AWC 幻都放浪(1)       青木無常


        
#2554/5495 長編
★タイトル (GVJ     )  94/ 4/ 3  10: 6  (199)
幻都放浪(1)       青木無常
★内容


    幻都放浪

                青木無常


    1

 吉祥寺通りを横切り万助橋のバス停をとおりすぎようとした時、漆黒の闇に蛍火
がしずしずと降りそそぎはじめた。
 オレンジ色の燐光が次々と、アスファルトに吸いこまれていく。
 心なしか、風が肌からやわらかく体温を奪っていくような気がした。やっとのこ
とで腫れがひき始め、昨夜まで視界さえふさいでいた左の瞼からも。
 雪のようにふりそそぐ夏の終わりの幻の燐光に、俺はたいまつをふりかざす。
 メラメラと燃える炎に、オレンジの燐光は溶けるようにして消えていった。
 しばし降りつぐ灯火に見入り、そして背にした弓と矢筒をぐいと背負いなおして
俺は、ふたたび歩きはじめた。
 街は淡い橙色におぼろに浮かび、音もなく夜に横たわる。
 だから井の頭公園横の駐車場のわきに、忘れもののようにぽつりと落ちていた輝
きに気づくまでにも、あまり時間はかからなかった。
 ぼろぼろに腐った鉄棒に蹴りをひとつくれてとどめをさし、そして俺は、鈍色の
輝きをつつましく夜に放つその奇妙な物体に歩みよった。
 月光を反射して蒼白く輝く、反りの深い短剣を、しばしのあいだ俺はひろい上げ
るでもなく無言で眺めやった。
 柄の部分にほどこされた彫刻。暖色の闇わだにけぶる街のなかで、その冷たい輝
きはたしかに異彩を放っている。奇妙に装飾的で、なおかつ獰猛な凶気を、冴えざ
えと短剣は秘めてなおあふれさせていた。
 ひろい上げ、手にしてみる。左の人さし指に刃を軽くすべらせると、つ、と、朱
い線がのび、じわりとにじんで広がった。切れ味は極上だ。血のにじんだ指さきを
唇にくわえ、四囲を見まわす。さほど遠くもないところに、やはり彫刻の刻みこま
れた鞘を見つけ、刃をおさめると俺はその短剣を上着のふところに無造作にしまい
こむ。
 そして歩き出そうとしたとき、ふいに、ウエストポーチの中で、ザ、ザザ、と、
ノイズがかすかに暴れまわるのを耳にした。
 あわててポケットラジオをとりだし、スピーカに耳をあてる。
 しばらくの間、沈黙とノイズとが交互に入り乱れ、そしてかすかに、どこか別世
界からの通信ででもあるように遠い声が、なつかしいメロディを俺の耳にとどけた。
 過ぎ去った昨日をなつかしむ歌声は長くはつづかず、ラジオはやがてふたたび沈
黙する。
 「麗子」
 闇わだの底、俺はなおしばらくのあいだ無言のラジオに耳をおしつけたままでい
たが、ため息とともにそうつぶやき、役たたずの機械をウエストポーチに戻した。
 ヒグラシの鳴く宵闇をぬけて、公園に足を踏みいれる。どこからか、サックスの
音色が哀しげに夜を震わせていた。あたりに人かげは、見あたらない。
 <異変>の時に命を落としたアマチュアミュージシャンの、去りがての亡霊かな
にかなのだろう。フレーズをぶつ切りにした、時にキーの打ちまちがいのせいか間
のぬけた誤音さえ入る『虹の彼方へ』もやがて、ためらうようにして沈黙する。
 そして訪れた静寂の底、樹間を縫うように蛍火が土の上へ、枯れ葉の中へ、そし
て木枠の階段へと、音もなくしんしんと降りつづけた。
 そんな降りつぐ静寂を、耳ざわりなわめき声がぎゃあ、とふいにうち破り、黒い
影が闇空に舞いあがった。
 ひとつ。
 ふたつ。
 そしてつぎの瞬間には、無数に。
 ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ、と森はざわめき、濃藍の空を闇よりもなお濃い不吉な
鳥影がけたたましく行き交った。
 そのうちの一羽が俺の眼前のベンチへと舞い降り、やせこけた蒼白の人面で、俺
に向かってニヤリと笑いかけた。落ちくぼんだ眼窩に、暗い輝きが宿る。
 「俺たちの国へ来るかい?」
 頭上をよぎりざま、一羽が俺にそう呼びかける。
 「やなこった」
 唇の端をゆがめて睨みあげながら返す俺の答えに、無数の鳴声が嘲笑のように降
りそそいだ。
 淡い火が喧騒に震えつつ、黒い影に散りしだくのをすり抜けて俺は階段を下り、
池畔に降り立つ。
 「おや、今夜はひとりかい?」
 どこからか、氷のように凍てついた、か細い声音が俺に語りかける。
 翼の音が三々五々、寄りつどい、柵の上へ、樹上へ、池畔のベンチや壊れた噴水
