#2697/3137 空中分解2
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「江戸日記:河童わらべ(その一)」 太竹 数馬
★内容
私の実家は造り酒屋である。
代表銘柄の『河童泉』は全国の銘酒品評会でもたびたび入賞している。
近くに河童のでそうな川や沼があるわけでもないのに、なぜ『河童泉』なんて
名前が付いているのかが子供の頃から不思議だった。
夏休みに実家に帰ったとき、何気なく入った倉の中で、曾祖父の日記を見つけ
その理由がわかった。
日記は少年時代から青年期にかけて、天満屋という酒問屋の奉公人だった「太
助」が、江戸で見聞きしためずらしい事柄や、奉公の記録を書き留めたものだ。
「太助」は河童に会っている。
そのへんの事情は、「酒盗人」の中で述べておいたが、日記をパラパラとめく
るうちに、もう一箇所河童の記述があった。
天満屋は、表通りに面した大きな店だったが、その裏側には「梅の木長屋」と
呼ばれている最下級の住民が住む長屋が連なっている。
この長屋も天満屋の所有で、番頭の喜作が、家主として住込み込んでいた。
天満屋が、ここ日本橋は室町三丁目に店をかまえたのは、三十ほど前だったと
いう。
長屋は、天満屋開店の数年後に建てられたようだ。
主人家族の住居を兼ねた天満屋の店舗は、良質な建材を使って造られており、
しかも手入れが行き届いていたので、三十年の古さが風格になっていたが、梅の
木長屋は、もともと安普請だったこともあり、数度の修理にもかかわらず、みす
ぼらしい。
当然ながら、店賃は安かった。
そんな長屋の一軒に「文太」という少年が住んでいる。
腕の良い大工の息子として生まれた文太だったのだが、まだ六才になったばか
りの頃、父親が足場から落ち、右足を失った。
父親は、大工の腕を生かし、家でもできる指し物職人に替わったのだが、親方
について正規な修行をしたわけではないので、頼りになる親方などは持っていな
い。
半端職人では、一人前の手間賃をとることはできなかった。
そんな事情で、店賃の安い梅の木長屋に移り住んだようだ。
文太は一人っ子で、親子三人だけの暮らしだったから、始めはそれでもなんと
か人並な暮らしもしていたらしいが、文太が八才のとき、母親が病気になった。
もともとかつかつの生活だったから、薬代のかかる病人をかかえての生活は、
いっきに困窮した。
(おれも、かあちゃんの薬代をかせぐんだ)
親思いの文太は考えた。
長屋は、築地の浜の近くにある。
界隈でまずしい暮らしをする子供の中には、朝になると築地の浜に行き、「あ
さり」を採り、売り歩く者が多かった。
文太も、そんな子供達に交じって、あさり採りを始めた。
まだ八才になったばかりの文太だったから、ほかの子供達に交じって川に行っ
ても、ほんの浅いところでしか採れなかい。
それに加え、集まる子供の人数も多かったこともあり、文太の収穫は微々たる
ものだった。
「おっきなあさりをいっぺえ採って、銭をたんとかせいで、おっかあに旨いもの
でもくわせてえなァ」
幼さが残る文太ではあったが、いつも思っていた。
ひといちばい根気強い性格だったこともあって、もう採りつくされた河原に最
後まで残っているのが文太だった。
子供達があさりを採る場所は決まっている。
あさりの採れる浜のほとんどの場所は、本職の漁師のための地域だ。
子供達が採る場所は、家計を助けるために働く子供達のためにと、漁師達がわ
ざわざ用意し、開放していた場所だったのだ。
築地の浜は、波も穏やかで、危険などまったくないように見えるが、この浜に
は、「河童」がでるとの言い伝えがあった。
特に、「河童浜」と呼ばれている一角については、子供ばかりか大人でも近づ
いてはいけないと厳しく立ち入りを禁止されていた。
