#1866/3137 空中分解2
★タイトル (GVJ ) 92/ 6/25 11: 5 (176)
ハイ−アングル(前編6) 青木無常
★内容
小さく悲鳴をあげて、美貴はふたたび和晃にしがみついた。
和晃も大きくひとつ身をふるわせた後、音高く舌をうつ。
「こんなときに……」
暗やみに白々しくひびいたその独白に――シャワールームの一角から返答がかえ
ってきた。
「こんなときだから、さ」
ぎくりと身がまえる全裸のふたりにむけて、部屋いっぱいに嘲り笑いがひびきわ
たった。
「だれだ!」
和晃の誰何にもひるむことなく、脳内を占拠せんが勢いで嘲笑は悪夢のようにひ
びきつづけた。
「だれだ!」和晃はもう一度さけんだ。「浄土一族か?」
その質問が、和晃自身に力を与えた。まちがいない。影がとびかうばかりでいま
だにその実態をつかめなかった存在が、いまはじめて目の前にあらわれたのだ。
千載一遇のチャンスだった。
「浄土一族か? そうなんだな!」
言いながら和晃は、荒々しく美貴を背後に追いやっていた。背にかばう、という
勢いではなかった。
「そうだ」嘲り笑いがふいにやみ、声がこたえた。「闇閂の雷蔵という」
「ずいぶんと大時代な名だ」ふてぶてしく和晃は応じる。いつもの調子が戻って
きた。「いまどき忍者でもあるまいに」
「忍者さ。そう呼びたいならな」
「ほう」と、心底おもしろがっている口調で和晃がこたえる。「そんなものが本
気で残っているとはな。ぜひ御姿を拝見したいところだが」
痛烈な拒否がかえってくるはずだという予想は、みごとにはずされた。
「いいとも」
声はこたえ、息をのむふたりの前で火花が散った。
エレクトリックな光が一瞬、シャワールームの内部を幻惑的に照らしだす。
壁にへばりつく高木の死体のわきに、顔があった。
牙をむき、両眼をむきだしにした、凄絶な怒りの形相――能面だ。《天神》――
雷蔵の名にはふさわしかろう。
そのましろい面がうかびあがっていたのは、ほんの一瞬のことにすぎなかった。
その一瞬で、和晃の内部にうかびかけていた力は完膚なきまでにたたきつぶされ
ていた。能面の表情の凄絶さにおびえたわけではない。暗やみに瞬時うかびあがる
《天神》の憤怒の顔はたしかに悪夢のような恐怖を惹起させるにあまりある。が、
それ以上に――仮面の下から噴きつける凍てつく冷気が、和晃の身奥から気力と体
力を根こそぎ奪いさっていたのである。
気――あるいはオーラというもののことなら和晃も知っていた。実際に父を筆頭
とする政財界の大物を眼前にして、そのようなものがたしかに実在すると戦慄しつ
つ実感したことも一度や二度ではない。にもかかわらず和晃は、その能面から噴き
つける気に恐怖した。物理的に。比喩ではない。たしかに、何か肉体を後退させる
目にみえない圧力が間断なく和晃を圧迫しつづけているのだ。
「……素顔じゃないな」
なけなしの気力をふりしぼって、和晃は闇に呼びかけた。
「素顔を見たいかい」
抑揚を欠いた声が問う。
「見せてくれるのか?」
「いいとも」
快諾に眉をひそめる。が、それにつづく言葉に、和晃はさらなる恐怖を強いられ
ることとなった。
「おまえたちの命とひきかえにならな」
覚えず闇中で首を左右にふるった。と――まるで和晃のそのうろたえぶりが目に
見えているかのように刺すような嘲笑が高く低くひびきわたった。
なすすべもなく立ちすくむふたりにむけて永劫ともおもえるほど長いあいだひび
きつづけていたその嘲弄の刃が、ふいに途絶えた。
沈黙をおいて、抑えられた重い声音が低く流れる。
「探求を中止しろ」
和晃は歯をくいしばる。
「断る」
「強制はしない」
「……ほう?」
「自由意志の代償は死だ」
「対抗策はある。通じるかどうかは、わからんがな」
ブラフに対する反応は冷たい笑声だった。
「ではおまえのいちばん大切なひとにその策を配しておけ」
かたく握りしめた拳のうちに、じっとりと汗がにじんでいた。食いしばる歯がぎ
りりときしむ。そして、背筋には戦慄が。
