AWC フクさんのいた年(四)      くり えいた


        
#2395/3137 空中分解2
★タイトル (DRB     )  92/11/23   3:13  (197)
フクさんのいた年(四)      くり えいた
★内容
 銀色のペンチのようなものが釣り針のような針をつかんで、ぱちっぱ
ちっと音を立てる。その動きにはよどみがなくて、まるで事務的だった。
当直の若い先生が、血まみれの稽古着のままのフクさんの顔に穴の開い
た緑色の布を広げ、その傷を縫ってくれていた。フクさんは自分一人で
歩いて病院に行こうとしたが、無理矢理ここまで僕がフクさんをおんぶ
して走ってきたのだ。ボケ松は保険証をとりに、フクさんの家まで走っ
ていた。
「五針縫っといたけど、一週間から十日で抜糸できるよ。毎日消毒に来
てね。大丈夫だとは思うけど、一応頭のCT撮っておきましょう」
 先生はわざわざレントゲン技師さんを電話で呼び出してくれた。僕と
フクさんは待合室のソファーに座って、技師さんが出てくるのを待った。
フクさんの左頬のガーゼに小さい赤い染みが広がる。
「ごめんなさい……何と言ったらいいか……」
うつむいてそう言った僕の方に体ごと顔を向けたフクさんは、大丈夫な
方の頬にエクボを作って言った。
「負けたもんが、『ごめんなさい』もクソもあるもんか。勝ったのは俺
だぞ」
「……いや、それはそうなんですけど……そういう問題じゃなくて……
フクさん、黒帯の昇段試験……」
「あ、昇段試験受けられなかったのは、ケガした俺の責任ね」
「でも、フクさん言ってたじゃないですか。黒帯とって区切りをつけて、
晴れて結婚したいって。僕のせいだ……」
 フクさんはそのエクボを消さずに窓の外の空を見た。朝からの天気が
嘘の様に厚いねずみ色の雲だ。フクさんは稽古着の右脚の裾をまくると、
そのプラスチックの部分の金属の関節部をかちんと取り外した。フクさ
んの右脚がすぽんとれた。太モモの外側が紫色に腫れ上がっていた。僕
のせいだ。
「俺ね。嬉しかったよ」
「何が……ですか」
「俺の脚、本気で蹴ってくれたの。デカちゃんが最初……空手やってて
今日の今日まで、誰も力入れて蹴ってくれなかったから」
「……」
「それでね。本気で蹴ってくれたデカちゃんに頼みがあるの」
「頼みって……?」
「何とか、この弱点克服しないとね。組み手がダメ。やっぱり黒帯にな
れないや。だから治ったら道場でさ、新しいトレーニングするんだ。手
伝ってよ」
「はあ……それは、喜んで手伝いますけど……」
フクさんは取り外した二本の義足を手でおもちゃのように扱いながらソ
ファーに揃えて置いた。
「あのお医者さんさ。気が付かなかったな」
「フクさんの動き、全く自然ですもん……」
「人間てさ……どこからどこまでがホントの自分なんだろうね……」
「え……」
僕はフクさんの言葉をもう一度頭の中で反芻した。早く技師さんがフク
さんの頭のCTを撮りに来ないかと思った。
「いや、『俺』って言った時にさ、『俺』と『俺じゃないもの』の境界
線ってさ、いったいどこまでを言うんだろうな。やっぱり頭の先から足
の先までの体全部かな」
 僕はフクさんが何を言いたいのかわからなくて、フクさんの顔を見て
いるより仕方がなかった。いつの間にかエクボが消えていた。
「俺の友達ね。もう死んじゃったけど。車が好きなやつでさ。普段は生
きてるのか死んでるのかわからないような奴だったけど……それがもう
車に乗るとイキイキするのね。こう目がぎらぎらしてさ。これは俺の体
なんだって言ってた。ボンネットに頬擦りしながらさ」
「はあ……」
「そいつがそいつだって言えるのは、そいつが車にくっついた時だけな
んだよね。車降りたときのあいつは何が恐いのか、いつも震えてるんだ
……ああ、そうそう、デカちゃん何で空手始めたの?」
「……それは、フクさんが無理矢理……」
「ははは、そうだっけ」
「……いや……やっぱり自分に何かが欲しかった……から……かな」
「あのね、空手だとか自分の身体の範囲内で出来る技を身につけようと
する人は劣等感が強いんだって。どっかの本で読んだ。あれ本当だって
気がする。柿さんだって、ボケ松だってそうだ」
「そうなんですか」
僕はシラを切りながら内心ぎくっとして言った。フクさんは曇り空を見
上げたたまま静かな声で喋った。
「ほら劣等感の少なそうな人ってさ、もう興味が自分以外の外に向いち
ゃってるじゃない。いろんなものに関心示してさ。うまくこなして」
「……何だか……ちょっとわかる気がします」
「うん、デカちゃん頭良いからね。俺尊敬してるんだ。すごいね学生さ
んは、勉強厳しいんだろ。俺もバカだけど、もうちょっとうまく喋れる
ように勉強したかったな」
僕は自分の学生生活を思い浮かべて、心の中で冷たい汗をかいた。
「俺さ、中学出てこっちで勤め出して、すぐこうなっちゃったからね。
いろんな事あったけど……俺は俺だと思ってふんばって来たけど。やっ
と最近さ。やっと最近……」
「……最近……」
僕にはフクさんが事も無げ言う「いろんな事」の中身が想像すら出来な
かった。
「……うーん、どう言えばいいのか……よくわからないけどさ……『俺』
と『俺じゃないもの』の境界ってやつがさ……どうでもよくなってきた
んだ……ははは、よくわかんないね。俺の話って」

