#2120/3137 空中分解2
★タイトル (AVJ ) 92/ 9/ 5 6:10 (160)
「還る」(2) 浮雲
★内容
「時代が違う、か」
賢治の知っている童謡が一つも出てこないのだ。北原白秋、野口雨情、山村暮
鳥、そして島崎藤村といった名前がどこにも見あたらない。
改めて奥付の発行年月日を見てみると、「1990年12月初版」となってい
る。なるほど、新しく出版された本であることは分かった。しかし、そのことは
懐かしい童謡が一つも見あたらないことの理由にはならない。
賢治は、童謡などというものは、高名な詩人が書いた詩に、これまた一流の作
曲家たちが曲を付けたものを、子どもたちが歌う、そういうものだと思い込んで
いたが、どうやらそれは、むかし昔のことになってしまったようだ。近ごろの童
謡が、そんな既成概念にとらわれずに、大いに自由に創られ、そして、歌われる
のだとしたら、歓迎すべきだ、賢治はそう思った。誰かが、ある文芸雑誌に、「
誰にも読まれない文学など、書かれなかったのに等しい」といった主旨の雑文を
載せていたのを読んだことがあったが、なるほど、現代の子どもたちに歌われな
い童謡などこの世から消えて当然かも知れない、そうも思うのだった。
それに、何もかもはじめからやらなければならない素人の自分にとって、それ
はなんともありがたいものに思われた。その方が気楽でいい、賢治は、気持ちが
弾んでくるのがわかった。
そのせいだろうか。「鑑賞編」にのっている、はじめてみる作者たちの作品の
一つ一つが、なんとも身近なものに感じられた。
こんなのがある。
「道」という題がついた、8行ほどの短いものである。
「道」
まっすぐ道 まがり道
坂道 ぬけ道 かくれ道
帰りの遅い こわい道
顔を合わせた うれし道
だれか道 みんな道
走って とまって 泣いた道
肩をおとした まよい道
顔が笑った 未来道
こんなのもある。
「ジイと鳴く」
セミは
ジイと鳴く
何年も何年も
土の下でその日を待って
セミは
ジイと鳴く
これなどは、賢治からみても、童謡というよりは詩といった方がぴったりする
ように思われた。
はて、たしか、「入門編」でも、童謡は口ずさむもの、とあったはずだ。これ
も、口ずさむものなのか。そう思って、唇に音をのせてみた。
「ふふ」
歌う、というより、お経でもあげているような具合いになってしまう。
「おなら注意報」
これなどは、みんなで歌ったら、きっと楽しいに違いない。でも、文部省やP
TAの連中はどんな顔をするだろう。賢治は、子どものころにどれだけやったか
分からないほどのいたずらの、いくつかを思いだした。
「おなら注意報」
音のないほど へはくさい
だけど 注意のしようがない
へへ と笑ったらご用心
においがなければ へではない
だけど すかしっぺばかりでは
どうも 尻が落ち着かない
こんな調子で、まだまだ続く。
まったくだ。賢治は、のどの奥で笑いながら、そうか、童謡の正体はこれだ、
うん、これなんだ、となんども合点を繰り返した。
うまく理屈では言い表せなかったが、なんと言うか、童謡を口ずさむとは、欝
々とした気持ちを、息と一緒に吐き出してしまう、いわば、こころの体操とでも
いったらいいのかも知れない。誰もが知っていることなのに表に出さない、それ
が美徳でもあるかのように信じられていることを、あっけらかんと表に出してし
まうことの、つんとすました顔の化けの皮をひっぺがしてしまうことの、なんと
いう快感であることか。
賢治は、白秋や雨情の『大正童謡』によって閉じ込められていた先入観が、粉
々に砕け散るのを見る思いがした。
創るなら、こんな、子どもたちのこころを解き放すことのできる、歌って楽し
い、いや、口ずさまずにはいられないものでなければならない、そう思った。
5
珠恵が、賢治の様子がおかしいのに気がついたのは、賢治が図書館を訪れた日
から一月ばかりたってからのことであった。
賢治のボケは、相変わらず、ひどくもならなければ良くもならなかったが、こ
のあいだまでなら、ちょっとした自分の粗相にそれはそれは短気を起こし、だだ
