#2145/3137 空中分解2
★タイトル (RAD ) 92/ 9/15 1: 4 (111)
真理子 悠歩
★内容
「真理子」
悠歩
間もなく日も暮れようかというのに、このうだるような暑さは一向に衰える様子が
ない。
軒先に吊された風鈴も、午後から一度もその音色を響かせてはいない。私はまた、
気だるい動作で、くわえ煙草に火を付け、フーッと煙を吐いた。風の通らない部屋の
なかで煙草の煙は、何かの固まりのようにのろのろと浮かんでいる。
テレビには、今にも泣き出しそうになりながらも必死に、自分の学校を応援してい
る女子高生の顔が大きく写し出されている。
折角の休暇に、何処かへ出かけるでも無く、ただこうやって一日を無駄に過ごして
いる僕に比べ、彼女達はきっとすばらしく充実した夏を過ごしているのだろう。
僕は、ふっと、十七年前のあの日の出来事を思い出していた。
その日の僕は上機嫌だった。隣り町の、僕達と同じ小学四年生の草野球チームとの
試合でランニングホームランを含む三安打を放ち、チームを勝利へと導いた。
夏の夕日が真っ赤に染め上げた、川原の土手を意気揚々と家路に向かっていた。
先程からおなかの虫も、ぐうぐうと大きな声を張り上げて騒いでいる。
「もうしばらくの辛抱だからな。家に着いたら、いやというほど御飯を詰め込んでや
るからな。」
そんな独り言を自分のおなかに語り掛けながら、僕は家路を急いでいた。
僕達のグランドになっている広場から、家までの半分くらいまでの距離を来たとこ
ろだったろうか、ふっと、川原へ目をやった僕の視界に、一人の少女の後ろ姿が飛び
込んできた。
歳は、僕と同じくらいか、それよりも少し上だろうか。いかにも女性らしく、細い
体付きに、腰の辺りまである、長い黒髪が良く似合っている。淡い、グリーンのワン
ピースが、真っ赤な夕焼けに映えていた。
いつもだったら、
「あっ、女の子がいるなあ。」
と思うぐらいで、特に気にもせず、通り過ぎていただろう。
でも、そのときの僕は、何故だかその少女の後ろ姿に強く引かれ、その場に足を止
めていた。
少女はただ静かに川面を見つめている。そして、僕はただその少女の後ろ姿を見つ
めている。そんな奇妙な光景が、五分ばかり続いただろうか。
そして、僕はいつの間にか知らず知らずのうちに、少女の真後ろに立っていた。
「何か、ごよう?」
僕の気配に気付いた少女が、少し驚いたように振り返った。
その、鈴の音を転がしたように透き通った声に、僕は、ふっと我にかえった。
まるで、フランス人形のように大きくてかわいらしい瞳が、怪訝そうに僕を見つめ
ている。
「あ…。ご、ごめん。なにしてるのかなと思って」
慌てて僕はそう答えた。
少女は何も言わず、再び川面のほうを振り返り、沈黙を続けた。
僕は何やら気まずい思いで、踵を返し、その場を立ち去ろうとしたそのとき、
「川を見ていたの」
ぽつりと少女が言った。
その声に僕は足を止め、少女の横顔を覗き込んだ。何処か悲しげで、そして、大人
びた目で川を見つめている。
「川の流れを見ていたの」
「かわ…の流れ?」
少女の言葉につられ、僕は少女の視線を追った。
辺りはすっかり薄暗く紫色に染まっていたが、僅かに町の明かりを受け、川の流れ
が、キラキラと光っていた。
何度となく近くを行き来して来たはずの川なのに、何か特別な、そう、神聖なもの、
とでも言うのだろうか。そんな感じがして、僕はそのまましばらく川面を見つめてい
た。
不思議なことに、このとき、僕は初めてこの川の流れを聞いた。
しばらくして、僕はまた、少女のほうに視線を戻した。
少女はただ静かに川面を見つめていた。
僕は少女に声を掛けようとしてためらった。
そして、僕はそのまま少女の注意が、再び僕のほうに向けられるのを待ったが、一向
にその気配はなく、何か後ろ髪を引かれる思いで、僕はその場を後にした。
その夜、僕は少女のことが気に掛かり、なかなか寝付けなかった。
翌日、友達のうちで、ゲームに夢中になった僕は、昨日とほとんど同じ時間に同じ
場所を通り掛かった。
そして、あの少女は僕の密かな期待通り、昨日と同じ場所で昨日と同じように、川
岸に佇んでいた。
何をするでもなく、ただ一心に川の流れを見つめていた。
僕はやや距離を置いた、少女の後ろの土手に腰掛けた。
「ねえ、川の流れって、不思議ね」
少女は川を見つめたまま、言った。
「えっ?」
不意に声をかけられ、僕は一瞬戸惑い、しばらくの間、ただ、少女の後ろ姿を見つ
めているだけだった。
「毎日毎日、同じように流れているように見えるけど、そうじゃないわ。今、私たち
が見ているのは、昨日流れていたのとは別の水なんだわ」
この位の年頃の女の子は、得てして、同じ歳の男の子より大人びているものだが、
今まで、まるで考えたこともないような、この、哲学的な少女の発言に、僕は答える
言葉もなく、ただ、馬鹿のようにポカンと口を開け、腰を下ろしたまま少女を見つめ
ているばかりだった。
そんな僕には構わず、少女は言葉を続けた。
「そしてその水はね、ずっと遠くの山から流れてくるの。休むこともなく、ずっとね」
「はあ?」
「そして、やがて海に出るの。海に出て、太陽に照らされて、蒸気となって、雲にな
り、また雨になって地上に降ってきて川となるんだわ」
『まるで、理科の授業を聞いているみたいだな』
勉強嫌いの僕としては、余り面白い話とはいえなかったが、それでも少女が僕に話し
かけているのだと思うと、とても心地好かった。
「ねえ、そうだ。一緒に川のもとを見に行かない?」
そう言いながら、少女が振り返った。
その顔からは、昨日見た憂いは消え、無邪気な少女らしい表情になっていた。
「かわの…もと?」
僕は、鸚鵡のように少女の言葉を繰り返した。
「そう、川のもとの、泉が湧き出ているのを見に行きましょうよ!」
「あ、うん。行こう。川の元を見に」
僕は即座にそう答えた。
この川は、電車で幾つもの駅を越えた山から流れてきている。
そんな遠くまで、子どもだけで行くなんて事を親が許してくれるはずがない。
しかし、僕にはこの少女の誘いを断わることなんて出来なかった。
それどころか、少女が僅か二回、ほんの少し話した僕を誘ってくれたことに、感激
してそんなことを気にすることなど無かった。
「ええ、行きましょう。一緒に」
少女はとても嬉しそうに、にっこりと笑った。
そのかわいらしい笑顔に、僕はすっかりのぼせてしまった。
「じゃあ、今度の日曜日、朝7時に駅前で会いましょう」
そう言って少女はその場を走り去った。
すっかりのぼせた僕は、暫くその場所で今度の日曜日に思いを馳せていた。