の残骸の上へ、はばたきながら次つぎと舞い降りた。
 さざ波を立てる水面に、はらはらと舞い落ちていく蛍火の中、いくつもの蒼白の
顔が浮かびあがる。
 <クビガラス>。
 いつからか、夜の井の頭公園をわがもの顔で飛び交うようになった人面鳥身の奇
怪な連中を、生き残った人びとはそう呼んでいた。
 闇にひそみ、見えないところから不吉な呼びかけをくりかえし、時にはその鋭い
鉤爪で肉をついばむために、音もなく滑空してくることもある、剣呑な連中だ。
 さほど強力な妖魅でもないが、油断すると目の玉をえぐられたり、まずくすれば
後頭部から延髄をつつかれたりして命に関わることもある。いずれにしろ、人間に
対してあまり友好的じゃないのは、この手の化物にはありがちな特徴だ。
 「あのかわいいお嬢ちゃんはどうしたの?」
 さも優しげに、無数の顔のひとつが、口を開いた。
 それを機にか、蒼ざめた顔々がくすくすと嘲笑を吐き散らしながら口々に、俺に
向かってか細い口調で呼びかけはじめる。
 「どこやらの獣にでも、食われちまったのかい?」
 「そいつは残念」
 「おお、かわいそうに。あんなにかわいらしい娘が」
 「だからいわんこっちゃない。そんなことになる前に、いっそあたしが食い殺し
て」
 「でもそれは無理だったから。あのお嬢ちゃんは、わしらには近づけない不思議
な力があったから」
 「それにしても、あの娘が」
 「おお、おお、おお」
 好き勝手をつぶやく無数の妖魅の顔は悲嘆に歪み、哀惜にゆらゆらとゆらめいた。
 そしてふいに――哀しみに満ちた瞳を一斉に俺にそそぐと奴らは、つぶやくよう
にして言った。
 「つまり、お嬢ちゃんはもう、私たちにはとどかないものになってしまったけど」
 「この男の子なら、いくらでも好きなだけついばめる……そういうことに、なっ
たわけだね?」
 言葉が終わらぬうちに、闇がいっせいにざ、とざわめき、黒い影がわらわらと舞
いあがった。
 むきだしの無数の歯が月光と蛍火に映えて汚怪なきらめきを放ち、妖魅どもは排
水口に吸いこまれる水流のように、いちどきに俺に向かって群らがってきた。
 俺はうめきを上げつつ肩からつるした弓をとり、たいまつをふりかざした。
 よくしなる太めの木でつくりあげた、手製の武器をめったやたらにふりまわす。
本来の用途じゃないが、敵の数が多すぎるのだ。
 肉を打つ手ごたえと同時に、ぎゃあぎゃあと幾つかの悲鳴があがり、それと同じ
数だけ鉤爪や歯の強襲が俺の全身を襲う。
 「糞ったれどもがよ」
 ののしりつつ、俺は自分の見通しの甘さに歯がみしていた。クビガラスごとき、
この手で二、三羽ほどの首でもひねれば簡単に追い払える、と、たかをくくってい
たのだ。連中がまさか、これほど素早く飛べるとも、またこれほど凶暴で、さらに
これほど狡猾なコンビネーションを駆使することができるとも考えずに。
 地上にいくつかの黒いかたまりが落下してぴくぴくと全身を痙攣させた。が、そ
の数以上に俺の全身の生傷は刻一刻と、増加の一途をたどりつつあった。
 こりゃダメかな、とあきらめが首をもたげはじめたころ、奇跡が訪れた。
 間断なき襲撃がふいにやみ、俺はといえばしばしの間それには気づかずに、ぶざ
まに弓とたいまつを闇雲にふりまわしていた。
 痛撃の消失にふと気づいて目を上げると、ぎゃあぎゃあとわめき立てながらもク
ビガラスどもは俺を遠まきにとり囲み、一定の距離を保つようにして旋回をくりか
えしている。
 なにが起こったのか、と俺は周囲を見まわし――見つけた。
 どうやらクビガラスどもが警戒していたのは俺の弓やたいまつではなく、月光と、
そして夜の闇をさえぎりつつ、眼下の俺めがけてゆっくりと降下してくる、絨毯だ
ったようだ。
 ほぼ正方形の、一片が人の背たけくらいの大きさの絨毯だ。アラベスクの幾何学
模様がほどこされ、こんな際でなくどこかの邸宅ででも目にすればなかなか高価そ
うに見えたにちがいない。
 「なんだこりゃ?」
 俺はすっとんきょうな声をあげてぽかんと頭上を見あげた。
 「わしの名はアブーカジェリフだ」
 と絨毯が答えた。
 いや、絨毯の上に座した人影が。
 俺の前に降下してくるにつれ、クビガラスどもを退かせたのが絨毯ではなく、絨
毯の上にアグラをかいた奇妙な人物であることが、やっとのことで俺にも理解でき
たのだ。
 ただし、理解できたからって納得できたわけじゃない。俺はただただ呆然と<空
飛ぶ絨毯>に乗って悠然と浮遊する、ターバンをまいたやや太めの褐色の顔の異国