「夜中、酒に酔ってうっかりと河童浜に近づいた人足が、それっきり行方不明に
なったなんざァ、しょっちゅうだよ」
漁師の言葉に、子供達だけではなく大人ですら恐がって近づかない。
古来河童は、人を水の中に引きずり込むと信じられ、恐れられていた。
その日も文太の収穫はほとんどなかった。
文太が持つ小さな篭には、しじみ程度の大きさの貝がほんの数個しか入ってい
ない。
仲間の子供達はもうすっかり引上げてしまって、文太はただ一人、とぼとぼと
浜を歩いていた。
「これじゃあ、銭にもなんにもなりゃあしねえや。おっきな貝を篭いっぺえ採っ
てみてえなァ」
うわの空で歩くうちに、自分が「河童浜」に入っているのに気がついて、はっ
とした。
「ここは、河童浜じゃあねえか」
きょろきょろと、あたりを見回したが、人影はまったく見えない。
「よかったァ。河童はまだ起きていねえみたいだなァ」
安心して少し落ち着いてくると、そこはまだ子供、好奇心がむくむくと頭をも
たげる。
「きれいな浜だなァ。砂がきらきらしていらァ。きっと、おっきなあさりがいる
んだろうなァ」
つぶやきながら、おそるおそると水辺に近づいた。
「あさりならたくさんいるよ」
突然後ろの方から声が聞こえた。
「わァ」
びっくりした文太は、持っていた篭を放りだしてし、恐ろしさにうずくまって
しまった。
「ちっちゃなあさりだなァ。こんなの採ってどおするだァ」
まだ子供の声だ。
「江戸んもんは、こんなあさりを喰だか」
てっきり河童が後ろにあらわれたと思った文太だったが、どうも様子が違うと
気がついた。
おそるおそる後ろを見ると、文太よりももう少し年下のみすぼらしい身なりの
少年が立っている。
「なぁんだ、脅かすんじゃあねえや。おれはてっきり河童かと思ったァ」
「河童てなんだァ」
「おめえ、河童を知らねえんか」
「知らねえ」
「おまえ、どこからきたァ」
「佃島からおとうと船に乗ってきたんだ」
「おめえのおとうはどこにいるんだい」
「船から魚ァ降ろして、魚屋へ持ってってるだ。おれはここでおとうを待ってる」
文太は納得した。
島で育ったこの子が、河童を知らないのもなんとなく理解できたし、漁師が採っ
てきた魚を早朝売りにくることも知っている。
この子が、そんな漁師の子供であれば、河童浜に一人でいるのも不思議ではな
いと思った。
「ここはなァ、河童浜っていってなァ、河童が人をさらう恐ろしい場所なんだぜ」
「ふーん。海坊主みてえなもんかなァ。でも、おれは恐ろしくなんかねえよ。お
とうがいつも言ってらァ、あんなもんはみーんな、人間が考えだしたうそっぱち
だってよ」
文太は利発な子供だったし、迷信なんてあまり信じてはいなかった。
河童についても、半信半疑だったが、文太の父親は当時の江戸っ子がそうだっ
たように、なにかと縁起をかつぐ。
「河童浜には行くなよ」
耳にたこができるくらい、聞かされていたから、ふいに声をかけられてびっく
りしたのだが、年下の子供から言われて、恥ずかしかった。
「お・おれだって、信じちゃあいねえやァ」
強ぶってみせている。
漁師の子で、いつも蛤や赤貝やほたてを採っているというその子は、文太のた
めに器用に水の中にもぐって、自分の身長よりも深いところのあさりをも採って
くれた。
「おらァ、こんなにでっけえあさり、始めて見たァ」
採ってきたあさりを見て、文太はびっくりした。
「こんなんはまだちいっちぇえもんだ。あさりとしちゃあ大きいだども、海には
もっとでっけえ貝がうじょうじょいるだョ」
魚吉と名乗ったその子は、
「おとうが帰ってくるまでのひまつぶしだよ」
と言って、文太の篭があふれるくらいの大きなあさりを採ってくれた。
それからは毎朝、文太は魚吉と会った。
もちろん大人から禁じられている場所だったから、だれにも河童浜に行ってい
るとは話していない。
文太だけの秘密だった。
つづく