かある、
と問い正そうとした時、
「おとりこみ中、すまないけど……」
と、呪咀にみちみちたか細い声音が、抑え切れぬ怒気を含めて背後から呼びかけ
た。
「わしらを忘れているんじゃ、ないだろうね?」
俺と魔法使いは顔を見あわせ、肩をすくめる。
忘れていたわけじゃないが、思い出した。俺はいま、襲われているまっ最中だっ
たのだ。
音もなくさざ波を立てる水面上に、幻像のように浮かぶいくつもの顔が、一様に
仏頂面を俺たちに向けている。おそらく、こんな扱いを受けたのは初めてなのだろ
う。
ち、と俺は舌を打ち、
「おい魔法使い、とりあえずちょっと待ってろ。こいつらかたづけちまうからよ」
言って、ぺろりと唇の端をなめる。
と、
「ふむ」
二重あごに手をやって短くうめくや、アブーカジェリフは意外に身軽な動作で浮
遊する絨毯からとん、と地上に降り立ち、今まで尻の下に敷いていたアラベスク模
様を器用な手つきでくるくると巻きはじめた。
「では、望みをかなえる、というその手はじめに、この木っ端妖魅どもを、この
わしがものの見事に片づけてしんぜよう」
軽い口調でそう言った。
クビガラスどもの蒼白の顔面が、いっそうの怒気に醜く歪んだ。
「かってにしろよ」呆れかえりつつ、俺は言った。「けど、ヒンジャルがどうと
かって話はしらねえぜ」
「よいのだ。わしの誠意がおまえの頑な心をいつか溶かす」
ひとを泥棒あつかいした下衆野郎とは思えぬ殊勝なセリフを口にしつつ、アブー
カジェリフは巻きおえた絨毯をTシャツの懐のなかに、すい、としまいこんだ。奇
妙なことに、けっこうな大きさの絨毯の束は、霞みたいに居酒屋ロゴのプリント入
りシャツの内部に消え失せ、そこにおさめられたという痕跡さえ残していない。さ
すがに魔法使いだ。それにしては太鼓腹は隠せないようだが。
「んじゃ」と俺は肩をすくめ、「見物させてもらいましょうか」
腕を組んで、池傍の手すりに腰をあずけた。
「よろしい。とくとご覧うじろ」
えらそうにドンと胸を叩くと、脂肪だらけの乳房がぶるると揺れた。
おお、おお、おお、と完璧になめられた体の妖鳥どもが、怒りに喉をふるわせつ
つ舞い上がり、旋回し、そして一斉に俺たちめがけて降下してきた。
思わず弓を握る手に力が入る。が、それをふりまわしたくなる衝動をぐっとこら
えて余裕しゃくしゃくの態度で、俺は鼻くそをほじりはじめた。むろんジェスチャ
ーだ。
ふむん、とアブーカジェリフは、そんな俺を見てニヤリと笑い、両脚をついと広
げて腰を落とし、何かを呼ばわるようにして口もとに、ぽちゃぽちゃとした手を当
てた。
アラビア語の呪文でも唱えはじめるのかと思いきや――
紅蓮の炎が、ごおおおと闇を裂いた。サーカスの火噴き男のようにアブーカジェ
リフは炎を噴き出しながら上方に顔傾け、派手に首をふりはじめる。
ごお、ごおと盛大な火流にあぶられて急降下をかけていたクビガラスどもはぎゃ
あつくわめきながら尻ごみ、むなしく突進と後退をくりかえすばかりだ。
なかなかやるじゃないか。との感想は胸の奥におし隠し、
「おいおい、これじゃ犬を追い散らすようなもんじゃねえか。ちいとも片づきゃ
しねえ」
野次馬の気楽さで文句をつける。
すると魔法使いは火を噴くのをやめて不満げに頬ふくらませ、
「ならば、これはどうだ?」
と、今度は両手のひらを上向けて広げてみせた。
何が起こるかと興味津々で俺が見まもるなか、上向かせた手のひらからパチパチ
と音を立てて、幾つもの白熱の電塊がはじけ出した。
