AWC 顔見知りの他人ー1    くじらの木


        
#2047/3137 空中分解2
★タイトル (BCG     )  92/ 8/13  15:47  (189)
顔見知りの他人ー1    くじらの木
★内容
 「いやあどうも」
 とっさにそんな曖昧な挨拶をした後で、三友勇一ははたと考えてしまった。
 この男はいったい誰なのだろうか。確かにどこかで会ったことのある顔だ、
それもそんな昔の記憶ではない、ごくごく親しいような、そんな気がする。
 だからこそこの男の顔をみた瞬間にかけよって挨拶をしてしまったのだ。
 それなのに勇一はその男の名前も、自分との関係も、なにもかにもが思い出
せない。
 暖かい日が三日もつづいていた三月の終わり、帰宅の人で混みだすにはまだ
早く買物をする主婦には少し遅すぎるそんな中途半端な時間だった。徳島駅前
の歩道にその男は立っている。
 四十五位だろうか頭には白いものが目立ちはじめてはいたが、肌は健康的に
日焼けをして腹も出ていない、そう、いつもの管理された健康体だと勇一は思
った。
 手にはコートとアタッシュケースを持っている。
「ご出張ですか」
 勇一は探りをいれた。
 男は無言のまま勇一を見ている。それは刺すような鋭さだ。いやこんな目で
はなかった、勇一の知っている彼の目はもっとのんびりとしたおだやかな目で
あったはずだ。
 仕方なく勇一は話を続けた。
「いや、どうもまいりましたね、私ですか、出張です、ええ、ここから車で十
分ばかりの所にうちの工場がありましてね、まだ動き始めたばかりなもんでな
んやかやトラブってましてね」
 男は無言のままじりじりと後退りを始めたかとおもうと、くるっと後を向い
て走り出した。よほどあわてていたのだろう、反対からちょうど歩いてきた同
僚の篠崎とぶつかった。男はそれでも少しよろけただけで逃げるように走り去
った。勇一はぶぜんとしている篠崎の所に走り寄った。
「知り合いですか」
 篠崎がズボンの埃を払いながら言った。
「ああ」
 勇一は曖昧に答えた。
 ふと足元を見るとなにか黒いものが落ちている。
 拾ってみると、黒革の手帳だった。男が提げていたコートのなかからでも落
ちたのだろうと勇一は思った。
 手帳の裏表紙をめくると持ち主欄の所に猪狭山慶太と書いてあった。
 猪狭山慶太、猪狭山慶太、それはやはり聞いたことの無い名前だった。
 まったくどうゆう事なんだ。
 勇一は手帳を胸ポケットにしまい、男が走り去った駅前の道をぼんやりと眺
めた。
 三友勇一は都内に本社のあるラベルメーカーの営業課長をしている。
 その彼が工務係長の篠崎隆と二人でここ徳島に来たのは先月から動き始めた
徳島の工場の製品にクレームが続出したからであった。
 勇一はあまり愉快とは言えなかった工場長とのやりとりを思い出した。

「猪狭山慶太ねー、あたしも聞いたことないなー」
 妻の敏子が朝食のコーヒーをいれながら言った。
 敏子のいれるコーヒーはいつも薄すぎると、いつも勇一は思っている。
「ほらここまで出掛かってるんだけどってゆう奴なんだ、別にそれを思い出し
たからってどうなるもんじゃないんだけどさ」
 勇一がフライパンの上に卵を落としながら答える。
二人は小学校の時の同級生で、大学卒業と同時に結婚した。三十までは子ども
はいらないといって二人で共稼の暮らしを続けてきたが、今年で二人とも三十
五になる。この頃では子どものいない生活もいいものじゃないかなどと思い始
めている。
「それが誰かって事も気になるけど、変なのはその人がなんで逃げだしたかっ
てゆうことよね」
 敏子がコーヒーを飲みながら言った。
「僕はあの男が誰なのかわからなかったけど、あの男は僕が誰なのかわかった
ってことかな」
 勇一はハムエッグに醤油をかけた。
 新聞を読みながらハムエッグに伸ばした敏子の箸先がとまった。
「ねえ、これだけど、ちょっと気にならない」
 敏子がこれといって指した記事は、普通ならば気もとめないほどの小さなも
のだった。
 二十七日午後七時半ごろ、徳島県徳島市新明町のホテルニュー新明インで東
京都武蔵野市の会社員、鈴本美和さん(23)が首を絞められて死んでいるのをホ
テルの従業員が見つけ110番通報した。徳島署では、殺人事件とみて捜査を
開始した。鈴元美和さんは、前日から同ホテルに宿泊していた。
 勇一は冷めかけたコーヒーをごくりと飲んだ。
「あの手帳、見てみましょうよ」
 敏子が言った。
 勇一は机の引出から手帳を取り出してぱらぱらとめくってみた。
 この手帳の持ち主はおよそ几帳面とは言いがたい人だと思った。ボールペン
であるいは鉛筆で書かれたその文字らしきものは大きさもばらばらならば書い
てある方向もばらばらだった。そしてそのどれもがそれ自体意味をまったく持
っていない言葉あるいは数字の羅列だった。それは雨に濡れてぼろぼろになっ
て道端に落ちている新聞紙を思わせた。もちろん鈴本美和なんてゆう書込はな
かった。いったいどんな人が手帳をこんなふうに使うのだろう。