「母は死んでいる」
「そこにいる秘書はどうだ? それとも、正妻のほうにするかね? こどももふ
たりいる。七つと四つ――かわいいさかりだな」
いままでのやり口からして当然予想される言葉とはいえ、実際に目のまえで口に
されてみれば想像をこえた効果で和晃を衝いた。そしてさらに――
「それとも妹が奇禍に遭遇する、というのはどうだ? おまえとあのあざみとか
いう三十女とはとりわけ深いつながりがあるからな。どうだ? 愛していながら憎
悪し、嫉妬する相手を喪うというのは、格別ふくざつな衝撃を呼ぶだろうな」
声もなく和晃が硬直する気配が、肌を刺すようにして美貴に噴きつけてきた。
は、は、は、と、おもしろくもなさそうな笑い声が反響する。
「これはかなわない。おれの面は《天神》だが、おまえの秘書は《般若》の形相
をしているぞ。まこと、すさましきは女人の蒼白き嫉妬の炎哉、は、は、は」
火花がおどった。ストロボのように、連続する静止画像が明滅する。青白いスパ
ークが飛び散るたびに、能面はせまくるしい室内のあちこちに移動していた。黒装
束につつまれた姿勢は微動だにせず、眼前に、頭上に、背後に、壁に床に天井に、
白い能面はおどりつづけた。
それがふいに、けたたましい残響と残像をのこして消失した。
タールのように重く粘る静けさだけが、シャワールームに充満した。
からめとられたように和晃も美貴もたたずんだままだった。
5
家で休んでいろという和晃の言葉を無視して美貴は、しばらく動かしていなかっ
たサンタナのエンジンに火をいれておく意味もこめてひさしぶりの休日を屋外です
ごすことにした。
ふりそそぐ夏の陽ざしにてりつけられながらぎしぎしときしむ車をはしらせてい
るうち、ふしぎに気分が高揚していく。すこし調子の悪いオーディオシステムも奇
妙な愛敬をおぼえさせて、ここ数日の混沌とした状況を忘れさせてくれるのに役だ
っていた。
いきさきを決めずにとびだしたが、五日市街道ぞいに車をはしらせているうちに
ふと奈良場教授の家が近くにあることを思い出し、喜平橋のてまえで車を右折させ
た。家族とは一面識もないし、教授自身はまだ葉山の宿に居をさだめているのも知
ってはいたが、かまわなかった。目的地など最初からないし、帰りには小金井公園
にでもよっていくのがいいだろう。
団地内に下駄ばきで車をとめて手近のベンチに腰をおろし、わめきたてる蝉の声
に耳かたむけながらキャビンマイルドに火をつける。そしてのんびりと、天にくゆ
りながら立ちのぼっていく煙草の煙を眺めた。
そうしてどれだけの時間、なにも考えずぼんやりと時をすごしていただろう。ふ
と気づくと前方の歩道を制服姿の少女がひとり、歩きすぎていくところだった。平
日、学校の終わる時間帯だ。三時間ちかくをそこですごしたことになる。あわてて
立ちあがりかけ――よぎりつつある少女の顔を見て硬直した。
久美だった。さらわれていたはずの教授のひとり娘だ。直接顔を見たのは初めて
だが、以前教授の研究室をおとずれたときに見た家族写真のなかの少女の笑顔はい
までもよく覚えている。声をかけようかと躊躇しているうちに、少女の姿は団地内
に吸いこまれていった。
学校帰り、という雰囲気だった。すくなくとも数時間前まで監禁されていたらし
き様子など微塵も見あたらない。いつ帰ってきたのだろう。教授から報せがとどい
た時点で、和晃から美貴へは間をおかず報せがとどくよう依頼してある。というこ
とは久美が帰ってきたのは早くとも今日の午前中。
少女特有の生命力のなせる技なのか。それとも見かけだけなのか。あるいは――
あるいは、すべては教授の狂言だったのか。奈良場教授が嘘をついていたとは思え
なかった。だがきのう会ったときの教授からはたしかに、おぼろげながら違和感を
感じさせられもした。久美のことを一言も口にしなかったのは教授の決意とやせが
まんのせいだと考えていたが、そうではないとしたら? 教授になにか、自分たち
に秘密にしておかねばならないようなものがあるのだとしたら?