「おお、花火みてえだ」
思わず上げた感嘆の声に、アブーカジェリフは得意げに笑みを浮かべる。案外単
純な野郎だ。
「オウ!」
かけ声とともに、電塊がバチバチとはじけながら一斉に四散した。
耳障りな声がいくつも重なり、スパークする閃光の中で無数のクビガラスが痙攣
し、次の瞬間シオシオと落下した。
井の頭池にぽちゃん、ぽちゃんと情けない音を立てながらクビガラスどもは次つ
ぎに撃墜され、得意になったアブーカジェリフは「ほれ、ほれ、ほれほれほれ」と
調子に乗りまくって雷撃をあちこちに放出する。
「おい、ちと、やりすぎじゃねえの……?」
と俺が遠慮がちに声をかけるのにも耳を貸さず、魔法使いはいよいよかさにかか
って手当たり次第に電撃をまきちらした。最初の目的などたぶん、とうに忘れちま
ってるにちがいない。脂顔が快感に酔いしれていやがる。
俺はいやな予感がして、早々にその場を立ち去ろうと、アブーカジェリフが夢中
になってクビガラスいびりをつづけるのを尻目に、そろり、そろりと、移動をはじ
めた。
が、どうやら決断が遅すぎたらしい。
「こんな夜の夜中に、ずいぶんと騒がしいことだねえ。近隣住民の迷惑ってもの
を、考えたことはないのかい、え?」
歯切れのいいセリフが、凛と闇夜に響きわたった。
2
その伝法な女の声音に、俺やアブーカジェリフどころか、ぎゃあぎゃあわめきな
がら逃げ惑っていたクビガラスどもまでがびくり、と威儀を正して静まりかえって
いた。
瞬時にして濃密な静寂に占拠された園内に、音もなくただオレンジ色の燐光ばか
りが降りそそぎ――
カラコロと心地よい響きとともに、夜目にも白い匂いたつような艶姿がふたつ、
旧売店の向こうから近づいてきた。
夏の終わりを色彩る紺地に芒の柄の浴衣姿は、くっきりとした顔立ちの、脂のの
りきった四十前後の熟女のからだをつつみこんでいた。はすっぱな流し目と受け口
の紅い唇は、それだけで異様な艶気をまき散らしている。そこへやや着くずした感
のある浴衣からのぞくえり足とふくらはぎの白さが加われば、ひとならぬクビガラ
スどもでさえ目をむき口をだらしなくぽかんと開けてよだれをたらす低たらく。
そのうしろ、少し距離をおいて後につづく小柄な影は、齢のころなら十八、九、
ふくらみきらない胸の隆起はどこか青くさく、それとは対照的に豊かに張りきった
ヒップからきりりとひきしまった足首まで、上下とも黒のシャツとスラックスでぴ
しりと決め、猫を思わせる大きめだがどことなく鋭さとしたたかさを秘めた視線を
油断なく、四囲にはしらせている。
顔立ちや全体の雰囲気がどこか、先行する婦人と共通のものをただよわせている
ところを見れば、このふたりが母娘であることは容易に想像がつくだろう。
<異変>からこっち、井の頭弁財天にどこからともなく現れたこのふたり、とく
に母親のほうは「弁天さま」と呼ばれ、親愛と、そして畏怖の対象となっている人
物だった。
人のみならず、妖物にまで。
カラコロと小気味よく地をならしつつ行く母親の、二メートル圏内に位置してい
たクビガラスがまるで蚊とり線香にでもやられたみたいに、ころり、ころりと枝や
柵からころがり落ち、地のうえでひくひくともがくのはどう見ても「弁天」の艶気
にあてられた、という感じだが、本人の言によると何か霊的な結界がはたらいてい
るため、邪霊妖怪のたぐいは近寄ることさえできないのだそうだ。
娘のほうにはそれほどの霊威はそなわっていないらしいが、こちらはかわりに無
