#2119/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 92/ 9/ 5 6: 8 (169)
「還る」(1) 浮雲
★内容
1
木村賢治は、その考えが頭に浮かんだとき、いい歳をして、と自分を笑った。
そして、それがたんなる思い付きから、どうしても、という気持ちに高まって
いくのを、他人ごとのようにながめるている自分にいっそう驚いた。
た。
「そうかも知れない」
賢治は、ここ二、三日のことを思いだした。
「おじいちゃん」
つれあいの珠恵が、おやおや、という調子で声をかけた。
珠恵は、結婚以来、賢治に話しかけるときは、「ねぇ」と呼びかけるのが常で
あったのに、孫が出来ると、いつのまにか「おじいちゃん」になっていた。
賢治は、珠恵の声に、なんだろうと思いながらも、珠恵の視線の先にある自分
の手元を見た。
「おっ、」
賢治は、息をのむと、あわてて手をひっこめた。そして、とっさに機転をきか
して冗談を言おうとしたが、それが出てこなかった。
「ちっ」
賢治は、舌を鳴らしたが、それは箸を逆さに持って夕食のおかずをつまもうと
していたことに対してよりも、頭が少しも回らなかったことへの腹立ちからであ
った。
珠恵は、何事もなかったように箸を動かしたが、賢治は、その口元が別の動き
をしているように思えてならなかった。
「笑いたきゃ、そうしろよ」
賢治は、出かかったことばを無理に飲み込んだが、そのあと、何を食べてもま
ずく、ひどく損をさせられた気がして、しらけた気分が広がっていくのを抑える
ことができなかった。
そればかりではなかった。食事が終わってしばらくしてのことだった。
「おい、はやくお茶くれよ」
賢治は、夕刊を放り出すと、テレビのスイッチを入れながら、珠恵に声をかけ
た。
娘二人に、嫁に行かれてしまったあと、老夫婦二人きりの食事は、テレビも付
けず、これといった世間噺をするでもなく、短時間のうちに済ますのが当り前の
ことのようになっていた。
「あら、さっき入れておきましたよ」
「いつだよ」
賢治の声はとがっていた。
「ですから」
あとのことばを、珠恵は喉の奥で殺した。
賢治は、珠恵の背中をにらみつけてから、湯呑を手にもって、中をのぞき込ん
だ。底に、飲み残しのお茶が沈澱していたが、それは、いつ入れたものか判然と
しなかった。
「いつものことなんだから、ちゃんとしてくれなきゃ」
賢治は、もう一度珠恵の背中をにらみつけながら、口の中でぶつぶつこぼした。
「はい、はい」
聞こえないだろうと思っていたのに、珠恵は、賢治の愚痴を耳に入れたらしか
った。
「はい、は一つでいい」
賢治は、独り言を聞かれたかと思うと、妙に腹立だしかった。
「はい、はい」
珠恵は、流し台に向かって、べえ、と舌をだした。
賢治は、そのときになって、このお茶はうまいねぇ、どこで買ったんだい、な
どと、柄にもなくお世辞を言いながらお茶をすすったのを思いだした。
数え上げればきりがなかった。
「歳のせいかなあ」
賢治は、このところ、自分でもびっくりするほど怒りっぽくなっていることに
も気がついていた。はじめは、血圧が高くなったせいにしていたのだが、どうも
そればかりではない、いつのまにか、そんなふうに考えるようになっていた。
実は、賢治には心あたりがあった。
娘二人が続けて嫁いでいくことになったとき、珠恵とふたりだけの生活は、ど
んなに退屈で、それはそれは一日が長く感じられることだろう、そう思ったもの
だった。
珠恵は、あちこちにいる友達や、娘たちのところに出かけることが多く、相変
わらず忙しく暮らしていたが、これといった趣味もない賢治は、ほとんど一人で
家にいることが多かった。
たしかに、朝から晩まで手持ち無沙汰に暮らす一日は、それはそれは長いもの
に感じられた。その一方で、それを笑うように、月日は容赦なく過ぎていった。
自分は無駄に残り少ない人生を使い捨てているのではないだろうか。ぼんやり
とではあったが、そんな焦りにも似たようなものが、どこかで生まれ、そして、
日増しに育っていくのが分かった。
2
賢治は、なぜよりよりよって、自分を笑わなければならないようなことを思い
ついたのか、不思議でならなかったが、とにかく、それに素直に従ってみようと
思った。
賢治は、その日のうちに、図書館に出かけた。珠恵には行き先を内緒にしてい
た。
はじめて訪れた図書館で、賢治は、目的のものがどこにあるのか探しあぐねた
が、係員にそのことを聞くことが出来なかった。なんとなく恥ずかしいような気
がしたし、自分一人でそれを探しあてたかったからでもあった。
だいぶ時間がかかって、やっとそこにたどり着いたとき、ほっ、とすると同時
に賢治は、何かこう、弾むような緊張感に襲われた。
「あれ、」
賢治は、思わず声をあげた。
いつだったか、新聞で、最近それが大変なブ−ムになっている、という記事を
見かけたことがあったので、書架にはどんなに沢山の本が並んでいることだろう
と楽しみにしていたのに、なんと、目の前にあるのはわずか2冊だけであった。