 細い雨が頬に当たって妙に冷たかった。僕はフクさんをまた負ぶって
通りに出た。後から義足を抱えたボケ松が傘をさしかける。CTに異常
がなくて本当に良かった。最近日が短くなって空はもう真っ暗に近かっ
たけど僕の足は軽かった。気の早い店がネオンをチカチカ付けている。
しばらく黙っていた背中の上のフクさんが耳打ちした。
「デカちゃんさ、ちょっと傷口の麻酔と消毒して行こうよ」
「え……」
「ゴンドラでさ」
「……ダメですよ。お医者さんも言ってたじゃないですか。傷がくっつ
くまでアルコールはダメだって……」
「ダメ?」
「ダメです!」
「お前は、目上であるこの俺に怪我をさせた上に、その俺の自由まで束
縛するのか。そうか、そうだったのか。お前はそういう奴だったのか」
「……勘弁してくださいよ。治ったらいくらでも付き合いますから」
「いやだ。今日でないとダメなんだ」
「どうしてですか?」
「……ママのお腹の中にまで『俺』の一部が拡張したの」
狐につままれたような顔をして立っている僕をよそに、ボケ松がもうゴ
ンドラのドアを開けていた。
 僕のその晩の記憶はママさんのおっぱいが黒ずんだのどうのこうのと
言うフクさんのノロケ話で終わっている。そこから先はどうしても思い
出せなかった。


               冬

 ちんぽこ岩の境内に木枯らしが吹き込む。フクさんの身体から真っ白
な湯気が上がる。僕はと言えばさっきからフクさんの膝に腰を降ろして
いる。いや別にフクさんと怪しい関係に発展したわけではない。フクさ
んの結婚式は間近だったのだから。フクさんの身体を想像してもらえば
わかるが、フクさん独りでは腹筋のトレーニングが出来ないのだ。僕は
膝の重しである。数を数えるのも千を越えると口がくたびれて痺れてく
る。フクさんの方はお構いなしに上体をすごいスピードで上下させる。
この正月休みも、色あせた黄色い帯を締めた僕とボケ松はこの数ヶ月間
フクさんのこの狂ったとしか言い様のない腹筋のトレーニングに付き合
っていた。
 三千を数えたところでやっと汗を拭いたフクさんは、稽古着を脱いで
上半身裸になる。もともとフクさんの上半身に余計な贅肉は一切なく、
見事に鍛え上げられた筋肉が浮き上がっていた。特に肩の三角筋がすご
かった。最近はそれに合わせて腹筋の隆起が気味悪いくらい凄味を増し
ていた。
 僕とボケ松はフクさんの体を持ち上げて、境内の神木の太い枝にぶら
下がらせる。僕は右足、ボケ松は左足だ。フクさんの短い足に体重をか
ける。それをフクさんは身体をエビの様に折り曲げ、膝を持ち上げてこ
らえるのである。最近は僕等二人がぶらさがって足が完全に地面から離
せそうな気さえした。神木はみしみしと音を立てる。フクさんは目を見
開き、頑丈な顎で歯をぎしぎし言わせながら腹筋にコブを作る。その太
モモの筋肉がぱんぱんに張っているのがぶら下がる僕の二の腕に感じら
れた。僕の額にフクさんの熱い汗がぽたぽた落ちた。フクさんは何かを
やろうとしているのだ。それが結婚式への準備でないことだけは僕にも
わかった。