 その日の昼、勇一は社員食堂で篠崎と一緒に昼食をとった。
 篠崎は勇一より三つ下の三十二だがどんなに仕事にプレッシャーがかかって
いるときでも軽く受け流すようなところがあって妙に気が合った。
「確かに二十七日といえば、僕があいつとぶつかった日には間違いないけど、
それはちょっと考えすぎなんじゃあないんですか、だってその論法でいったら
あの時あの辺にいた人間全部が怪しいってことになってしまう」
「確かにそうなんだ、だから警察にどうのこうのとゆうんじゃないんだよ、で
も気になるんだよね、ほら、あいつが歩いて来た通りってあいつが来た方へ戻
ると、その殺人事件があったホテルがあるんだよね、それにあれは五時ごろだ
ったでしょ、死体が発見されたのが七時半だからつじつまが合わないこともな
い、だいいち気に入らないのはあの逃げだしたときのあわてようなんだよ」
 篠崎は煙草の煙をぷーと大きくはいた。
「猪狭山慶太って言いましたよね、あの男、以外と簡単かも知れませんよ、だ
ってそうある名前じゃあないですよ、猪狭山慶太」
「電話帳か」
 篠崎がにっこり笑った。
 調べてみるとやはり都内には猪狭山慶太は一人しかいなかった。住所は文京
区の白山になっている。さっそく電話をかけてみたがだれもでなかった。
「昼間だもんな、今晩でもまたかけてみるよ」
 勇一がそう言ったところで、一時五分前のブザーがなった。