賢治は、なんだかだまされたような気がしたが、それも自分の不甲斐なさなの
かと思うと、気持ちが尖っていくのが分かった。それでも、なんとか気を取り直
すと、そのうちの一冊を抜いた。
それは『日本童謡史』という、なんともいかめしいタイトルの本で、ざっと目
を通してみると、なるほど専門的過ぎて、賢治の目的には叶わないものであるこ
とがわかった。賢治の中で膨らみかけていたものが、次第にしぼんでいった。
やれやれ、という具合いに、それを書架に戻すと、隣に並んでいた『童謡の楽
しみ』という本をひっぱり出した。
それは、「入門編」「鑑賞編」「実践編」と、大きく三つに別れており、どう
やら、初心者向けの入門書らしかった。賢治は、しめた、と思いながら、その場
に立ったままペ−ジをめくった。
書かれていることばは易しかったが、童謡のどの字も知らないできた賢治にと
って、やはり飲み込めないところが多かった。それでも、未知の世界に足を踏み
入れることから来るいい知れぬ興奮を覚えないわけにはいかなかった。
そうするうちにも、何人もの男女が賢治の前やうしろを通りかかり、両わきか
らいくつもの腕がつき出された。どうにも気が散って、書いてあることに集中で
きない。いや、それはまだ我慢出来た。
誰もが、こいつ邪魔だなあ、そう思っているくせに、それを少しも口にしない。
図書館には、そんな暗黙のル−ルのようなものがあるのだろうか。これでは、
書架に並んでいる本も何もかも、沈澱し、そこに書かれているものは、すました
顔の連中が吐き出す息のせいで、芯までどろどろに腐ってしまい、なんの役にも
立たないのではないか。賢治は、息苦しさを覚えて、はあ、はあ、と大きくから
だをうねらせた。
とにかく、外に出よう。あの、噴水の横のベンチに腰掛けて、ゆっくり読んだ
ら、もっと楽しく、そして、すらすら頭に入ってくるに違いない。
賢治は、カウンタ−に向かった。
3
「貸出カ−ドはお持ちですか」
賢治が『童謡の楽しみ』をカウンタ−に置くと、係員が、本のタイトルと賢治
の顔を見比べながら聞いた。
「えっ、」
そうか。考えてみれば当り前のことであった。ところが賢治は、何を勘違いし
たのか、カ−ドの意味をつかみ損ねてしまったのだった。何か言おうとすればす
るほど、喉の奥をふさいだものは膨らむばかりで、手足にまで震えを起こす始末
であった。
「初めてでしたら、カ−ドをお作りいたしますから、何か身分を証明するものを
見せて下さい」
係員は、慣れた口調で言いながら、なにやら書類のようなものを手元に引き寄
せた。
「はあ」
身分を証明するようなものと言われても、そんなものが手元にあるわけがなか
った。
「何か、お持ちになっていませんか」
係員は、ひとことずつ区切るよう言いながら賢治の顔を覗いた。
「はあ」
なんてまぬけなんだ、おれは。そう思うと、頭に血がのぼっていくのが分かっ
た。
「それでは、次にいらしたときに、運転免許証か保険証をお持ち下さい。あちら
に成人コ−ナ−という席がありますから、これはそこでお読みになって下さい」
係員の口調は、いかにも丁寧だったが、そのことばの裏に、あなたのような人
は多いんですよ、といった嘲笑が隠されているのを、賢治は見逃さなかった。
「はあ」
賢治は、震える手を抑えるようにして本を受け取ると、窓際に並んでいる机の
方に歩いた。
四つか五つある机は、どれもいっぱいだったが、一番奥にある机だけは、取り
残されたように、がらんとしていた。係員の言っていたように、その机のまん中
に「成人コ−ナ−」と書かれた表札のようなものが置かれてあった。賢治は、な
るほどと合点したが、それはあまり愉快なものではなかった。座っているのは、
老人ばかりであった。
そのうちの一人は、机の上に五、六冊もの新聞の縮刷版を積み重ね、片っ端か
ら記事を拾い読みしているように見えたが、ゆっくりした動作で一枚をめくり終
わると、もう次のペ−ジをめくり上げているといった具合いで、何か目当ての記
事を探しているとはとうてい思われなかった。賢治が隣に腰をおろしても、ちら
とも視線を動かさなかった。どうやら、ペ−ジをめくることそれ自体が目的のよ
うであった。
ふっ、息を吐き出すと、賢治は、斜め向いの老人に目をやった。その老人は、
目のまえに広げた大学ノ−トに、何か糸くずのようなものを、枯れ枝のような少
しも油っ化のない指先を器用に使って並べている。
その作業は、驚くほどたんねんに行われ、それは、老人にとって何ものにも代
え難い宝物のように見えた。いつからそのことを続けているのか分からなかった
が、それは閉館時間まで延々と続けられることのように思われた。
大学ノ−トに並べられているものの正体は、すぐに知れた。老人の指が鼻の穴
にねじこまれるのを見届けると、賢治は、窓の外にからだを向けた。
風に揺れる大きなけやきの木は、いつか、ひからびたうえに醜く歪んだ老人た
ちの顔のように見えてきたが、そのどれもが恍惚の表情を浮かべているのに、賢
治は嫉妬さえ覚えた。
− つづく −
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