#2761/3137 空中分解2
★タイトル (HHF ) 93/ 1/31 10: 9 (160)
月夜話、其之四 「 小さな冒険 」 (2/3) ■ 榊 ■
★内容
「顔」の大きな口のなかに歯のようなもの、唾液のようなものが見えたと思
ったときには、すでに「顔」は凄いいきよいで向かってきた。
ぐん、ぐん、ぐん、と大きくなっていく。
そして、来た。
舞姫が振り返る。
「カンマンっ!!」
すごい風が、吹き荒れた。
あたりの席がいくつか跳ね上がり、芳春の服と髪がびゅっとはためいた。
「う゛っぃぃぃぃぃあぁ!!」
叫び声。
「顔」が粘土細工のようにへこんでいく。
そして、いくつかの塊となって飛び散った。
「芳春君、こっち!」
舞姫がぐんっと袖をひっぱる。
やっと意識を取り戻して、二人は教室から駆け出していった。
ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、という足音と胸の、トクン、トクン、という音が
一致するほど走った。
さっきよりもずっと暗い廊下を、すべるように走り抜けていく。
廊下を突き当たり、階段をかけ降りていく。
転びそうで、もどかしくて、二人で信じられないぐらい階段を飛び降りてい
く。
最後のおどり場をまわると、あの扉が当然のように閉まっていた。
かすかな不安。
扉をのぶをひねっても、押しても、引いても、ぶつかっても、扉は開かなか
った。
「駄目、開かないっ!」
「鍵は?!」
「それが開いてるみたいなのっ!」
舞姫の一言がいいもいえぬ不安になり、芳春は泣き出したい気持ちになった。
それでも必死にこらえて、あたりを見渡した。
「窓っ!」
二人は急いですぐ近くの教室に入り込み、窓に駆け寄る。
芳春が、もどかしく鍵を回して開け、窓を開けようとするが、たてつけたよ
うにピクリとも動かなかった。
「芳春君、どいてっ!」
振り返ると、舞姫が椅子をかがげて立っていた。
芳春が横にとびき、椅子が窓にぶちあたる。
「きゃっ!」
有り得ぬことだが、椅子の方がはね返り、ガラスは微動だにしていなかった。
「舞姫さんっ」
倒れこむ舞姫にかけより、抱き起こす。
「大丈夫。芳春君、おねがい、ここら辺の机をどけて………」
「うん、分かった」
座り込んだままの舞姫を中心にして、芳春は必死に机をどかしていく。
転がる机もあるが、気にせずどんどんと外にはじき出していく。
舞姫はふらりと、立ち上がった。
瞳を閉じ、ふるえる手で自分の足元にゆっくりと円をかく。
「芳春君、来てっ!」
動かしかけの机をほっぽり、舞姫のもとにかえると、「もっと近寄って」と
いわれ触れあうぐらいに近寄った。
今まで見た中でいちばん真剣な表情で、何かを呟く舞姫。
その呪文が終わったかと思ったら、崩れるように床に座り込んだ。
「舞姫さん」
「……この円から出ないように座って」
どうしていいか分からなかったが、あきらめて、膝を触れあわせるぐらい近
い位置に芳春は座った。
「この円の中にいれば、安全だから」
それを聞いて、少しだけ安心した。
心臓だけは信じられないぐらい早さで、トクトクトク、と音をたてていたが、
それがほんの少しずつ、もとの早さに戻っていく。
少しずつ、立っていた毛がもとに戻っていく。
でも、舞姫はさっきから下を向いていた。
「舞姫さん?」
舞姫はピクリとも、動かなかった。
「……舞姫さん?」
おそるおそる手をのばして顔を触ろうとしたら、その手にぽたりと何かが落
ちた。
水……涙っ!!