 その日は定時で帰りたかったのだが、直前になって面倒な電話が入ったおか
げで、仕事が終わって家に着いたのは八時半ごろだった。
 夕食がすむと、早く電話しましょうと敏子がせかした。
「まずその人があなたが徳島で会った猪狭山さんなのか確かめるのが先よ、そ
したらあくまでも落とし物を返したくって電話したってことで相手の反応をさ
ぐらなきゃ」
 敏子はもう猪狭山が犯人だと決め付けているようだ。
 敏子が番号を押し、勇一が受話器を持った。呼び出し音が四回なったところ
で相手が出た。
「猪狭山ですが」
 変に押し殺したような声だった。
「もしもし、三友と申します、人違いだったら申し訳ありませんが、猪狭山さ
ん三日前の火曜日徳島に行かれました」
 電話の向こうでごくりと唾を飲み込む音がしたような気がした。
「ええ確かに行きましたが、それが」
 受話器に耳をつけて話を聞いていた敏子が、にっこり笑ってOKサインを出
した。
「私、駅前の道でお会いした三友ですよ、何だか猪狭山さんお急ぎだったよう
で、手帳落とされて、それをあずかっているもんですから、お返ししなきゃと
思いましてね」
 なにかを考えているような間があった。
「ああ、あの時お会いした方でしたか、それはわざわざ電話していただいて申
し訳ありません。あの時は突然知らない方から声をかけられたものですからび
っくりしてしまって、失礼だけど、三友さんとおっしゃいましたよね、あなた
とはどこの関係のしりあいなんだか私には思い出せないんですが、誰かと勘違
いされているんでは無いですか」
 勇一がつまる番だった。
「正直言って、お顔は存じあげてるんですが、どこで会ったのか今だに思い出
せないんですよ、猪狭山さんの電話番号も電話帳で調べてかけたような次第で
す。手帳にお名前が書いてあったものですから」
「三友さんですか、残念ながら先程も言ったとおり私もあなたと会った記憶が
無いですな」
「手帳ですけど、もしよろしかったらどこかで会いませんか、お互い顔をゆっ
くり見れば、なんだおまえかなんてことになるかもしれませんよ」
「残念ですが、三友さん、私非常に忙しい体でして、どうでしょう、お手数で
すが郵送していただけるとありがたいのですが。もちろん、お礼はさしあげま
す、実はあの手帳気に入って大事にしてたやつなんですよ」
 敵もしぶとい。敏子が新聞チラシにマジックインキで書いたものを目の前に
突き出した。殺人事件、と大きく書いてある。
「ところで、あの日近くのホテルで殺人事件があったんですがご存じですか」
 受話器を持つ手が震えて、体中の毛穴から汗が一度に吹き出るような気がし
た。
「三友さん、申し訳ないが、まもなく仕事の電話がかかってくる予定になって
いるので、長電話はできないんですよ」
 そう言うと彼は自分の住所を言い勇一の電話番号と住所を聞いた。そして改
めて手帳の礼をいい、必ず送ってくれと言って、電話を切った。
 受話器を置くと、緊張が解けてぐったりと疲れた。
「どう思う」
 勇一が言うと、敏子は少し首を傾げた。
「わからない、でも以外と冷静だったみたい」
 正直勇一も彼が本当のことを言っているような気もしたし、なにかを隠そう
としているようにも聞こえた、ただ殺人事件の話をしたときにもしなんらかの
関係した人間であればもっとあわててもいいように思えたのも事実だった。や
はり自分の妄想だったのかもしれない。
 それにしてもと、勇一は思った。なにかが気にかかる、それはほんのちょっ
としたことだが、なにかがほんのちょっと不自然だった。

「それで結局どうするんですか」
 篠崎はそう言うと、紙コップのコーヒーを一口飲んだ。
 三時の休み時間、営業部の部屋のなかは、がらんとしている。
「思いきって警察に届けようと思うんだ、殺人事件と関係ないならないでそれ
でいい、まさか余計なことを言いにきたっていって逮捕されちゃうってことは
無いだろう」
「今日行くんですか」
「いや、今日は仕事が遅くなるし、明日の土曜日にしようと思ってるんだ」
「何かぞくぞくしますね、もしかして何だかいろいろ書いてあったけどあれが
なにか殺人事件の鍵になっているとか、ほらダイイングメッセージとかあるじ
ゃないですか」
「何度も見たけれど、そんなふうには見えなかったなあ、何だか数字が殴り書
きみたいに書いてあったり、朝だとか昼だとか、とにかくまともな意味のある
文章なんてひとつもないんだよ」
「あれ、いま持ってるんですか」
「いや、家に置いてある」
「ねえ、三友さん、あの手帳明日警察に届けちゃうんなら今晩二人であの手帳
を見ながら推理でもしませんか、どうも僕はそれが何かの暗号か何かに思える
んですよ」
 篠崎が、ぐっと身を乗り出した。
「おもしろいけどやめとくよ、事件と何にも関係ないとしたらあの猪狭山って
人に悪いし、もしも事件に関係があるとすれば殺された人の指紋がついてるっ
てことだってあるかもしれないからな、いずれにしろあんまり触ったりしない
方がいいと思うんだ」
 篠崎はつまらなそうにふーんと言った。

 勇一が自宅のアパートに着いたのは十時を十分ほど過ぎた頃だった。
 明かりはついていなかった、やっぱり敏子はまだ帰っていないようだ、小さ
な会社で輸出業務を担当している敏子は帰りが勇一より遅くなることはめずら
しくない、とくに金曜日の夜はほとんど十時前には帰ってこない。やれやれ、
と勇一はドアのノブに手をかけた。
 鍵を掛けたはずのドアがかちゃりと開いた。




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