思考はからまわりし、小さなしこりのようなものだけが胸の奥に残された。帰っ
て大神和晃と教授に電話すればいい。しいてそう納得させたが、違和感は去らなか
った。
うわの空でポーチの内部をさぐる。とりだした煙草の中身は、からだった。脱力
にベンチに深く背をあずける。
コンクリートを硬質にうつハイヒールのひびきが、ゆったりとしたリズムで下降
してくる音を意識のすみでおぼろげに耳にしていた。その音が美貴の無意識をしき
りにうながした。重く痺れた意識に鞭をいれて、久美が消えていった建物への出入
口に目をむける。
白い冷気が、頬をかすめすぎたような気がした。
胸もとの切れこんだ純白のロングドレスがふわりと風に舞う。病的なまでに白い
すきとおるような肌は、ふきつけるような暑気の許にありながら汗をにじませてさ
えいない。プラチナブロンドの髪は白髪と見まごうほどに淡く、色素のうすい青の
瞳は空洞のように虚ろだった。
女は出入口の境、光と陰が境界をなす位置にたたずみ、聞こえぬなにかに耳をす
ましてでもいるようにしばし時を静止させていた。
蝉の声が遠のいていた。
なにか哀しい風が、美貴の胸をかすめすぎていった。広大で痩せた、凍てつく冬
の英国の大地を思わせる風だった。両親におきざりにされたこどものようなたより
ない寂寥感が美貴をおしつつみ、おぼえず両腕で胸をかき抱いていた。
幻惑の彼方から渦をまきながら蝉の声と暑気とがよみがえったとふと気づいた時、
美貴はおのれにかかる影に気づいて心ぼそく目をあげた。
女が眼前にたたずんでいた。
ひっそりと。
はかなげに微笑む女の顔を、美貴は呆然と見あげた。二十七、八、西洋人にして
は小柄で奇妙におさない雰囲気がある。青い目はあいかわらず虚ろだったが、冷気
はぬぐいさったように消えていた。
「オーガ?」
微笑みながら、女が訊いた。最初はなんのことだかわからなかったが、「大神」
のことだと思いあたり首を左右にふる。
「大神の秘書よ。どこでその名前をきいたの?」
英語でそう訊きかえす。女は小さく肩をすくめ、
「オーラを感じたの」と答えた。
「オーラ? どういうこと?」
質問には答えず、女は奇妙なことを言った。
「手をひきなさい。殺されたくなければ」
悪寒が背筋をはしった。幾度となく聞かされてきた言葉だった。
「あなたも……」信じられぬ思いで、美貴はたずねた。「あなたも、浄土一族の
人間なの……?」
女は静かに首を、左右にふった。
「クミは救いだしたわ。記憶もでき得るかぎり修正して、傷が残らないようにし
ておきました。でもこれ以上は無理です。手をひきなさい」
言葉は予言のごとく美貴の胸に沁みとおった。
それを見てとったのか、女はやにわにくるりとふりかえり、立ち去ろうとした。
「待って」
おもわず半身をうかせながら呼びかけ、ふりむいた青い目に見すくめられた。
このひとは盲目なんだわ――焦点のあわない、それでいてひとの心の奥底まで見
透してしまいそうな淡いブルーの双眸を見て、美貴ははじめてそのことに気がつい
ていた。
つづく言葉は視線にうもれ、女はもう一度「手をひきなさい」とつぶやくように
告げてから危なげない足どりでその場をあとにした。
とりのこされて美貴は、長いあいだ呆然としたままだった。