人に、凝視を投げかけるだけだった。
 中東あたりの人間の年齢などよくわからないが、印象からすれば三十か四十のお
っさんだ。ピンとはったカイゼル髭をたくわえた口もとに、どうもあまり人好きの
しないニヤニヤ笑いを浮かべている。体格は全体にやや、いや、かなり脂肪過多で、
着ているものはなぜか、全国チェーンの店名入りの飲み屋のTシャツに、Gパンと
スニーカー。<異変>まえは、その居酒屋で働いてでもいたのかもしれない。
 「やあこんばんは。ザール・トゥーシュのみ恵みがおまえにありますように」
 男は、褐色の満面に不気味な笑いをくわりと広げつつ、わけのわからないことを
口にしながら俺に向かって両手を広げてみせた。
 むろん、どう答えていいかわからず、俺は沈黙したままだ。
 それにはまるで頓着する様子も見せず、男――アブーカジェリフはさらに言葉を
重ねた。
 「おまえにはバラカがたりんな。よく今まで生きてこられたものだ。名は?」
 意外に達者な日本語だが、やはりどこかに奇妙な響きがあるのは否めない。
 「は? ああ、仁、てんだ」
 と俺が間の抜けた答えを返したとたん、アブーカジェリフの彫りの深い顔には、
深い嫌悪の色がみるみる浮かびあがった。
 「妖霊か。不吉な名前だ。悪い。それは実に悪い」
 わけがわからないながらも何となくむかっ腹が立ち、
 「うるせえ余計なお世話だ」
 と毒づいた。得体が知れないとはいえ、命の恩人に対して吐くセリフじゃない。
 が、アブーカジェリフはそんなことを気にした風もなく、つづけた。
 「わが偉大なるイルアーナを後にして早や八年、今日までさしたる支障も危険も
なく、また五年まえまでは金をかせいで無事家族のもとに送りつづけてさえこられ
たのもすべて、偉大なるアフラーのご意志。おお、アフラーは至大なり!」
 どうも妙な演説をはじめる。
 わけがわからず見つめるばかりなのは俺だけではなかった。
 <食事>もしくは<レクリエーション>を邪魔されたクビガラスどももまた、汚
物をでも取り囲んでいような目つきで遠まきに、アブーカジェリフの太鼓腹を眺め
やっている。
 「しかし!」と、異国人は、そんな迷惑顔の観衆などまるで無視して、声を荒ら
げて眉根を寄せた。「今宵、アフラーはわしに試練を下された。試練! 試練をだ!
勤勉にはたらき、人には施しを、一日五回の礼拝も欠かさず、断食月には日の出か
ら日の入りまでの断食を行い、つねに沙漠の法に忠実なこのわしに、ああ、なんと
いう不幸が訪れることか。おお、そうとも、わしは今日ほど不幸な目にあったこと
は、いまだかつて一度としてない」
 「……いったいなんのこった?」
 その場に集う一同の困惑を代表して、俺がそうつぶやくと、アブーカジェリフは
奥まった目を大きく見開き、信じられぬとでもいいたげに何度も何度も、大仰に首
を左右にふってみせるのだ。
 「ヤフラー! この妖霊めにどうぞ鉄槌を。なんのことだと? なんのことだ、
と? それでは語って聞かせるが、これは高くつくぞこの異教徒め! いいか?
わしはな、わが家系の象徴たるヒンジャルを盗人に盗まれたのだ。そのヒンジャル
は、偉大なるアフラーのご意志により、五年ほど前より魔法の力を付与されたもの
だ。これはわしにとって、命より大切なものなのだ」
 そこまで聞いて俺にはやっと、おおよその見当がつきはじめていた。
 だからそれに裏づけを得るため、質問をした。
 「そのヒンジャルってのはいったい、なんなの?」
 そして予想どおりの解答を得た。
 「短剣だ!」叫び、イルアーナとやらのの魔法使いは、ぎろりと俺をにらみつけ
る。「知らぬとは言わさぬぞ。三日月の形をした短剣だ! おまえが盗ったのだ!」
 わめきつつ、むくむくとした指を俺につきつけた。
 なるほど、俺がさっき駐車場でひろった短剣の持ち主がこの異国人、ということ
らしい。しかもその短剣には魔法がそなわっているという。もっとも、五年まえか
ら、となるとその魔法がアフラーとやらのご意志によるものなのかどうかはきわめ
て疑わしい。
 それにしてもいったい、絨毯に乗って空を飛べるような男がほかにどんな魔法を
重宝するのかはしらないが、まあよほどのものなのだろう。
 そうと聞いては素直に渡すつもりにもなれなくなった。なにより気に入らないの
は、この異国人が俺のことを頭から泥棒あつかいしていることだ。
 「短剣? 知らねえなあ。なんのこった?」




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