 フクさんやボケ松と別れた僕は、ダウンジャケットを着込んで寒い海
岸へ出た。大学の後期試験も近いと言うのに、準備はまったく進んでい
なかった。グレーの雲の切れ間からまっすぐに光の筋が降りて、濃い青
碧の海面の遠い一部だけがきらきらしていた。糸の切れた凧がどこから
か飛んできて、どこかへ飛んでいった。風が運ぶ磯臭い匂いを煙草の匂
いが消した。トレーニングのためにしばらくやめていた煙草を吸い出し
たのは、一週間ほど前だ。僕はポケットから一枚の写真を取り出すと、
タバコの火を移した。写真は半分ほど燃えたところで海に投げ入れた。
じゅっと音を立てて半分黒くなった女のにこやかな口元が波にさらわれ
ていった。そうして僕は暗くなるまでただそこにいた。

 ふと境内に忘れ物を思い付いた僕は帰りにちょっと遠回りして、ちん
ぽこ岩に寄った。最近この辺は夏の時とは打って変わって人気のない場
所だ。例によって岩の頭を撫でていたら後ろの暗闇に赤い寒椿が咲いて
いるのを見つけた。石段が真っ暗でちょっと恐い。冬の裸電球はなぜこ
んなに暖かいんだろう。僕は社の縁側から買ったばかりのスポーツタオ
ルを取って鞄に入れると、再び電球に両手を近づけた。指の隙間から洩
れた光は幻燈のように境内の白い地面に奇妙な影を作った。
 下の方から音がする。半分ほど石段を降りた僕は木立の隙間からちん
ぽこ岩の方を眺めた。下の方に人影が見える。座って何かをしているよ
うだ。僕は気取られないように石段を離れて木立の合間を下にゆっくり
と降りた。ちんぽこ岩の後ろ、ちょうどあの寒椿が咲いていた当たりだ
ろうか、地面に何か穴を掘っているようであった。横に白い箱のような
ものが置いてある。せっせと土を掘り返してはちょっと考え込むようで、
また思い出したように土を掘る。その男のためいきが寒さで白く見えた。
暗くて顔がよく見えないので、僕はさらに下の方に降りてそっと近づい
た。
 男は箱を手にとってひょいと変な姿勢から立ち上がった。その立ち上
がるときにした音で僕はそれが誰なのかがやっとわかった。僕は下に降
りると男と対面した。フクさんの懐中電灯が僕を照らす。まぶしくてよ
く見えなかったけれど、フクさんは大いにうろたえていたことがわかっ
た。
「……何だ、また来てたの……」
「フクさんこそ……何してるんですか? この寒い夜に……」
「……いや……ちょっと……」
僕はフクさんが抱えた白い箱に目をやった。
「あ、これね……まあ、あるでしょ……いろいろ整理しときたいものが
……これから女の人と一緒に住むんだから……」
フクさんのその言葉に合点がいって、僕はにやにやしながら言った。
「ああ、なるほど。その手の本ですか」
「いや……そんなもんじゃないんだけど……」
「随分ため込みましたね」
フクさんはしばらくうつむいてからぼつりと言った。
「久子だよ」
「……ひ・さ・こ?」
フクさんの顔が手に持った懐中電灯の光に下から照らされて、まるで別
人の様に見えた。しばらくの沈黙の後、僕にはその白い箱が妙に薄気味
悪く見えてきた。
「まさか、中身は……骨……」
「馬鹿、そんなもんじゃないって。久子は俺の初恋の人の名前だ」
「でも箱の中身は『久子』だって……」
「見てみるかい」
僕は脚が震えたけれども、その中身もちょっと見てみたい気がした。ど
こか遠くで猫の鳴き声がした。フクさんがまた座って、静かに箱の蓋を
取った。中身はまたデパートかなにかの包装紙で厳重にくるんであった。
フクさんが紙を開ける。


                      (五)に続く




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