類の強情者、相手が妖魔だろうと鬼神だろうと気に入らなければ頭から罵倒をあび
せかける、これもまたべつの意味で近づきがたい難物といえる。こちらは母親と区
別するためか、ふだんは「沙羅」と呼ばれている。由来? 俺が知るかよ。
たん、と下駄を鳴らして弁天は俺たちの正面五メートルで立ちどまり、俺と、そ
してアブーカジェリフを上から下まで、なめまわすようにして観察した。
「おやまあ、こんな夜の夜中にいったいなんの騒ぎかと思ったら、上連雀の仁さ
んじゃないかい。ちかごろは学校にいかずにすむせいか、若い子らが遅くまでうろ
ついていて物騒だねえ。年ごろの娘をもつ母親にしちゃ、いい迷惑だよ。それに、
なんだい、ターバンかぶったアラブ人なんかと親しげに肩をならべて。国際親善っ
たって、不良レベルじゃ屁のつっぱりにだってなりゃしない。いったいなんの騒ぎ
だい?」
びしびしと闇を断ち切る啖呵にも、クビガラスどもはもちろん俺までもがなかば
陶酔に顔あからめる。
アブーカジェリフは、と見るとこれが意外。
脂肪過多の丸顔が汗まみれに蒼ざめ、さも苦しげに歪みつつぶるぶると小刻みに
震えている。ちんまりした目には憎悪の炎がめらめらと燃えさかり、わなわなとわ
ななく口の奥ではぎぎぎと音がしそうなまでに歯がくいしばられている。
「ヤフラー! シャ、悪魔、おのれこのおぞましき妖気は、おまえたち悪魔にち
がいない。なんと恐ろしや、神をもおそれぬ不貞の輩めが! ミン・ガイル・シャ
ッル」
なんとこの肥満体魔法使いには、弁天の魅力が通じないらしい。無警戒に相手を
していたが、もしかしたら男色野郎かもしれないな、気持ちの悪い。
それに対して弁天はフン、と形のいい鼻をならし、
「なにぬかしてやがんだい。妖怪のたぐいはそっちじゃないか。あたしの顔を見
ただけで、それだけ脂汗たらして怖がってるのがなによりの証拠さ。アフラーだか
なんだかしらないが、神さまの名をとなえてごまかすんじゃないよ。どれだけ信仰
心ちらつかせよううが、卑しい口のききようでお里が知れるってもんだい。なんだ
いなんだい仁にとりつこう、てのかい? 不良とあっても、このあたしの大事な友
人知己のひとりにゃちがいないんだ。どうでもかかわろうってんなら容赦しないよ。
どうなんだい?」
ぴしりと白い繊手が指さすや、イルアーナの魔法使いは
「うぐう」
と声をあげてうめきざま、よろよろと後ずさり、ぶるぶる震える手であわてて懐
から絨毯をとり出すとジェット機のように後をもふりかえらず飛び去っていった。
「わが家宝、かならずとりかえすからな! ビスミフラーヒ・アフラフマーニ・
アフラヒーム!」
捨て台詞ばかりがやけにはっきりと、俺の耳に響いてきた。
弁天は見おくりつつフンともういちど鼻をならし、俺に向かってにやりと口端だ
けで笑いかけた。おおう、鼻血が出そうだ。
周囲でびくびくと様子をうかがうクビガラスどもにちらりに鋭い一瞥をくれると、
弁天は、くいと俺をさし招いてくるりと踵をかえし、カラコロと歩きはじめた。
あわてて後を追う俺の挙動を見て、娘の方が揶揄するような笑いを浮かべる。
ち、と舌を鳴らしてにらみつける気勢をそらすように、沙羅はふいと顔をそむけ、
気どった仕種で母の後を追った。けっ、畜生、小憎らしい娘だぜ。
井の頭弁財天の堂奥――といっても、池上の小島に建てられた小さな堂にさほど
の奥ゆきがあるはずもないのだが、すくなくとも賽銭箱を後にしてから三つは敷居
をまたいだはずだ。が、ただの神社とも思えぬ準和風の大家屋にはさらに奥の間が