っ子のようにまわりの者を困らせたものだった。それが、近ごろでは、むしろ自
分のボケを楽しんでいるふうにさえ見えた。
ついこのあいだも、こんなことがあった。
冷蔵庫を開けて何かやっていた賢治が、「あっ」と声をあげた。見ると、左手
に持ったコップから焼酎があふれ出て、だらだら床にこぼれ落ちている。
「どうしたの」
珠恵は、雑巾を取りに走った。
「いや、あのね」
賢治は、口をとんがらかしておろおろしていたが、
「氷を入れてたらあふれちゃって」
いたずらっぽく言って、 小さく笑った。以前なら考えられないことだった。
そればかりか、
「ほら、足どいてよ」
珠恵が、雑巾で床を拭こうとすると、
「はあ、これじゃ、ありんこが寄ってくるな。うん、ありんこりんこが焼酎飲め
ば、よっぱらって、ありゃりゃんこ」
などと、歌いだしたのだ。
「酔ってるの」
珠恵は、さすがにそのことばを飲み込んだ。
それにしても、なんという変わりようであろうか。珠恵は、なんども首をひね
ってみたが、これといって思い当たることなどなかった。たしかに、最近になっ
て、外に出たきり半日ほど戻らなかったことが二度ほどあったが、それも図書館
に行っていたらしいことが分かったし、「子どもの城」という雑誌が置いてあっ
たこともあったが、ああ、秋沢先生が何か書いていると教えてくれた人がいてね
、などと義理で手にいれたという口ぶりだった。
図書館で昼寝でもしているのかしら。珠恵は、それ以上考えることをやめた。
珠恵が思うほどに、賢治は、自分が変わったなどという自覚はなかった。ただ
、定年退職後は、何をするのも億劫で、玄関口まで新聞を取りに行くのさえ、珠
恵に言いつけていた賢治だったが、それが、あの日以来、よく動くようになった。
「舞やひろしは、どうだい」
珠恵が娘たちのところへ出かけたときなど、孫たちの様子を尋ねるようになっ
たが、そんなことは以前にはなかったことだった。
*
はじめてつくった童謡が、どんなにつたないものか、賢治はよく分かっていた。
しかし、一文字一文字書きつけていくたびに、何かが膨らんでいくのがわかっ
た。とにかく理屈抜きで楽しかった。
やっとシャ−プペンを置いて、改めて全体を通して読みなおしてみたときの気
持ちは、生まれたばかりの孫の顔を見て、思わず小さな手をいたずらしてみたと
きの、あの気恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちと一つのもののよう
な気がした。
その夜、賢治は生まれてはじめて失禁を経験した。ほんの少し漏らしただけだ
ったから、隣の珠恵には気づかれなかったが、翌朝、賢治はそのことを珠恵に話
した。
珠恵は、なんとも言えない顔をして、しばらくは口も利けないようであった。
「まあ、わが家にも孫ができたと思って、ひとつ頼むよ」
賢治は、笑った。
そんなふうに言われると、珠恵にできるのは、流しに向かってせいいっぱい口
をひん曲げて見せることぐらいであった。
昨晩のことは、はじめて童謡をつくって興奮していたせいなのだ。二度とおも
らしなどしないだろう。賢治は、そんな珠恵の背中を見ながら、そう思った。
いや、これは、と思う童謡をつくることができたら、布団をびしょびしょにす
るほどのおもらしをするかも知れない。
賢治は、窓を開けると、大きく背伸びをした。
− おわり −
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
初孫の顔見るまでは、あと五、六年いや、なにしろわが家の娘たちは、ボ−イ
フレンドの一人もいないようだから、もっと先のことになるかも知れません。
爆発的に増えつつある老人と、急激に減りつつある子とも、この両者はどのよ
うに関わりあうのでしょう。21世紀とは、そんなとても刺激的な時代であるよ
うな気がします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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