「恐いの。こんなこと始めてだし、こういうときに限って更紗は仕事でどっか
いってるし」
芳春はあわてふためいた。
舞姫さんが泣いている。それだけで、「顔」があらわれたとき以上のパニッ
クになってしまった。
どうしたらいいのかまったく分からないくせに、鼓動だけは信じられないぐ
らい大きく早くなっていく。
「萌荵はいないし、お父さんもお母さんもいないし、私ができるのはここまで
だし。これがもう、精一杯なの。これ以上、何もできないの」
ぽたり、ぽたり、と涙が膝に落ちる。
芳春はさっきまで舞姫がどんな時でも強い人なのだと、思っていた。
サ゚して今、やっぱり誰でも恐いのだと、気づいた。
舞姫は、那チ別な人でないことを、体で知った。
おそるおそる、顔にふれた。
触った瞬間、ぴくっと舞姫の体がふるえる。
「舞姫驍ウん……」
驚いた瞬間に、涙は止まった。
それでも、しばらくは相変わらず下を向いたままだった。
「そうね『舞姫』だものね。『姫』の名がつくからには、泣いては駄目よね」
一度、舞姫は顔をふると、はぁーっと深呼吸をする。
そして、ゆっくりと顔をあげる。
少しずつ見えてくる、顔。
眉、瞳、鼻、口。
涙に洗い練゚ャされた顔はいつもよりもずっと真摯で、まるでせ驍ケらぎのように
澄んで綺麗だった。
窓からの淡い光に映し出される、舞姫の姿。
芳春は、いままで味わったことのない、胸の苦しさを感じた。
そして、舞姫はにっこりと笑う。
極上の笑顔で。
あたりは、またあの静けさを取り戻していた。
なるで何事もなかったように。
月は相変わらず雲に隠れていて、うっすらとした光だけが机の転がった教室
を照らしていた。
つぃっと舞姫が床に書いてある円をなぞる。
「この円の中にいる限り、霊には見えないんだって」
舞姫はもう、すっかり落ちついていた。
声も、水のように穏やかで、澄みきっていた。
「力が続いてるばらくの間は安全。その間にきっと助けが来るはずだから」
「しばらくって、どのぐらいですか?」
「30分弱」
長いとも、短いともいえる。
「もし助けが来なかったら?」
舞姫の手が止まった。
芳春ははっとした。舞姫も不安なのだ。聞いてはいけないことだったのかも
知れない。
舞姫は、振り返り、微笑んだ。
「分からない」
我慢した笑いなのはすぐにわかって、芳春は後悔した。
ぎゅっと握った舞姫の手が小刻みに震えているのを見ると、もう芳春は恐ろ
しい「顔」のことなどどこかにいってしまった。
「えっ、えっと………僕、今まで幽霊ってあまり恐くなかったんです」
舞姫の震えがぴたっととまり、潤んだ瞳が芳春を見た。
少し色っぽくてドキッとしてしまったが、教壇の前で作文を発表する少年の
ように、一生懸命、続きを語りだした。
「怪談とか聞いても恐くなかったし、実際に見たこともなかったし。でも、一
つだけ恐いものがあったんです」
芳春が指を一本たてる。
舞姫が「……なに?」と聞いて、瞬きをしたとき、残りの涙が頬を伝わった。
「えっと、ほら、指がチョキをしている怪獣」
「もしかして、バルタン星人?」
最近、ウルトラマンも再放送していて、舞姫もその名前を知っていた。
でも、それにしても、バルタン星人とは。
それを聞いて、舞姫はやっと微笑んだ。
「はい、床屋で髪を切っている時に漫画で読んだんですけど、主人公の周りの
人がすべてバルタン星人になっちゃうという話だったんです」
「すべての人が?」
「うん、八百屋のおじさんも、知り合いも、家族も」
「ふぅーん」
「それで、なんか恐くなっちゃって。家にいたとき、暗闇からバルタン星人が
出て来るんじゃないかって、すごく恐い日が何度かあったりしました」
舞姫がくすくすと笑いだして、芳春は飛び上がるように嬉しくなった。
ひとしきり笑うと、舞姫は「……もっと何か話して」と呟いた。
優しい瞳。
幸せに包まれたような、優しい笑顔。
芳春は今度は自信を持って、話すことができるようになっていた。
「むかし力が弱くて、持ったもの何でも落としちゃった頃があったんです。そ
れで、アイスクリームを買ってもらったんですけど、そのまま落としちゃって。
泣いて、泣いて、泣いたら、新しいのをまた買ってくれたんです」
「良かったじゃない」
「でも、また落としちゃって」
今度は、声をだして笑った。
教室がほんの少しだけ、明るくなったような気がした。